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書評・出版・ 2010年9月21日 (火)

【書評】北アルプス鳴沢岳遭難報告書(米山1984入部)
平成21年4月北アルプス鳴沢岳遭難報告書
鳴沢岳遭難事故調査委員会 京都府立大学山岳部

昨年4月26日、二人の現役学生と、山岳部と20年以上にわたってかかわってきたコーチ役の伊藤達夫氏が山頂部周辺で疲労凍死した。北ア黒部ダムの下から取りつく鳴沢岳西尾根をのっこして、大町側に抜ける計画。春の二つ玉低気圧が来なければ、さして問題のあるルートではない。

伊藤達夫といえば、冬の黒部の熱烈な開拓者の一人。1957年生まれ。5年前、黒部別山〜積雪期〜という、すごく分厚い本を和田城志氏とともにまとめた。岳人誌上で彼の追悼を書いていたあの和田氏が、自分よりも黒部に入れ込んでいたと告白していたほどだった。
https://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=540
伊藤氏は信大山岳部出身、京都府立大の助教であり、以前京都左京労山の代表だったが、黒部での未踏ルート開拓などの志向を極めて「京都てつじん山の会」として独立していた。

事故調査委員会は京都府立大山岳部関係者以外の、同志社大、京大OBなど、京都の登山界の顔役の人たちが中心になり、これにオブザーバー参加として京都府大山岳部関係者が参加し、この報告書を執筆している。
樹林限界を超えた場所で三人はばらばらの場所で見つかった。遭難の詳細は分からなかったが、伊藤氏が持っていたGPSロガーがすべての足取りを語っていた。地点と時刻を刻み、速度もわかる。加えて警察発表による三人の絶命推定時刻。あとは樹林限界までしか撮っていない写真が物証のすべて。
先頭を歩いていた(と思われる)伊藤氏は、樹林限界を超える時も、それ以降も、強風のため歩みは非常に遅くなるが前進を続け、後続の二人をほとんど待つこともなく、様子を見に戻った形跡もなかったという。

報告書は伊藤氏のリーダーとしての資質を問う。気象の変化を見誤ったこと、引き返し、退避行動を取らなかったこと、隊をバラバラにしたことが直接の原因であるとしている。経験の差が圧倒的にあり、メンバーからの口出しができない関係でひたすら後を追うだけしかない状況で二つ玉低気圧の白い稜線に出ていくのは破滅に近い。遭難の直接の原因はこの日のリーダーの行いに確かにあるだろう。

報告書の第二章前半には、先鋭登山を志向した伊藤氏とはどれだけ異端であり、どれだけ指導者としてふさわしくないかが時代背景などにまで言及し、過去の記述も引用して述べられている。報告書のこの部分を読んで、私は暗欝な気持ちになった。物言わぬ死者たちを前に、GPSログという動かぬ証拠を手に、公式報告書で書くべきことではない。執筆者自身が第三章に書いているように「私には考えられない」で十分ではないだろうか。致命的な判断ミスをしてしまう数時間のことなど、その人柄や思想、過去の発言をいくら集めたところで、何がいえるだろうか。誰しも覚えがあるはずだ。現場での判断など、何かのはずみで間違える可能性などいくらでもあることを。

並はずれた経験を持ち、黒部という自分のテーマに没頭していた伊藤氏と、部員数が1人、2人、と消滅しそうな時代が長く続いた京都府立大山岳部の、やや特別な20年にわたる関係についても、証言が詳しい。伊藤氏にとって山岳部員は一貫してボッカ、ラッセル、ビレー要員であり技術を伝え導く対象ではなかった、山岳部にとって伊藤氏は部外の並はずれた実力者であり、部の山行とは別枠の、新しい技術を学べるステップアップの機会として捉えていた、という代々の部員たちの見方が示されている。同じ山岳部の先輩後輩ではないが、お互いにその思惑を理解しており齟齬はないという印象を受けた。そうならばこの関係自体に問題があったとは私は思わない。大学山岳部には時には並はずれて経験の厚みの違う指導者が新しい世界を見せることは必要だと思う。それが指導者に値するかどうかは状況によって全く違う。

伊藤氏がどんな人物だろうと、あの日あの時、リーダーとして判断を間違えた、確かなことはそれだけである。樹林限界上で残された物証はただGPSログだけだ。何があったのか本当の事は誰にも分からない。想像する者はいるかもしれないがそれを理屈をならべて遭難報告書に書くべきではない。彼はこんな人間だったからこんな判断をした、とまで言及される事に私は共感できない。

遭難報告書は、山で死んだ者にとっては墓標である。それは伊藤氏のみならず、共に死んだ二人と、その家族にとっても腑に落ちるものであってほしいと私は思う。人の人格は多面体であるのに、彼はこんな人格であったと断定するような墓標に、私は同意する事ができない。
  • コメント (5)

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コメント一覧
(内部限定)   投稿日時 2013-7-31 22:38 | 最終変更
(内部限定)
京都人   投稿日時 2012-12-4 22:26
今となれば米山氏の書評に同意します
当時は怒り狂ってましたが・・
平林氏の民度が分かったことが収穫かもしれない

死人には口は無いのですが
故伊藤氏の仲間である京都労山にはまだ口があります
彼らには反省内証する回路は全く無いようです
関西人   投稿日時 2010-12-2 20:45
伊藤氏は大学の教官であり
引率した学生、院生2名の死に責任があったという視点から
あのような遭難報告書が作成されたと思慮します。
伊藤氏を糾弾(?)することで
大学当局が責任追及から逃れたかったと見ることもできますが。
ふじい   投稿日時 2010-12-2 12:17
遭難報告書は、事故の原因究明によって再発を防止する対策のためのものであると考えます。
いはら   投稿日時 2010-11-21 9:21
これは考えさせられますね。
 
 
 
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