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7.日本アルプス登山と探検 ウォルター・ウェストン 岡村精一訳 1933 梓書房
原題:Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps/1896/Walter Weston


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表紙と扉
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ウェストン氏
ウェストン氏
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安房峠麓の丸木橋
安房峠麓の丸木橋

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白骨温泉の浴場
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御岳山頂の祠
御岳山頂の祠
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中尾の猟師頭
中尾の猟師頭


ウォルター・ウェストン(1861−1940)宣教師 登山家
 イングランド中部のダービー近郊に生れる。1885年、ケンブリッジ大学リドレーホール(神学校)を卒業。1887(明治20)年〜1915(大正4)年に宣教師として3回、延べ15年間滞日した。その間勢力的に日本の山々に探検的登山を敢行、英国で著作や講演により紹介した。小島烏水らに山岳会の結成を勧め、その結果、1905(明治40)年に山岳会(後に日本山岳会と改称)が発足した逸話は有名である。滞日の時期と主な行動は次のとおりである。
  • 1回目 1887(明治20)年-1895(明治28)年
    熊本、神戸に滞在。北アルプスを中心に探検的登山を行なった。帰国後、表題の本を出版し、アルパインクラブ、王立地学協会で日本アルプスの講演を行なった。
  • 2回目 1902(明治35)年-1905(明治38)年 新婚の夫人を伴い、横浜に滞在。南アルプス、北アルプスなどを精力的に登る。帰英にあたり、小島烏水らに山岳会の結成を強く働きかけた。
  • 3回目 1911(明治44)年-1915(大正4)年
    横浜に滞在。主に北アルプスに登る。帰国後、王立地学協会理事、ケンブリッジ大学校外講師、ジャパン・ソサイアティ理事
1917(大正6)年、日本山岳探検の業績によって、王立地学協会よりバック賞金を授与される。
1918(大正7)年、The Playground of the Far East (岡村精一訳“極東の遊歩道”)を発刊。
1919〜21年、アルパインクラブ委員
1937(昭和12)年、喜寿を記念して日本山岳会が上高地にレリーフを製作、日本政府からは勲四等瑞宝章が贈られた。
1940(昭和15)年、ロンドンにて逝去、78歳
日本山岳会最初の名誉会員


内容
 日本にいわゆる近代登山の種をまき、それを育て上げる役割を果たした本として我が国登山史上に重要な役割を占める。ウェストンが1887(明治20)年に来日してから1895(明治28)年に帰英するまでの第1回滞日中の登山記録である。その当時の我が国の山登りは、1894(明治27)年に志賀重昂の「日本風景論」が出たばかりで、ようやく新しい時代の夜明けを迎える段階に達した所であった。その歩みに偶然とは言え、大きな弾みをつける契機となったのがこの本であった。(島田巽「復刻日本の山岳名著全集」)

 1887(明治20)〜1889(明治22)年の熊本在勤中に、阿蘇山、祖母山、霧島山などに遊んでいるが、日本アルプスの美しさに接したのは1891(明治24)年であった。日本アルプスとウェストンとのつながりはここから始まり、1894(明治27)年までの4年間の中部山岳地帯の山旅が、本書の主題となっている。年代別にその山行を概観すると、
1891年:浅間山、槍ヶ岳を目指すが失敗、木曽駒、1892年:富士山、乗鞍−笠ヶ岳(未登)−徳本峠−槍ヶ岳(登頂に成功)、赤石岳、富士山、1893年:恵那山、富士山、大町−針ノ木峠―ザラ峠―立山温泉−雄山―船津−鎌田−笠ヶ岳(未登)−安房峠―島々−徳本峠―前穂高岳、1894年:白馬岳、笠ヶ岳(登頂に成功)、常念岳、木曽福島より御岳。

 槍ヶ岳登山に成功した1892(明治25)年の記録を少し詳しく見ると、
 5月、御殿場から富士山に2回目の登頂。7月〜8月、汽車で岐阜へ、飛騨川沿いに人力車、馬車などを乗り継いで高山へ、平湯に至り、ここを根拠地に乗鞍岳を往復。その後、蒲田から笠ヶ岳を目指すが地元民の強い反対に遇い断念。平湯から安房峠、梓川沿いに白骨温泉を経由して島々へ、徳本峠を越えて槍沢沿いに槍ヶ岳登頂。2回目の挑戦での成功であった。その後松本に出て、さらに南アルプスを目指す。諏訪湖を経由し、伊那高遠から赤石岳へ登頂する。これより南へ下って、甲府を経由し富士川を舟で下って太平洋へ出た。岐阜出発から数えて3週間の旅であった。

 この時登頂を試みたが地元民の反対で果たせなかった笠ヶ岳は、2年後の1894(明治27)年に3度目の挑戦でついに登頂を果たした。この計画の支障となっていた地元民の反対の理由を、それは地元の人たちの恐怖からである、と地元民に隠れて案内をしてくれた地元の猟師が語ってくれた。
「蒲田の人たちは、仕方のないほど迷信的な人間です。笠ヶ岳の淋しい絶壁や峡谷には、力の強い山の精が歩き回っていると信じています。もしもこの谷間に住んでいる人達が、穀物などの収穫時に、山の境内に見知らぬ人を案内して行ったなら、きっと破壊的な嵐が谷を襲うに違いないと信じています。そして彼らはこれを、聖涜の罪を犯すのを助けた人に帰して了い、それに相応しい罰をすぐに加えます。」
 ウェストンは、汽車や自動車のない内陸部を人力車、馬車、あるいは徒歩で、しかもかなりの早足で旅行をしているが、通り過ぎた風景を適確に捉え、詳細に記録している。途中で立ち寄った茶店の様子が出てくる。部落に着くと、戸数とか産業とか特色などが取材される。明治の中葉における日本の山間部の民俗、風習を克明に描き出し、そして、そのとつとつとして物語る言葉の中に、里人への温かい思い、限りない山への情熱がほとばしっている。笠ヶ岳登山で経験した山人の迷信、常念房伝説、御岳行者の神懸かりなどに関する貴重な記録を残している。第15章、16章はウェストンが観察した民族・風習についての考察に宛てられている。

 ウェストンは日本アルプス“The Japanese Alps”という言葉の起源について、1878(明治11)年に槍ヶ岳へ外人として第1登を果たした英国人ガウランド教授(大阪造幣寮の冶金技師)がアレイ社の「ハンドブック・フォア・ジャパン」の中で用いたのが最初であると述べている(山岳第十三年第2号)。また日本人が使用している”The Japan Alps”はまったく語呂も悪いし、正しい英語の使用法から外れている、と注意している。

山岳館所有の関連蔵書
  • Mountaineering and Exploration in The Japanese Alps (復刻日本の山岳名著) W.ウェストン 大修館 1975
  • The Playground of the Far East(新選復刻日本の山岳名著) W.ウェストン 大修館 1978 日本山水論 小島烏水 隆文館 1907
  • 氷河と万年雪の山 小島烏水 梓書房 1932
  • アルプスと人 松方三郎 丘書院 1958
  • わたしの山旅 槇有恒 岩波新書 1970
  • ウェストンの信濃路探訪 田畑真一 センチュリー 1995
  • ウォルター・ウェストン未刊行著作集(上)(下) 三井嘉雄 郷土出版社 1999
  • Eight years of Travel and Exploration the Japanese Alps W.Weston 山岳第五年第2号
  • Of the Origin of the Term “The Japanese Alps” W.Weston 山岳第十三年第2号
  • ウェストンと歩んだ頃 浦口文治 山岳第二十九年第3号
  • ウェストン氏の杖の跡 黒田孝雄 山岳第三十八年第3号
  • 小島と私―初期ウェストンとの交友のことなど 岡野金次郎 山岳第四十四年第1号
 
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