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16 カムチャツカ発見とベーリング探検/エリ・エス・ベルグ/小場有米訳/1942年/龍吟社 414頁
原題:Otkrytie Kamchatki i ekspeditsii Beringa 1725-1742/Lev Semenovich Berg


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箱と表紙
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チュクチ方面 デジネブの航海
チュクチ方面 デジネブの航海
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色丹島アイヌの所持品
色丹島アイヌの所持品

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ベーリングとチリコブの探検航路図
ベーリングとチリコブの探検航路図

エリ・エス・ベルグ(1876−1950) 地理学者、生物学者
 キシニョフ市(ソ連邦モルダビア共和国首都)に近いドネストル河畔の町ベンデリアで、公証人の子として生まれた。1894年にキシニョフの中学校からモスクワ大学物理数学学部へ進学、学生時代から才能を発揮して教授陣の注目の的であったといわれている。1898年、卒業して地理学・民族誌学のアヌーチン教授の紹介により西シベリアの湖沼調査へ赴く。
 翌99年にはトゥルケスタン(カザフスタン)へ行き、シル=ダリア、アラル、中部ボルガ地方の魚類調査を行った。1903年、ノルウェーに滞在し、そこから再びトゥルケスタンへ行き、バルハシ湖とイスィク=コル湖の湖沼調査に従事。
 1904年から10年間、ペテルブルグ(現レニングラード)の学士院動物学博物館の魚類・爬虫類部主任を務め、主としてトゥルケスタン各地とアムール河沿岸の魚類研究に専念し、特にアムール川の淡水魚類の研究は有名である。
 1914年からモスクワ農業大学で魚類分類学教授、1922〜34年、応用魚類分類学科主任をつとめた。同時に科学アカデミー動物学研究所の研究員も兼任、魚類部門の部長として指導的役割を果たした。ベルグの「魚類分類法―現有魚類と化石魚類」(1940年)は、世界的に有名なすぐれた分類指針とされている。
 1926(昭和元)年11月、東京で開かれた太平洋問題をテーマとする第三回国際会議にソ連科学アカデミー代表団の一員として来日した。
 1928年〜30年にかけてキルギス、天山山脈、イスィク=コル湖などを再調査し、1942年〜44年にかけてカザフスタンの湖沼研究を行っている。
 1940年にソ連邦地理学協会の会長に推挙され、没年の1950年まで務めた。没後の1951年にスターリン賞を贈られている。
 ベルグは一言にして云えば地理学者であり生物学者であるが、個別的テーマは氷山、氷海、淡水魚類、湖沼、砂漠、魚類層、生物進化論、景観地理学などと幅広く、しかも第1級の旅行者、探検家として学術性の高いフィールドワークを展開した。


内容
 本書は二十世紀におけるソ連最高の学者の一人として知られるベルグが、ベーリング(Vitus Jonassen Bering 1681-1741)の探検とカムチャツカ発見の成果について、さらにロシアの日本と千島列島に関する初期の諸情報、シベリア探求の系譜、動植物・博物学・民俗学などについても幅広い視野で探究したもので、1924(大正13)年に初版が発行された。

 ベーリングの探検は、第1次(1725−30)と第2次(1733−42)に及ぶ大探検であり、本書の大部分はベーリングの探検とそれに付随する事柄で占められている。ベーリング海峡と呼ばれている現在のアジア・アフリカ両大陸間をベーリング自身は正確な認知のもとに通過してはいないし、同海峡以北の水路を確認したわけではない。この点についてベルグは次のように述べている。
「ベーリングは、十五日(注:1728年8月)北緯六十七度十八分に達した。ここではすでに陸地が見えなくなったので、アジアはアメリカに連続していないことを発見し、而して課題を解決したものと思い込み、帰還の命令をくだしたのであった。〜中略〜 かくの如く、ベーリングはアメリカの海岸を見届け得ず、またアジアの海岸は、これをその西方へ廻り得ることを確証し得なかったのである。」
 ベーリング以前の1648年にコルイマ河口から海峡を通り太平洋に出口を持つアナドウイリ河口までを初めて航海したセミョーン・デジネブ(Semyon Ivanovich Dezhnev 1605?−1673?)についてベルグは次のように賞賛している(図:チュクチ方面デジネブの航海参照)。
「17世紀中葉に成就されたコルイマからアナドイルへの英雄的航海に関する報告を読んで、われわれは、当時の人が如何に大胆であったか、また自己の事業について如何に精通していたか、ただただ驚嘆するのほかない。〜中略〜 十七世紀の先輩航海者たちはコッチ舟―それほど大きくない底の浅い帆船、而もただ風をたよりに走る帆船を操って北氷洋を航海したのである。」
 ベーリングの第2次探検で特筆すべきは「元文の黒船」と呼ばれたロシア船アルハンゲル・ミハイール号(隊長はベーリング支隊のマルティン・シュパンベルグMartyn Shpanberg)の日本沿岸寄港(1738年6月18日)とクリール(千島)列島、特に南千島(ハボマイ、シコタン諸島を含む)の調査である。元文の黒船来航は日本政府がロシア帝国の存在を公的に認識した最初であった。
 「シュパンベルグは報告書において日本人の相貌を次のように記している‐‐‐‐‐‐『彼ら日本人は中背であるか、または小柄である。衣服はタタールのそれにそっくりである。跣足で歩く。ズロースもズボン下もはいていない。脳天から額にかけて髪を剃り、その代わりに糊で毛を貼りつけており、また後頭部にはつき上がった髪束を結びつけている。‐‐‐‐‐』と。」
 1741年7月4日、ベーリング率いる聖ピョートル号と聖パーヴェル号(隊長チリコブ、ベーリングの第一補佐役)はアメリカ大陸を目指してカムチャツカを出発した。1月半後。聖ピョートル号はアラスカ南岸カヤーク島に到達、暴風に流されて途中ではぐれた聖パーヴェル号はアレキサンダー諸島に到達する。帰路、聖ピョートル号は南西に向かい千島列島シュマージン島に立ち寄って1週間を過ごしたのち、カムチャツカに向うが、途中で嵐に遭い航行不能となって無人島(のちベーリング島と命名)に漂着する。此処で多くの隊員が壊血病のため死亡し、ベーリングも不帰の人となった(図:ベーリングとチリコブの探検航路図参照)。
「十二月八日、夜明けに先立つこと二時間、カムチャツカ探検隊長ベーリングは半ば土に身を埋めたままついに永眠した。彼は土に身を埋めただけで暖かみを覚え、決して土を取り除かせなかったのである。彼は末期に至るまで全然意識を失わなかった。〜中略〜 ベーリングの墓地ははっきりしていない。聖ピョートル号の乗組員77名のうち一月八日までに三十一名が死亡した。生き残った四十六名は島に止まり、九ヶ月の間、砂を掘り帆布をかけた穴室の中で生活していた。」
 生き残った隊員たちは大破した船の残骸で小型の船を作って脱出、1742年8月、カムチャツカにたどり着いた。
 一方、途中ではぐれた聖バーヴェル号はアラスカ到着後、北西に針路をとりアラスカ半島、アリューシャン列島沿いに西行、10月10日、カムチャツカ出港から1年3か月ぶりに帰還した。しかし、隊員75名のうち生還できたのは49名に過ぎなかった。

 本書は今から200年前に航海に命を懸けた男たちの物語で、21章400頁の大著である。内容は現在では検証し尽くされている既知の探検であるが、彼らの死闘には現在読んでも心を揺さぶられる。



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