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山の会昔語り・ 2009年1月31日 (土)

山の会裏ばなしー(28) ズッペは方言か
山の会裏ばなしー(28)

  ズッペは方言か

北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和三十五年二月に小生は再び薬師岳を狙ったが風説に阻まれて太郎兵衛平を抜けられずに北ノ俣岳の登頂にとどまった。その年の三月には、いよいよ来るものが来たという感じだった。三十二年入部のY君をリーダとして一年ずつ下のN,Sの三人が積雪期の飛騨側の西鎌尾根から槍ヶ岳を目指した。蒲田川右俣から入るので神岡を通る。このようなパーティーは小生の所にいっぱくするのが当然になっていたが、この時は娘が生まれて間もなく社宅は少々広くなっていたとはいえ装備もろともでは手狭だった。会社で接待に使うクラブが手頃だと思ったが、この時丁度、会社の洋画専門の銀嶺会館に宿泊設備を併設したところだったので、これを利用することにした。もちろん無料。

開設まもなくとあって板前さんは腕の見せどころとばかりに結構な接待をしたようである。夕食には澄まし汁が出たところで誰かがズッペと呟いてにやりとした。これには訳があったのだ。この頃もルームでは登山用具はもとより、歌や怪しげな造語までドイツ語の氾濫だったようである。汁はスープであれ何であれズッペといい、みそ汁までズッペと呼んでいた。

ところで大学は二年目の前半までは教養部でそれから各学部に進むことないなっていた。したがって、教養部では社会科の科目は必須で法学概論や社会学、人類学などがこれだった。人類学の講義のときだったらしいが、ある時教授

「北海道の方言を挙げてみよ」

といわれて、それぞれ幾つか挙げていった。その内少し途切れたら

「ズッペ」と答えた奴がいた。

振り返ってみたら、それは山岳部の奴だったというのである。

しかし、この話は山の会戦後只一人の詩人と呼ばれる二十九年入部のT君からの伝え聞きだったようである。

同年代に居た人達だがこんな話を何時までも伝えるとは恐ろしいものだと思った。
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