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3. 西蔵を越えて聖峰へ−エヴェレスト冒険登攀記 J.B.L.ノエル 大木篤夫 1931年 博文館
原題:Through Tibet to Everest/1927/John Baptist Lucious Noel


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表紙(左)、内表紙(右)
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ベースキャンプ
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オデル最後にマロリーとアーヴィンを見る
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ジョン・ノエル(1890-1989)軍人、探検家、映画制作者
 1913年、23才のときカルカッタ駐屯のインド軍に入り、シェルパら5人と共にチベットに潜入して、エヴェレスト北面60㎞まで接近した。1914年、ロンドンの王立地理学会で前年のエヴェレストへの秘密旅行の報告をし、エヴェレスト登山の実行を強く促した。この講演会に出席していたアルパイン・クラブのファーラー会長が、アルパイン・クラブとしてぜひエヴェレストへ登りたいと発言、これが契機となってエヴェレスト遠征が動き出すこととなった。
 1922年第2次、1924年第3次エヴェレスト登山隊に映画撮影技師として参加した。1924年の登山隊に参加するため軍を退役し、映画製作会社を設立した。第3次登山隊の記録映画は「The Epic of Everest, 1926」(日本名:エヴェレスト叙事詩)の題名で発表され、多くの国で上映された。
 ノエルはこの映画興行を成功させる為に、チベット政府の許可なくラマ僧の一団を国外に連れ出し、舞台で宗教的舞踊を見世物にしたと非難された。他にも原因があるが、この事もチベット政府の怒りを買う一因となり、チベット政府はアルパイン・クラブに対して登山許可を出さず、そのため第4次遠征は9年後の1933年まで中断された。

内容
 本書は1913年、エヴェレストに接近しようとしてチベットへ潜入した時の、そしてイギリスの第2次(1922年)、第3次(1924年)エヴェレスト遠征隊に撮影技師として参加したノエルの遠征記録である。内容は第?部・山の挑戦、第2部・第1回探検と登攀、第3部・第2回登攀と記録、付録からなる。
 第1部山の挑戦は、ノエルがまだヨーロッパ人が誰も間近に見たことのないエヴェレストへ北から近づこうと決意し、1913年、ネパール人ら5人を連れて鎖国のチベットへ秘密潜入した時の紀行である。ダージリンからシッキムを通りチベット入りするが、チベット兵に越境を咎められて銃撃され、止むなく逃げ帰る。
 第2部、3部は遠征隊の記録映写技師として参加した筆者が見た隊員の生活や人柄、現地の情景や風俗などを描写している。ヤングハズバンドの「エヴェレスト登山記」が主に登山活動を淡々と記述しているのに比べ、本書は写真家らしく生き生きとした記述である。1924年の遠征では、高度が高くなるにつれてちょっとした摩擦で放電を起こし、そのため画像にダメージを与えるセルロイド・フィルムの取り扱いに苦労しながらカメラをノース・コルまで担ぎ上げ、登山隊の活動を記録した。
 1924年6月2日、8,170mに設営した第6キャンプから無酸素で出発したソマヴェルとノートンが、イエローバンドに沿って進み、大クーロアールに達した(8,572m)。この高度記録は、1952年のスイス隊によって更新されるまで30年近くの間、人類が自分の足で達した最高の高さであった。ノエルは2人が第6キャンプへ入る前の2人の撮影に成功する。
 それから6日後の6月8日、ジョージ・マロリーとアンドリュウ・アーヴィンが第6キャンプ(8,170m)から頂上へ向かった日の朝、ノエルはノース・コルからテレスコープで2人を探すが、濃霧のためについに発見できなかった。彼らが出発してから3日目、第5キャンプへ下山してくるサポート隊のノエル・オデルらをテレスコープで捉えた。彼らは第5キャンプから信号を送ってきたが、それはマロリーとアーヴィンの遭難を知らせる信号であった。ノエルはその時の情景を次のように記す。

 「私は、救援隊が、六枚の毛布を十字架型に並べるのを見た。そして、彼らは行ってしまった。それは死の信号であった。その瞬間のことをありありと覚えている。私はこの信号を望遠鏡から眺めながら、その光景を、強力な拡大レンズで撮影していた。キャメラは電池で動かされていた。信号を読んだ私は、興奮のあまり、自分でキャメラのハンドルを回すことが出来なかった。ブルースは、何が見えるかと私に聞いた。明らかに、それが十字架だったのを見たのだが、そう答える気力はなかった。自分で見てくれと言って、望遠鏡を渡した。皆は眺めた。どうかして、別の信号ではないかと、皆して試みた。それは紛れもなく、白雪上に置かれた十字架だった。」

 付録は、登攀に酸素を使用することの優位性と器具と酸素の改良について、また、空からエヴェレスト頂上に降下することの可能性と方法についての面白い見解を述べている。

山岳館所有の関連蔵書
The Light of Experience/Sir Francis Younghusband/1927/ロンドン
The Epic of Mount Everest/Sir Francis Younghusand/1929/ロンドン
Everest Reconnaissance-The First Expedition 1921/Mallory, Robertson./1991/ロンドン
Mount Everest:The Reconnaissance, 1921/Lieutenant Col. C.K. Howard-Bury and other members of the Mount Everest Expedition/1929/ロンドン
The Fight for Everest: 1924/By Lieutenant Colonel, E.F.Norton and other members of the Expedition/1927/ロンドン The Story of Everest/Captain John Noel/1927/アメリカ
エヴェレスト登山記/ヤングハズバンド/田辺主計訳/1931/第1書房
ヤングハズバンド伝−激動の中央アジアを駆け抜けた探検家/金子民雄/2008/白水社
 その他エヴェレスト関係多数
 
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