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    Re: 【読書感想】七帝柔道記 米山悟(1984年入部)...米山

部報解説・ 2006年11月26日 (日)

これまでの部報紹介・3号(1931)下/(米山悟1984年入部)

image

部報3号の後半分。カムエクの積雪期初登記を中心に大雪山周縁山域の記録。冬季スキー合宿おぼえ書きは当時の様子を生き生き伝えていてとてもおもしろい。芽室アイヌの案内人、水本文太郎氏の追悼二点がある。

● 三月のカムイエクウチカウシ山とその附近       徳永正雄
●ニセイカウシュペ山(茅刈別川から)と屏風岳    江(巾者)三郎
●屏風岳−武利岳―石狩岳                徳永正雄
●沼ノ原山・石狩岳・音更山・ユニ石狩岳・三國山     中野征紀
●山の拡りと人間化(特に北海道の山岳に就いて)     伊藤秀五郎
●山岳部冬季スキー合宿おぼえ書き           江(巾者)三郎
● 記念
・野中保次郎君                    須藤宣之助
・中村邦之助君                    井田清
・水本文太郎爺さんの追憶               高橋喜久司
・同                         井田清
部報3号(1931年)前編の続き】
● 三月のカムイエクウチカウシ山とその附近 徳永正雄
いよいよ日高のK2、カムエクの積雪期初登頂計画が出た。比較的谷が広い札内川から近づき8の沢二股にBCを作り、カムエク、エサオマン、札内岳を初アタックする。過去数回、夏期などに登路をさぐり、考察して計画を立てる前文が、当時の未知ぶりを表していておもしろい。麓の農場で働く坂本君(直行)から、稜線の積雪量などスケッチ葉書でなんども送ってもらった。
BCで人夫二名は、テントは寒いので嫌がり縦穴の底の焚き火の傍らで寝たらしい。これまでも不思議に思っていたが、寝袋など持たない彼らの積雪期山行はこうしていたのだ。別の本でアイヌのマタギがこうしているのを読んだことがある。厚着をせず、火に背中を向けて寝るのがポイントで、火が消えかければ寒くて起き、また薪を足すらしい。このとき同行した人夫は水本文太郎氏の息子新吉氏で、文太郎はこのとき病床にいた。
8の沢(左岸尾根ではなく、沢の中!)をコンタ1200m二股でシーデポー(当時もこの造語あり)し、左の沢を詰め南のコルから山頂アタック。雪は締まって雪崩の恐れなく、日も穏やかな登頂日和だった。翌日エサオマン分岐の少し札内岳よりにある岩塊に突き上げる尾根を使って、エサオマンもアタック。翌々日の札内岳は南東面キネン沢から進んだが、上流部が悪く、1150mあたりから右岸の尾根に早くから取り付いて登頂。
沢から山頂をアタックするこのスタイル、現代では雪崩を恐れて行われていない。今回、一度もデブリを見なかった、日高のこの時期、沢からのアプローチは有効だとある。問題は札内川本流の積雪量(渡渉の都合)で、時期の選択が鍵になると考察されている。

●ニセイカウシュペ山(茅刈別川から)と屏風岳 江(巾者)三郎

1930年末、十勝の冬合宿後、そのまま旭川から入山。茅刈別川の最終人家からニセカウの北西尾根をアタック。その尾根は「そこのたんねは實に都合よく生えていた。降りのあのスウツとする様な感を思ひ浮かべて胸を躍らせながら登った。」というすてきな尾根。下りは期待通り「今これを書いて居ながらも胸がわくわくする様な、あの素晴しい滑降が始まつたのだ。登りの時眞直ぐに附けて來たラツセルに入っては、ホツケの姿勢では股が攣つてしまつて弱つた程長い直滑降を、殆ど矢の様に、そんな加速度で進んだらお終ひにはどんな事になることかと恐れて、二三遍はバージンの中に突つこんでスピードを落さねばならなかつた程の速さでスキーは飛んだ。叉ジツグザツグで登つた急斜面に、そこの大きなたんねんの枝の下を縫つて雪煙の尾を引いて下つて行けば、叉次の一人が、その未だ消え去らぬ雪煙の中に次々に消えていつた。」痛快、そこ滑りたい。
上川まで戻って、馬橇で層雲峡へ移動、屏風岳の南西の尾根にとりついた。時期が早いせいか雪少なく、小タンネが密生していて不快調で引き返した。

●屏風岳−武利岳―石狩岳 徳永正雄
1930年8月初旬。「この夏(昭和5年)林内歩道が石狩川本流をユーニ石狩川合流点まで出来上がつたといふ話を聞いて石狩川を道の出来ないうちに歩いておきたいといふ考へから」この三山を沢から繋いだ。
もちろん林道などまだ無いニセイチャロマップから屏風岳を南東面の沢をアタック。頂きには三角櫓があったとある。その後ニセイチャロマップ川から武利岳南西面の支流ムルイ沢から武利岳へ。石狩川本流は出来たばかりの林道をユニ石狩の支流まで行き、営林署の小屋で泊。ヤンペタップ二股までの記述、「これからはどこまでも續いて居るやうな廣い磧で、それが盡きたらそこで水流を徒渉してまた砂洲を歩み、浅瀬を渡るといつたやぅな、ほんたぅに浩やかな流れを遡つて行くのである。大雪山彙の山稜が雪をとどめて輝いて居るのがよく眺められる。以前から聞いてゐた通りまことに石狩川は美しい良い川である。私はこのときほど川歩きの愉しさ、北海道の夏のよさといつたやぅなものを深く感じたことはない。うねりながら緩やかに流れる石狩川はほんたぅにいい川である。」国道もダムも無い時代の広々した石狩川。今はもうこれを体感することは出来ない。書き留めておいてもらって本当に良かった。
大石狩沢から石狩岳をアタックしてヌタツプヤムペツを遡り、忠別岳へ。日数があるのでトムラウシもアタックして黒岳から層雲別温泉へ下山。12日間の長い旅。

●沼ノ原山・石狩岳・音更山・ユニ石狩岳・三國山 中野征紀
五月、忠別川の松山温泉(現・天人峡)から入山。化雲、忠別、沼ノ原経由で石狩、三国山まで1930年5月16日から10日間。後に第一次南極観測隊副隊長を務める中野征紀ら5人+人夫2人
石狩山頂では「音更川を遡行して此の登頂に成功した先輩田口、藤江、佐々木の三君がニペソツから尾根傅ひに來る筈の大島さん一行への置き手紙が八年を過ぎた今なほ岩の間にある。さびついた空鑵、雨にしみた文字、そして其中二人も山で逝った。此等の憶ひは吾々に此の頂をひどく愛着させた。」山岳部創設前、この周辺がほぼ未踏だったころのスキー部時代の面々の名だ。
三国山山頂にて。「蒼茫とたそがれ行く薄闇の頂上に立ち、浮動する雲の下に灰白の窮みなき深みと、遙に蜒々と続いてゐる尾根の白い階調をひどく愉快な氣持で飽かずながめた。山岳家(アルピナー)は山と日没と日の出とにかなり大きな感動をうけるものであるが、此の時程、太陽と山岳が生む空幻な情緒にかくも朗らかに感動した事はなかつた。」

●山の擴りと人間化(特に北海道の山岳に就いて) 伊藤秀五郎
北海道の山の良さは裾のに広がる原野を含んでいることと、人との歴史の浅さにある、という小文。「いはば北海道の山は、平原までもその擴りをもつてゐるともみられる。即ちその山としての内容を、平原までも擴げてゐるといふ事ができよう。例へば日高の南方の山などでは、山裾の牧場地方や更に平坦な開墾地域を通って、茫漠とした砂丘の彼方の砂濱に、潮にのつた太平洋の浪が蕩々と打寄せてゐる海岸まで出て來るとそこではじめてその山旅の終わつたことを感じるのである。」現代の山登り、いくら時間がないとはいえ、行けるところまでマイカーで行く山登りは、別の山であると思う。
大島亮吉の遺書「山」に収められた「北海道の夏の山」という一文を、強く新入部員に勧めている。

●山岳部冬季スキー合宿おぼえ書き 江(巾者)三郎
創部(1926年、昭和元年)以来五年間の冬合宿のあらましをおもしろおかしくよくまとめてある。最初の二回は新見温泉(ニセコ)、以後は十勝岳の吹上温泉。最初のころは、あの十勝連峰が、まだ初登頂から年も浅く、未知の山域だったからニセコにしたとある。
第一回合宿(1926暮れ):最初の夜の大コンパで敬語や丁寧な言葉を使わぬよう決め、みんなにあだ名が付けられた。合宿の最中に大正が昭和になった。スキー術のうまい先輩がたくさんいて、ズダルスキー派だの、アールベルク派だのと研究熱心である。部創立当時の熱情と意気が漲っていた。48名参加!
第二回合宿(1927暮れ):80名参加!新兵器アザラシ皮(シール)を使い急な直登トレースで登って、他のスキーヤーのラッセル泥棒の鼻をあかした。部員章もこの合宿から配ることにした。
第三回合宿(1928暮れ):この昭和三年の暮れまでには、十勝連峰の各峰の冬季初登山も行われ、ここに本格的な冬合宿の場として吹上温泉を選ぶ。参加72名で9班組織。上富良野の駅前では青年団が焚き火をして熱い牛乳を飲ませて歓迎してくれたらしい。当時の吹上温泉は藁靴を履いてランタン下げて一町降りて風呂に行くという風情があった。ステムクリスチヤニヤを全員が練習しスキーの腕を磨いた。以降、吹上温泉に定着。
第四回合宿(1929暮れ):雪が少ない年で気を揉んだが、先発隊から「スベレル」と電報が来た。申し込み107人、選抜して80人。天気は悪かったがピークをいくつも踏んで成果を残した。
第五回合宿(1930暮れ):札幌→旭川の列車は鉄道に交渉して、たこストーブ付きの車両を借り切り、早朝の富良野線への接続時間まで旭川で停車してストーブを焚いてもらった。前年は寒い待合室で往生したので。話せばわかる昔の国鉄。上富良野駅から吹上温泉までは荷物は全部馬そりに載せたが、皆三々五々歩き。夕方到着というのもいいなあ。合宿初の富良野岳へのロングアタックを成功させている。
合宿の組織など:九〇人を十班に分け、平均八人。当時から一年班(新人含む)、二年班(冬経験二年目以上)があったが、多人数の故、三年班、四年班も一つずつあった。合宿の形式は八十年前と全然変わってないじゃないか。弁当は凍る握り飯よりパンに限る。紅茶をテルモスに入れる。テルモスを使うなんて、今より上等だ。費用は交通費コミで17圓。「アザラシ皮無しで登ることに依つてデリケートな登り方のコツが解る。」などという時代でもある。
装備:米山現役時代の八十年代とほとんど変わらないのがびっくりだ。違うのは衣類の質だけ。「外套(レインコート、薄手の外套、叉はオロチョン)」、オーバーシューズの代わりに「ゲートル」とあるくらい。オーバー手も皮製。やはり合成繊維は戦後ずいぶん重宝したことだろう。「スキー服は何でもよいが、(略)初年班では學生服でも間に合ふが、古い制服かお祖父さんの背廣を貰って一寸改造したら充分である。」!。スキー修理具の中身が金槌、錐、針金、ビンディング予備などすべて変わらず。さすがに現在は予備でカンダハーなんか持っていかないかもしれないが、80年代まではあった。
● 記念
・野中保次郎君 須藤宣之助
1929年冬の幌尻岳初登メンバーのひとり。病没
・中村邦之助君 井田清
慶応義塾大学法学部予科時代から山に親しみ、山岳部創立前後に活躍。病没。

・水本文太郎爺さんの追憶 高橋喜久司
神威岳山行を中心とする、アイヌ老人・文太郎氏との旅。具体的で情感あふれる追悼文。「爺さん達は遠慮してか天幕には入らず、ゆつくりして良いからとて何時も外で毛布にくるまつて焚火の側に寝てゐた。私達が天幕に入つてからも焚火を圍んでは此の人達の部落の言葉で・・・・然し若い人達は日本式の教育を受けた為に祖先の、あの澄んだ清い言葉はあまり知らない様であつたが・・・・語り合つてゐた。此の人達は何を語り合つてゐる事だろう。爺さんの獵の手柄話か叉昔栄へた部落の物語りか、闇は此の人達の静かな生活を脅かしたシャモの詐欺や欺瞞のいまわしい思出を塗りつぶしてしまふ。焚火は唯北海の地に自由に雄飛した山の獵人のみを照らしてゐるのみである。自然の姿、原始林の中に叉小熊の戯るる山頂に、之の人々のみ立つべく似つかはしい。何等の感傷も、自然への逃避もなく、唯立つべく運命づけられた自然の姿である。」「熊は一人ぽつちが好きだ。大抵一平一匹だ、突然現はれた人間を見て、身をひるがへして谷底に逃げていく。若い人達は興奮する。爺さんは微笑している。(略)土人達にとつて熊は主要な獲物だつた。熊をカムイ視するのは、日本の農家が稲を神聖視する心と同じである。」「今晩は此の造材小屋に宿めてもらはうかと爺さんに相談したが、天氣も良いし河原に天幕を張つた方が氣楽で良いと云ふ。そうだ俺はすつかり忘れてゐたんだ。何處に行っても内地人は、此んな良い人達を差別待遇をする。」「汽車の出る時に爺さんはわざわざ叉停車場に來て、お酒でもつれた舌で、息子さんの将来の事や、自分たちを差別なし付合つてくれるのは學生さん達だけだとか、また何處かの山に一緒に行かうと幾回も幾回もくりかへしてゐた。」

・水本文太郎爺さんの追憶 井田清
井田氏の文章は抜粋に困る。この追悼文は絶妙なバランスで構成されていて、一部のみではなかなか紹介しきれない事をまずお断りしておく。戸蔦別川の天場、焚き火の傍らでの話。「組み合わせた三本の小枝の上にフキの葉を甍の様に重さねて、私達には全く奇異なフキのおがみ小屋をつくってゐた。その小屋の前には燈明の様に小さな焚火がともつて居た。水本の爺さんは、その中で神様のやうにニコニコとしてゐた。その笑ひも赤子の様に明るかつた。」「帶廣の傍に芽室といふ小さな驛がある。若しもその驛を過ぎる事があつたら、私は汽車の窓からの一眄に哀惜の情と爺さんのあの老劍士のやうな瞳の光を想ひ浮べる事を忘れはしまい。そして尚何處かの山の上から日高の山脈を眺める事が出來たなら、私は胸に爺さんの墓標を想ひ出して、そつと頭をたれる事を忘れはしまい。」

年報 1929/10−1931/9

写真10点、スケッチ3点、地図1点

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