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部報解説・ 2006年9月23日 (土)

これまでの部報内容紹介・1号(1928)/(米山悟1984年入部)

image

部報14号の発行が間近になったので、これまでの部報を読み返しています。登り覚えのあるルートも、時代が違うと驚くばかり。歴代部報の概略とさわり、短評を不定期連載で紹介します。



部報1号を読むには、北大山岳館の書庫へ出向いてください。僕は何年も前に86年頃出た復刻版(1〜7号揃い)を古書店で買いました。伊藤秀五郎氏の文章に限っては、中公文庫の「北の山」に何編かあったと思いましたが、今は絶版かと思います。坂本直行氏のトムラウシ行の文章を学生の時に読み、大正時代の大学生の国語力に憧れたりしました。80年前の青春記録集です。

ちなみに北大山岳部発会式は1926年11月10日午後7時とあり、今年でまもなくちょうど80周年です。
部報1号(1928年)

【総評】

山岳部の出来た1926年暮れからから1年5ヶ月後に発行された。山岳部前史としての10数年のスキー部時代も俯瞰できる。編集長は伊藤秀五郎氏。

スキーによる積雪期初登山を大雪、夕張、札幌近郊で行い、いよいよ奥深い石狩岳の冬期初登が大きな目標とされた。夏期は稜線のヤブこぎ山行などが十勝や大雪などで計画されていて驚く。

しかし興味深いのは阿寒湖、洞爺湖、狩場山周辺のアプローチの悪さ、原始林の深さである。今ならば自動車道路で全く味気ない。

千島のアライト登頂記録と当時の記述も、今となっては貴重なものである。

以下、各章のタイトルとその概略。

●冬の十勝岳 和辻廣樹

1926年山岳部発足前後の初登山行に基づいた、十勝連峰の冬期登山案内。十勝岳、上ホロ、美瑛岳、富良野岳などの冬期初登頂のいきさつやルートなどを解説している。現在も十勝連峰で使われている、D,Z,H,O,P,Nなどの地点名がAから入っている地図が付いている。ちなみに和辻氏は部章の原案を作図した。

●冬の石狩岳 伊藤秀五郎、和辻廣樹

1928年2月上旬、層雲峡から石狩川を遡り、前石狩沢から左岸尾根にのり、厳冬期の石狩岳初登頂をした約10日の山行記録。夏に簡単な小屋を途中に二つ作っておいた。当時の石狩川源流はもちろん無人地帯。層雲峡大箱の凍結を狙って通過した。上川から双雲別温泉(層雲峡)まで馬橇。奥深い石狩川の源流をたどる厳冬期石狩岳アタックは長年のテーマだったようで、部報1号を飾る山行記録。

●美生岳登山記録 須藤宣之助

1928年3月下旬ピパイロ川支流トムラウシ川(現ニタナイ川)から伏見岳北コル経由でピパイロ岳アタックの記録。2名で6日間

●三月の武利岳 板橋卓

1928年3月中旬五人+人夫二人でイトンムカ沢からアタックの記録。大箱(層雲峡の核心部)の氷が溶けてしまっているので、ニセイチャロマップ川からの登路を諦めた、という時代。北見ルベシベから馬橇でアプローチ。

●斜里岳 原忠平

武利のあと、メンバー2名で斜里に向かった。斜里の駅から徒歩で原野を歩いて山麓に向かう。飽かず斜里を眺めるアプローチだ。近づく斜里を眺めながらルートを練り、越川の駅逓より北東尾根からアタック。「海別岳」の読みを土地の少年に聞いて「ウナベツ」だったと知る下りがある。

●五月の石狩岳 野中保次郎

1926年5月中旬、層雲別温泉(層雲峡)から黒岳、忠別岳、ヌタップヤンベツ沢、石狩沢から石狩岳を往復した記録。上記の厳冬期初登の前に残雪期、稜線づたいに成された。谷の中は雪解け水で通れず、天気の安定した季節に高地を通って忠別岳まで近づいた。奥深い石狩岳である。9日間。

●三月のトムラウシ山 坂本直行

1927年.坂本直行氏、学生時代最後の山行。美瑛から俵真布(タロマップ)へ馬橇。ここの農家から辺別川左岸沿い硫黄岳経由でアタック。「ひたひたと足もとに寄する大小幾多の山脈。黒きタンネもてうづむる谷々・・・。」若き坂本氏の文章は身に覚えのある読者の心を揺らす。

●春の阿寒行 島村光太郎

1927年.3月下旬、美幌から網走線で北見相生まで鉄路(現在廃線)。そのあと釧北峠を越えて尻駒別の谷に入り、阿寒湖温泉から雌阿寒と雄阿寒をアタック。徒歩で峠越えをしてきたのに温泉小屋にはご主人がいる。「湖畔のアイヌ小屋」、「数日前に来たグブラー氏(ヘルベチアヒュッテの設計者)の足跡が俺等の二倍ある」などの記述あり。

●北海道スキー登山の発達 伊藤秀五郎

1911年、北大にスキーが伝えられてから、道内の山が冬季に登られていく歴史を俯瞰できる小文。大正年間に近郊、ニセコ・羊蹄山、芦別と、冬期初登頂の記録が並び、大正末期からこの部報1号にかけての時代に、中央高地や日高など、人里遠く、高い山々の厳冬期初登が成されていく。いわば北大山岳部前史の、スキー部、旅行部時代の冬期北海道山行記録の総集編である。

●狩場山 伊藤秀五郎

1928年3月下旬、伊藤秀五郎氏の単独行。寿都から千走まで馬橇。賀老から東狩場山南東尾根をアタック。狩場山は南東尾根を予定していたが時間切れで引き返す。この時代、極端に交通が不便。賀老高地の集落が雪で埋まっていて雪原になっていた様など記述有り。寿都への帰りは母衣ノ月山越えで帰っている。

●冬のニセイカウシュッペ山 原忠平

ニセイカウシュペの登山。途中南面の岩峰群に目を奪われる。「ギプフェルグリュック(山頂の感慨?)をさほど感じなかった」など、ドイツ語の借用語多し。外来語で気取っている感もあるが、当時の山好きはドイツ語の文献を通読していたようで、日本語では言いようのない概念などもあったと思われる。「シュタイクアイゼン」と書く人と、「クランポン」と書く人と二通りあっておもしろい。

●太陽・雪・スキー 伊藤秀五郎

伊藤による山スキー随想集。1923年(大正十二年)、伊藤が新人時代のニセコ連山三月の縦走、雄冬岳から増毛全山を暑寒別岳まで縦走する五月、明けて正月、狩太から羊蹄山麓の原野をスキーで歩き、洞爺湖までの記録。湖畔では数年前に切り払われた巨大な切り株を見て、失われた原始林に思いを馳せる。そのまま船で幌萌、滑って虻田、船で室蘭、連絡船で青森へ行き岩木山登頂。当時、冬期は人の通わない北見峠の駅逓の老夫婦を山スキーで訪ね、チトカニウシ南西尾根をアタックして、粉雪のスロープを滑り降りている。

●北千島の印象 伊藤秀五郎

1926年6月、伊藤氏が小森五作氏と共に北千島のシュムシュ、アライト、パラムシルへの調査船に便乗して見聞した紀行。函館を出て6日目にシュムシュ島に上陸。ほぼ2ヶ月、ほぼ無人のアライト島に小屋を作り、鱈を釣ったり、エトピリカなど野鳥を撃ったりして過ごした。ボートで島を2周し、植物や虫を採集した。トドの群れも観察に出かけている。

7月15日、千島最高峰のアライトに登頂している。登路は南東のルンゼ。山麓は見たことのない広さのお花畑。1500m以上は雪。

●三国山より石狩岳へ 山口健児

1927年7月、北海道三国を分ける、最も高い山脈を稜線づたいに行こうという計画。稜線のヤブはやはり歯が立たず、ユニ石狩沢に一度おりて、石狩岳を沢からアタックした。

●十勝岳より大雪山へ 徳永芳雄

なんと7月に十勝岳からトムラウシ経由黒岳までの縦走記録。予想に違わず、スマヌプリあたりでヤブこぎ地獄に。2週間の山行。5人+人夫1人

●漁岳とオコタンペ湖 河合克己

定山渓からまだダムのない豊平川を遡る10月。前年、この付近でタコ部屋(開拓の捨て駒にされた強制労働)脱走者と会った話もある。これは坂本直行氏の何か別の記録で読んだ覚えがある。「造材小屋で焚き火にあたっていると遠くに斧の響きが聞こえる」時代である。

オコタンペ湖から支笏湖に注ぐオコタンペ沢が函滝の連続で緊張する。その河口からは気の良い漁師の船をヒッチして丸駒温泉へ。そして千歳川河口まで2時間の船。ここからは王子製紙の軽便鉄道をヒッチして苫小牧へ。今とは全然違う原始の支笏湖周辺である。うらやましい。

●小さな岩登り 井田清

おそらく最古の赤岩文献。岩やルートの名は現代通っている名前は使われていない。おそらく西壁や東の岩峰の登攀を書いている。心情や、観念的な記述が多いが、当時の赤岩峠までのアプローチなど、周辺の様子は詳しく書かれていておもしろい。

●若き登山家の一小言 伊藤秀五郎

くだらない遭難と、登山をするなら避けられない危険とを混同する、世間の登山に無理解な人はあまりに冷笑的ではあるまいか?という、現代と全く変わらない社会状況にたいする考察。

友人大島亮吉の「アラインゲーエン(単独行のこと)に於いてこそ、自分は山登りの根本のものを感じる」に対する考察。

●旅・歩み・いこい 井田清

山と旅を巡る詩的な叙情文。

●山岳部の誕生 伊藤秀五郎

大正2年(1913)に出来たスキー部と大正9年(1920)にできた恵迪寮旅行部を両親に出来た山岳部の生い立ちを紹介している。スキー部はもとスキー登山をする部であり、旅行部は夏期の登山をする部だったが、どちらもメンバーは同じだった。大正9年(1920)あたりから部内でジャンプなどの競技スキーが盛んになり、やがてもとからの山スキー派が独立して山岳部を作るに至った。「最初から名前が山岳部だったなら、あとからスキー部が出来たはずである」という次第。山岳部誕生以前の時代に活躍し、発行直前に遭難死した板倉勝宣氏の功績や当時の人のつながりを詳しく述べている。

注・・スキー部の創立は公式には大正元年(1912年)。「北海道大学スキー部創立100周年記念史」 記念史編集委員会 平成24年6月2日発行による。1912年は7月30日に明治が大正にかわり、スキー部創設はその前後にあたる。文武会会報第67号(大正元年12月20日発行)には大正元年9月21日の委員会で正式決定された、とあるため。

年報(1926.11-1928.3)

写真11点、スケッチ4点(坂本直行)、地図3点
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