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2. エヴェレスト登山記 フランシス・ヤングハズバンド 田辺主計訳 1931年 第1書房
原題:The Epic of Mount Everest/  /Francis Edward Younghusband


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表紙と内表紙
表紙と内表紙
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キャラバン・ルート図
キャラバン・ルート図
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ノース・コルと北東山面
ノース・コルと北東山面

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第1次遠征隊員,後列左より2人目:隊長ハワード・ベリー大佐、前列左端:ジョージ・マロリイ
第1次遠征隊員,後列左より2人目:隊長ハワード・ベリー大佐、前列左端:ジョージ・マロリイ
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最後の挑戦に酸素ボンベを持ってノース・コルを出発するマロリィとアーヴィン
最後の挑戦に酸素ボンベを持ってノース・コルを出発するマロリィとアーヴィン
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第3次隊ベース・キャンプとエヴェレスト
第3次隊ベース・キャンプとエヴェレスト


ヤングハズバンド(1863-1942) 英国軍人、探検家、著述家
 1863年、インドのムレー(現パキスタン)に軍人の第2子として生れる。13歳で英国へ留学、1861年、陸軍士官学校に入学。1882年(19歳)、インド近衛騎兵連隊(ラワルピンジ連隊)に入隊。1890年からインド政庁政治局に移り、カシミール、中央アジアの諸地方に駐在する。
 その間に多くの探検を行なう。主なものでは1886〜87年、満州から北京を経てゴビ砂漠を横断してハミへ、さらにカシュガル、ヤルカンドを経て、当時通行不能といわれていたムズターク峠を越え、インドへ出て、アジア大陸横断の快挙を達成した。1889年にはパミール、カラコルム地域の探検を行なった。1890年には中国語の通訳官ジョージ・マカートニー(後のカシュガル総領事)と共に、カシュガルに派遣され、英国外交通商部を開設した。
 1903年、当時鎖国状態にあったチベットとの交易・外交交渉のための使節に任命されてチベットに入り、カンパ・ゾンでチベット代表と交渉するも決裂。翌1904年、英印軍を率いてラサへ武力進撃し、ポタラ宮で英蔵交渉を締結した。この時の武力衝突では4,000人のチベット人が殺されたという。その後、英本国の対チベット政策変更により、この時の武力衝突の責任をとらされて,軍を退官する。
 1919年、英王立地理学会会長に選出される。1920年、地理学会とアルパイン・クラブの共同事業として、エヴェレスト登山計画を発表、自身はエヴェレスト委員長に任命され、第1次〜第3次登山隊派遣に貢献する。1917年、インド上級勳爵士(KCSI、Sirの称号)を授与される。晩年は経済的に家庭が崩壊するなど恵まれなかった。第2次大戦下のロンドンで信仰生活を送り、1942年79歳で逝去。

内容
 イギリスは1953年5月29日のエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイによるエヴェレスト初登頂まで、戦前はチベット側から7回、戦後はネパール側から2回、遠征隊を送った。
 本書はヤングハズバンドがエヴェレスト委員会の要請により、第1次から第3次までの登山記録を公式報告書を基に取りまとめたものである。
 1920年代にネパールが鎖国していた為に、ダージリンからシッキムを経由、チベットを大回りしてエヴェレスト北面から初登頂に挑んだイギリス人達の苦闘の記録である。彼らはツイードの背広上下を着て、足にはゲートルを巻き、鋲を打った登山靴で足を固め、手にはピッケル1本、固定ロープも張らず、ついには8,572mにまで達した。1次〜3次の中心的メンバーで、ついに帰らぬ人となった伝説的クライマー、ジョージ・マロリイについての記述は感動的である。田辺主計の翻訳のうまさもあって、出版から80年経った現在読んでも印象深い書である。

 29章からなるが、第1章でヤングハズバンドは、本書執筆の意図を次のように記す。
「マロリイとアーヴィンの登攀は如何にして行なわれたか。又如何にしてノオトンが酸素補給器を携えないで二萬八千百呎(8,572m)の高さに、同伴のソマヴェルはその百呎下に迄、又オデルもやはり酸素を携えずに二度も三度も二萬七千呎(8,321m)の高度に登り得たか。-------も少し人夫が十分に使えたら恐らく頂上に達することが出来たのであったろう---------。又、ヒマラヤの人夫たちが二萬七千呎の高所に荷物を担ぎ上げたのはどんなであったろうか。帰途二萬一千呎(6,400m)の高所に於いて一行が稀に見る激烈な吹雪と零下二十四度に下がる寒気とによって、どんなに悩まされた事か。更に、又、ノオトン、ソマヴェル、マロリイが二萬三千呎(7,000m)の氷河上に取り残された四人のヒマラヤ人夫を救いに引き返した為、彼らの最も肝心な力を犠牲にしてしまったか。私は是等の事柄をこれから述べて行こうと思う。」(第1章マウント・エヴェレスト)

 1921年の第1次隊は、本格的な登頂の為の準備偵察であった。東ロンブク氷河からノース.コルへのルートを開き,北東尾根を使っての登攀の可能性を見極める事ができた。

「エヴェレスト頂上に到達する最大の障害はここに征服された。ノース・コルへの路は発見されたばかりでなく、かやうにして実際に踏査された。ここから、マロリイはノース・フェイス・エッジをノース・イースト・リッジまで眺めることが出来、この路が最早登り得べきものである事を確かめた。」(第8章ノース・コル)

 1922年の第2次隊は、マロリイ、ソマヴェル、ノオトンが無酸素で8,225mに到達、更に酸素を使ったフィンチ、ウェイクフィールド、ブルースが8,321mと頂上まであと500mに迫った。しかし、3回目の挑戦では人夫7名が雪崩に巻き込まれて死亡、そのため止む無く撤退することとなった。

 1年おいて1924年の第3次隊は、4月30日東ロンブク氷河の末端にBCを設営した。第1回、第2回アタックは猛風雪の為にノース・コルに到らず敗退。第3回は、6月1日にマロリイとジョージ・ブルースが7,710mに第5キャンプを設営し前進しようとしたが、シェルパが恐怖の為に登高を拒否、荷揚げが叶わず挫折する。代わって第5キャンプを出発したソマヴェルとノオトンは、新たに編成した人夫の協力で8,170mに第6キャンプを設営、翌日無酸素でイエローバンドに沿って進み、大クーロアールに達し、これを8,572mまで登ったが、これが体力の限界であった。この高度は1952年のスイス隊によって更新されるまで30年近くの間、人類が自分の足で達した最高の高さであった。

 6月8日、今度は再びマロリイが若いアンドリュウ・アーヴィンと共に重い酸素ボンベを背負って第6キャンプを出発した。登路はイエローバンドではなく、北東尾根沿いであった。2人を支援する為に食料を持って第6キャンプへ向かっていたノエル・オデルは、7,900m付近から霧のわずかな晴れ間に北東尾根の一角を登攀する二人の人影を見た。その直後に霧は二人の人影を隠してしまった。それっきり、マロリイとアーヴィンが戻って来なかったのは、登山史上あまりにも有名な話である。

「オデルが二萬六千呎(7,900m)のとある断巌の上に立った時、突然、あたりの霧は晴れわたり、密雲は切れた。そしてエヴェレスト全山稜、最高ピラミッドは彼の眼前に全景を露した。雪坂の上に一つの小さな物影が動いて岩場に取り付こうとしているのが見えた。もう一つの影がそれを追って行く。第1の物影は足場の頂によじ登った。なほも彼は一心にこの劇的な光景を見守っていると、再びあたりは密雲に包まれてしまった。そしてこれがマロリイとアーヴィンとの最後の姿であった。それから後のことは統べてが不可解である。」(第25章マロリイとアーヴィン)
 第29章「エヴェレストは征服しうるか」でヤングハズバンドは、これらの遠征隊に参加した者達への敬意を込めて次のように述べている。
「最早、何れの日か、人がエヴェレスト山巓を獲得しうることは疑うところでない。しかし、その山巓に初めて立ち得る者が、エヴェレスト全山を足下に踏む瞬間、その心にしっかりと感ずることは、彼の勝利が先の開拓者に負うところの如何に大であるかをであろう。彼の名声は世界最高峰山巓を初めて獲得し得た者として後世に伝えられるに相違ない。しかし、それと共に、マロリイ、アーヴィン、ソマヴェル、オデル、また豪強な精神と体力とをもってはじめてエヴェレスト山巓争奪に向かい得る距離にまで天幕を運び上げ得た人夫ナプボ・イシエイ、ラクバ・チェディ、セムチュンピの名声も伝えられなければならない。」

 エヴェレスト委員会が待ち望んだ第4次遠征に対するチベット政府の許可は、第3次遠征から実に9年後の1933年にようやく実現した。エヴェレスト委員会の再三の申請にも拘らず、チベット政府が許可をしなかった理由は、隊員の規定のルートを外れた行動(学術調査など)、映画興行に利用する為にラマ僧をチベット政府の許可なしに連れ出したことなどで、チベット政府がエヴェレスト委員会に不信感を持ったからだと言われている。


山岳館所有の関連蔵書
1)ヤングハズバンド著作
  • The Light of Experience/1927/ロンドン
  • The Epic of Mount Everest/1929/ロンドン
  • エヴェレスト登山記/田辺主計訳/1931/第1書房
  • エヴェレスト登攀/田辺主計訳/1936/第1書房
  • ゴビよりヒマラヤへ/筧太郎訳/1939/朝日新聞社
  • カラコルムを越えて/石一郎訳/1967/白水社
2)その他関連
  • Mount Everest:The Reconnaissance, 1921/Lieutenant Col. C.K. Howard-Bury and other members of the Mount Everest Expedition/1929/ロンドン
  • The Fight for Everest: 1924/By Lieutenant Colonel Norton, E.F. and other members of the Expedition/1925/ロンドン
  • Everest 1933/Hugh Ruttledge/1934/ロンドン
  • Through Tibet to Everest/Captain Noel,J.B.L. /1927/ロンドン
  • The Story of Everest/Captain Noel,J.B.L/1927/アメリカ
  • George Mallory/David Robertson/1969/ロンドン
  • Everest Reconnaissance-The First Expedition 1921/Mallory,G. Robertson,D./1991/ロンドン
  • エヴェレスト探険記/ヒュー・ラトレッジ/高柳春之助訳/1941/岡倉書店
  • キャンプ・シックス/スマイス,F.S/伊藤洋平訳/1959/朋文堂
  • エヴェレストへの闘い/ノートン, E/山崎安治訳/1968/あかね書房
  • マロリー追想/パイ, D/杉田博訳/1972/日本山書の会
  • 遥かなりエヴェレスト−マロリー追想−/島田巽訳/1981/大修館書店
  • そして謎は残った−伝説の登山家マロリー発見記/ヨッヘン・ヘンブレムほか/梅津・高津訳/1999/ 文芸春秋社
  • エヴェレスト初登頂の謎 ジョージ・マロリイ伝/ホルツェルほか/田中昌太郎訳/1988/中央公論社
  • マロリーは二度死んだ/ラインホルト・メスナー/黒沢孝夫訳/2000/山と渓谷社
  • ヤングハズバンド伝−激動の中央アジアを駆け抜けた探検家/金子民雄/2008/白水社
  • 他エヴェレスト関係多数
 
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