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6.ヒマラヤに挑戦して-ナンガ・パルバット1934年登攀 フリッツ・ベヒトールト 小池新二訳 1937年 河出書房
原題:Deutsche am Nanga Parbat-Der Angriff 1934/Fritz Bechtold


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表紙・内表紙
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見開き(親しき山の友へ送る)
見開き(親しき山の友へ送る)
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ベースキャンプの隊員達
ベースキャンプの隊員達

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トナンガとメルヘンウィーゼ
ナンガとメルヘンウィーゼ
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ナンガ北壁とラキオト氷河
ナンガ北壁とラキオト氷河
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チョンラピークより見たナンガ
チョンラピークより見たナンガ


フリッツ・ベヒトールト( −1962)登山家
 ウィリー・メルクルの僚友としてアルプスとコーカサスで鍛えたのち、前後4回もナンガ・パルバットに挑んだ。第1回目は1932年のドイツ・アメリカ遠征隊で、メルクルが隊長の強力な登山隊であった。しかし、モンスーンの降雪でラキオト・ピーク西の約7,000mの稜線までで撤退。2回目は1934年でこの時もメルクル隊長の副将格で活躍。しかし、メルクル他3隊員とシェルパ6人の犠牲者を出した。この悲壮な登山の一切を本書で報告している。1937年、カルロ・ヴィーン隊長率いるドイツ第3次隊の総勢16名が大量遭難するという知らせに接し、バウアー、クラウスと共に急行し、その捜索に当たった。翌1938年、バウアー率いる第4次隊に参加したが、悪天候のためシルバー・ザッテルに達することが出来ず、7,300mで引き返した。
 ベヒトールトが撮影した同名の記録映画「ヒマラヤに挑戦して」を東和商事が輸入し、1938年日本国内で上映された。

内容
 ドイツはナンガ・パルバットに1932年、1934年、1937年、1938年、1939年と戦前5回の遠征隊を送ったが何れも失敗、戦後1953年になって独墺合同隊のヘルマン・ブールがようやく初登頂を果たした。本書は隊員3名、シェルパ6名が遭難死した1934年第2次隊の記録であるが、隊長のウィリー・メルクルも遭難死したため、副将格のベヒトールトが、自分の記録と隊員達の日記、連絡メモなどを基に著したものである。原題の和訳は「ナンガ・パルバットのドイツ人」であるが、東和商事が輸入したベヒトールト撮影の記録映画の題名が「ヒマラヤに挑戦して」であったために、本書も同名にして宣伝したいと書店から頼まれ、やむを得ず同意したと訳者が「跋」に書いている。

 序でベヒトールトは次のように述べている。
 「ここに提供するのは、事件の経過の大要を述べた日記の抄録に過ぎない。本文の簡単なのを補って、挿絵がその課題の困難とその素晴らしい魅力を伝え、我が同僚がその生命を捧げた目標を明確に示すであろう。この目標のためには、我々は更に闘う覚悟である」
 1932年、ウィリー・メルクル(1900-1934)は、ドイツ人6人、アメリカ人2人からなる合同登山隊を組織、北面のラキオト氷河からの登頂ルートを発見し、C7(6,970m)までキャンプを進めたが、天候の急激な悪化のため、むなしく下山せざるを得なかった。1年おいて1934年、その頃独墺山岳会として一体となっていたドイツとオーストリアの先鋭登山家達は、再びメルクルを隊長とした強力な登山隊を送った。メルクルの友人で最前衛の第1級登山家として勇名を馳せたヴィロ・ヴェルツェンバッハ、前回の遠征に参加したベヒトールト、シュナイダー、アッシェンブレンナー、ミュルリッター、ドレクセルなど計9名の錚々たるメンバーと医者1名、学術班3名が参加した。5月17日、メルヘン・ヴィーゼ(お伽の森)に達し、前回のルートを踏襲して攻撃を開始した。その直後にC2でアルフレッド・ドレクセルが急死すると言う不幸に見舞われたが、体勢を立て直して攻撃を再開、ラキオト峰(7,074m)直下にC6を建設、7月6日、シルバー・ザッテル(銀鞍)の難関を突破して、その上のプラトーにC8(7,480m)に建設した。そしてあと1日で目的が達せられると確信した。

 しかし、その夜から激しい暴風雪がテントを襲った。翌日も天候は回復しない。生命の危険を感じるようになり、7月8日、ついにメルクル隊長は下山を決意する。しかしその下山行は悲惨な結果をもたらした。シュナイダーとアッシェンブレンナーは先行して下山、かろうじて前進のC4に到達、ベヒトールトら支援隊員に迎えられた。
 先行隊員から遅れること僅か2時間後、本隊のメルクル、ヴェルツェンバッハ、ヴィーラントの3人と8人のシェルパは荒れ狂う暴風雪の中で難渋し、シルバー・ザッテルの下でビバークした。全員で寝袋が3個しかなく、アルプスで超人的活躍をしたヴェルチェンバッハは体力にものを言わせて寝袋なしで夜を送った。その夜、シェルパのニマ・ノルブが死に、その後の暴風下での下山で、まずヴィーラント、続いてヴェルチェンバッハも倒れた。更にメルクル隊長もモーレンコップと呼ぶ岩峰近くまで下降した所でこの世を去った。C4からは再三救援隊が上へと向ったが、胸まで没する深雪に阻まれ、C5にも到達できなかった。最後の生存者シェルパのアンツェリンがC4に到達したのは7月15日であった。先に肺炎で死亡したドレクセルを含めて隊員4名、シェルパ6名の死をもって終った。メルクルとシェルパのゲイ・レイの遺体はそれから4年後に発見された。この遠征について、ベヒトールトはBCを去るにあたって次のように述べている。

 「ここでもう一度光り輝くナンガへ対ってその山稜を見上げた時、我々の心の中にも、運命との総ゆる争闘が和解して行った。そして我々は認めた。この強大な山の勝利の賞牌を持って故国へ帰るのは立派なことであるに相違ない。けれどもこのような目標の為にその生命を捧げ、将来の戦士の若い心のうちに、道を拓き光明を点ずるのは更に大きなことである」

山岳館所有の関連蔵書
  • Deutsche am Nanga Parbat-DerAngriff 1934 Fritz Bechtold
  • Nanga Parbat SAdventure, A Himalaya Expedition 1935 tr. by H.E.tyndal
  • Nanga Parbat 1953/K.H.Herrligkoffer/1954/ドイツ
  • ヒマラヤに挑戦して ナンガ・パルバット1934登攀/フリッツ・ベヒトールト/小池新二訳/1937/河出書房
  • ヒマラヤ探査行/パウル・バウアー/小池新二訳/1938/河出書房
  • ナンガ・パルバットの悲劇/長井一男/1942/博文堂
  • ある登攀家の生涯/カール・メルクル/長井一男,松本重男共訳/1943/昭和刊行会
  • ナンガ・パルバット登攀史/パウル・バウアー/横川文雄訳/1969/あかね書房(ヒマラヤ名著全集)
  • 八千メートルの上と下/1974/ヘルマン・ブール/横川文雄訳/1974/三笠書房
  • ナンガ・パルバット単独行/ラインホルト・メスナー/横川文雄訳/1981/山と渓谷社
  • ナンガ・パルバット回想 闘いと勝利/ヘルリッヒ・コッファー/岡崎祐吉訳/1984/ベースボールマガジン(山岳名著選集)
  • チベットの七年/ハインリッヒ・ハーラー/近藤等訳/1955/新潮社
  • ナンガ・パルバット登山報告書/札幌山岳会/1985
 
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