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6. 山水無尽蔵 小島烏水(こじまうすい)/1906/隆文館/312頁


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表紙
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風景 丸山晩霞
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風景 丸山晩霞
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小島烏水(1873-1948) 本名久太、銀行家、登山家、文筆家、浮世絵研究家
 高松市に生れ、のち父の勤務の関係で横浜へ移住。明治25(1892)年、横浜商業学校卒業し、横浜正金銀行入行(のちの東京銀行)。早くから文筆に興味を持ち学生時代は雑誌「学燈」を編集、卒業後は勤務のかたわら文芸雑誌「文庫」記者として活躍、明治30年代の青年文壇にあって文芸批評、社会経済批評、山岳紀行を精力的に発表。
 明治27年に発行された志賀重昂「日本風景論」の未知の高山の紹介記事に触発されて、当時ほとんど知られていなかった中部山岳に足跡を印した。明治32年、かねてより念願であった本州縦断の山旅に出て、保福寺峠、稲倉峠、諏訪湖を経て木曽街道を下っている。翌年には高山から乗鞍岳に登っている。明治35年8月、岡野金次郎と共に白骨温泉から霞沢を越えて槍ヶ岳に登り、この時の紀行「鎗ヶ岳探検記」を「文庫」に連載して当時流行し始めた登山熱を高揚させた。明治36年、「日本アルプス 登山と探検」の著者、W.ウェストン師と偶然のことから知り合い、彼の助言をうけて明治38年10月、仲間7人と共に日本山岳会(当初はイギリスのアルパインクラブに倣って単に山岳会と云った)を創設して初代会長となる。
 「日本アルプス」全四巻を刊行後の大正4(1915)年、正金銀行サンフランシスコ支店ロスアンゼルス分店長として渡米、のちサンフランシスコ支店長に昇格、昭和2(1927)年まで11年余アメリカに在勤した。滞米中にはヨセミテ渓谷、シャスタ、マウンテン・フッド、ベーカー峰などに登る。「氷河と万年雪の山」(1932年)は烏水のアメリカ生活がもたらした記念碑的著作である。
 浮世絵、西洋版画の収集・研究のパイオニアとしても知られ、著書に「浮世絵と風景画」「江戸末期の浮世絵」がある。収集品の内900点余りは横浜美術館に収蔵されている。1948年12月23日没、74歳

内容
 烏水はかねてから本州横断の山旅を念願していたが、明治32年10月、浅間山に登ってから保福寺峠(松本・上田間)、稲倉峠(シナグラ峠、松本市)を越えて、松本から諏訪湖を訪ね、さらに木曽街道を下った。つづいて明治33年10月、高山から乗鞍岳に登り、北上して富山へたどり着いた。明治35年8月には上田、松本、白骨温泉を経由して霞沢を遡上して稜線を越え、梓川から槍ヶ岳を極め、鎌田川右股を下った。
 本書にはこれらの旅の紀行文、「浅間山の煙」「秋の木曽街道」「乗鞍岳に登るの記」「飛騨縦断記」「日本海の紅」、これらの紀行の延長線上の輝かしい記録「鎗ヶ岳探検記」の6編が収録されている。

 その「鎗ヶ岳探検記」の冒頭に烏水は次のように書き、はげしい登高意欲を燃やしている。
「余が鎗ヶ岳登山を思い立ちたるは一朝一夕のことにあらず。
何が故に然りしか。
山高ければなり。
山尖りて嶮しければなり」
 烏水は3年の間心をとらえて離さなかった槍ヶ岳登頂を明治35(1902)年8月、友人岡野金次郎と果たすことができた。「鎗ヶ岳探検記」はその時の紀行文である。
 明治35(1902)年8月、延伸開業されたばかりの篠ノ井線で松本を目指すが、豪雨出水のために田澤で停車、雨中を歩いて松本に到着する。翌朝、飛騨街道を島々に入った。計画ではここで案内人に猟師を雇って徳本峠を越えて上高地へ入ることにしていたが、陸地測量部の仕事に猟師、人夫が動員されていて案内人が得られないまま稲核に足を延ばして1泊する。ここからさらに檜峠を越えて白骨温泉に2泊、ここで案内人2人を雇って沢渡から“険絶悪絶を極めたる”霞沢を遡行、稜線を越えて梓川へ出た。
 翌8月16日、梓川をさかのぼり、赤沢の岩小屋に荷を置いて頂上を目指すが、悪天候で果たせなかった。翌日、快晴に恵まれながら岩小屋を出発、ついに登頂を果たす。
「おののく足を踏みしめつ、三角測量標を建てたる一皴峰に蝸附して上がる、絶巓より突兀たると二百尺、胆沮みて幾回か落ちむとしてはしがみつき、瞑目して漸く攀ぢ了りたるところ、我が鎗ヶ岳の最高点にして、海抜實に一萬一千六百五十二尺、山は遠く遠く塵圏を隔てて、高く高く秋旻に入り八月炎帝の威、今果たして幾何ぞとばかり----------。」
 このあと蒲田谷右股を下った。上から見たところ下山は簡単そうに想えたが、辛酸を味わうことになる。一行が蒲田の部落に到着したのは夜中になってであった。
「ここに至りて一行大いに沮み、進むに能わず、退くに術なし、時計を検すれば、午後二時夏の、日長しと雖も、甕の底の渓谷なればにや、黄昏に近きたるかとおもはるるまで光弱く、霞ははや谷を渉りててしろく、渾沌としてただ急瀬雷吼の如くおどろおどろと鳴りはためくを聞くのみ、然れども蒲田の荒村は未だ何里の先にあるかを知らず」
 翌日、高原川に沿って北上、神岡経由富山へ出た。

 「秋の木曽街道」は中央線開通以前の木曽路の情景を描いている。鳥居峠を越えようとして奈良井宿に泊まった翌朝のこと、
「褞袍を着たる婆さま入り来たり、『お客様、よべちょっくら寝せられたかの、けさは十三夜荒れだんで、えら寒気がしずらあ』といひながら、障子を開けて裏の山を見上げ、『早いの見なされ、山は雪であらず』といふに、起き直りて、眩ゆくさす朝日に、手を額翳しながら仰げば、淙淙として刃を研ぐごとくに流れて行く渓水を障てて、聳えたる山は、布のごとき一簇の雲を擁して、頂は雲を冠れり」
 鳥居峠頂上で御嶽はじめ信濃飛騨国境に新雪をかぶって連なる山々の景観を楽しんだ。

参考文献
1.不二山 小島烏水/1905/如山堂
2.小島烏水全集 全14巻/編集近藤信行ほか/1979〜1986/大修館
3.日本アルプス 1〜4 小島烏水/1975/大修館(復刻版)
4.アルピニストの手記 小島烏水/1975/三笠書房(復刻版)
5.日本山嶽志 高頭仁兵衛/1906/博文館
6.小島烏水‐山の風流使者伝 近藤信行/1978/創文社
 
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