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記事・消息・ 2012年7月16日 (月)

クライマーほど信仰に一途なやつらはいない。 米山悟(1984入部)
クライマーほど信仰に一途なやつらはいない。
7月15日、那智の滝を登っていたクライマーが警察に捕まった。神主が警察を呼んだそうだ。世俗上の罪状は不法侵入とか世界遺産云々とかだそうだ。
クライマーほど宗教的に真面目なやつらはいない。山岳信仰とか修験道とかお山参詣を、過去の、関係ない時代の宗教行事だと思っている現代の登山愛好家は多いかもしれない。けれども何でも現代社会の尺度で測るのをやめて見よう。ほんの数十年前の時代にこの国では「祈る」ということは、飯を食ったり、パソコンをやるくらい日常の行いだった。飯を食っては祈り、人が死んでは祈り、美しいものを見ては祈った。その時代に山が好きな人なら、多分100%修験道やお山参詣というスタイルで登山をしたと思う。彼らの書き残したものを読むにつけ、これは僕と同じアルピニストだ、と思う様になった。山への情熱、山への畏敬、山への尊敬、山への恋心。自分を越えた何か(神と呼ぶ事もある)に祈る気持ちになることを信仰というのだと思う。当然「征服」という言葉とは対局のもの。
現代の登山人種の中で、最もピューリタン(清教徒/原理主義者)な山岳信仰家は、ビッグウオールアルパインクライマーだろう。経験と技術と情熱と、すべてを揃えて那智の岩壁を見て、崇高なクライム信仰心が湧いたのだと僕は思う。
彼のことは10年以上前から知っている。まさにチベットジョカン寺のラマ修行僧のような男だ。名声に溺れて、とかいい気になって、とかいう世間の下世話で、ありがちな批判は全く当たらないと僕は思う。そういう無自覚な批判はそう言う人自身の世界観なのだろう?山は飲んだり食べたり「楽しんだり」しにいく場所だと考えている大方の登山愛好家には想定外なんだろう?
神主は何故警察を呼んだのだろうか。聖職者がまさか不法侵入に怒ったとは考えたくない。クライマーの安全の為でもないだろう。あの岩壁を既に100m登っていた者を、警察が安全に保護するという話ではない。
あの大滝岩壁に対する同じ信仰心を持つものとして、信仰の仕方が全く違う凄くピュアな信徒がいたことに嫉妬したのではないだろうか。一部発言を書いたと思われる新聞記事によれば「絶対に許せない」と告白していた。
しかしもし僕が神主だったなら警察は呼ばない。警察を呼ぶとマスコミが来て話が全く変わってしまうからだ。僕なら完登した彼らに会って、問うだろう。神を見たか?どんな姿だったのか?と。そして信仰者として異端者を制裁するだろうか。それとも和解できるだろうか。「祈る」「信じる」を忘れた世間の大方にとっては、この報道は「世界遺産の壁に落書き」レベルの話なのだろうが、それは違うと僕は思う。クライミングの篤い信仰心が既存神道の逆鱗に触れたのだと僕は捉えた。あの大岩壁は神道だけのものか。2700年続いたからって、異端の信仰家と共生は出来ないのだろうか?エルサレムのように。立山神社の御神体は北方の剱岳、浅間神社の御神体は富士山。御神体だから登ってはいけないという理屈は無い。これまで誰も登れなかっただけだったのだ。
神が冒涜されたと言い連ねるのは悲劇的だが、信仰とはそれも飲み込んで共存しなければならない事ではないのかと僕は思う。
僕らはピューリタンか俗悪かはともかく山岳信仰の信徒であると思う。やむにやまれぬクライム信仰心で登った彼を愚かだと言いたくはない。
  • コメント (10)

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いはら   投稿日時 2012-11-6 20:20
日下、コメントがあってビックリした。
元気なことと思います。

つい言わんでもいいことを・・・とか
理解してもらおうとは思いません・・・とか
なんとも日下らしいです。

『時代』ってのには逆らえないな。
いはら   投稿日時 2012-11-6 20:07
 山岳信仰と同様、どこの地域にも昔から女体信仰とか男根信仰というのがあるかと思いますが・・・。
 いいオンナがいて、やむにやまれぬ信仰心で、同意も得ずに無理矢理してしまうというのは、世俗上の罪であって、愚かではないといってもいいのでしょうか? 
 日本という国は、江戸期ころまでは、性に対して結構奔放で、野良で、河原で、夜祭りで、あちこちで楽しんでいたようですが、まぁ今はそんな『時代』ではないですね。

 確かに、ご神体だから登ってはいけないという理屈はないかもしれません。しかし相手に対して十分な礼をつくすという姿勢は必要だと思います。

 和解してお祓いとのこと、報道されてしまっては、登ったという事実は消せないし、天誅を加えるか、許すかとなれば『許す』という選択をせざるおえないないのも、やはり『時代』のせいであって、寺社が独自に兵力を持っていた時代であれば、警察へも通報せず取り殺していた可能性は高いですね。そうすれば2700年の伝統は維持される訳ですから。

 現代においてはもう一歩踏み込んで、2700年に一度の神事として、改めて水垢離・お祓いの上、白縄、白装束を与え、完登させるというのも一興かと。

 信仰というのは、人々の精神のよりどころにもなるし、それ故、人々を支配・制御する道具にもなります。もしかしたら現代の信仰は、法令や情報(マスコミ)ということになるのかも。

 最後に、AACHさん、二礼二拝ではなく、二拝二拍手(or二礼二拍手)の誤記ですね。


AACH  投稿日時 2012-7-31 22:53 | 最終変更
続報です。神主さんとクライマー、礼を失した件をお詫びをして和解してお祓いしたと聞きました。神主さん、さすが聖職者です。「絶対に許せない」はある種の誤報でしょう。やはり神道は包容力ある信仰だと思います。
きょうは近くの八幡さまに二礼二拝しました。
米山   投稿日時 2012-7-28 22:41
日下、久しぶり!
甲府に引っ越したんだよ。まだ登っているなら声かけてください。この辺には傾斜が急で標高が高くてあんまり雪の多くない山がたくさんあり〼。
ゲスト   投稿日時 2012-7-25 0:48
朝日新聞には、”怒り心頭”って表現されてましたよね。ただでさえ、暑いのに、怒り心頭されると、那智から日本全土に熱風が吹き抜けたような、気分になりましたよ。
登ったクライマーの方の意見や感情は、聞き知りませんが、穏やかそうに、思います。
それで、良いように思いますけれど。何が問題なのか良く分かりません。
上記の文章では、那智の信仰と対比させているのは、クライマー全般?、今回登攀した方?、それとも米山さん?、それとも人間全般? でしょうか?
むか〜し、(2002年頃)山岳部員が書いた文章に、「焚き火やストーブは、神棚ということになる・・・」と有りました。山に登っていると、そう言う気分になるのですね。私も、畏敬の念を感じた経験が有ります。私は、それで満足です。ただ、他の人に理解してもらえないのは不満ですが、なんとしても理解してもらおうとは思いません。米山さんも何か信仰を感じた経験が有るのでしょうか?
私も含めてですが、時間が経てば、実はそう思っていただけで、考えが変わったよ〜。なんて、事が時間が経てばおこるかも知れません。(それでも、山は相変わらず突っ立ているのを見るとまた別の畏敬の念が芽を出すかもしれません)

案外、この暑さでイライラっとして、つい言わんでもいいことを、神主さんは言ってしまったのでは、と思っています。言わんでも良いことを言ってしまったのも、夏の暑さがそうさせたのかもしれません。

ところで、今回の件は、「自由」と云う視点からも、色々述べることが出来るんだろうな。

北海道大学平成8年卒業、日下出
さわがき   投稿日時 2012-7-19 22:39
私なんかは,聖職者の対応や深層心理に関する米山さんの考察にうならされた口ですが...議論好きだったはずのルームの伝統はもうなくなってしまったのかなぁ...京都学派的なアンチテーゼとか,アニミズムへの憧憬とか,シュールでラディカルな考え方とか,現実と哲学との間のギャップを思考実験することは悪くないと思いますし,それにつきあうくらいの余裕は持ちたいです.
米山   投稿日時 2012-7-19 21:39
モーリさんしょうご君こんにちは!
私たちは、信仰の何を知っているでしょうか。昔の人が寝ても覚めても夢中になっていた祈り。もしかして私が夢中になっている山登りは、信仰のようなものかもしれない、という仮説を立てて見たのです。「宗教ではありません」では話そこまでです。
「大変失礼な行為で許されない」というのはそのとおりでしょうけれど、そういう当たり前で正義な意見はあちこちどこにでも書いてあるから、もう少し掘り下げて考察してみたのです。何か不愉快な表現でしたらごめんなさい。
田中省吾   投稿日時 2012-7-19 18:57
どこからが信仰になるんでしょうか。でっかい壁を見上げて「すげえ」と感じれば、それはもう信仰の始まりなんでしょうか。それはもう価値観の問題で、どちらかというのは平行線のままで、YesともNoであるとも、言い切ることはできないと思います。
VYW02131@nifty.com   投稿日時 2012-7-19 16:21
すみません名前書き忘れました。毛利立夫
VYW02131@nifty.com   投稿日時 2012-7-19 16:00
信仰する人々が聖地と崇め立ち入りを禁止している場所は日本にも世界にもたくさんあります。そのような場所に土足で踏み込む事はは大変失礼な行為で許されないと私は思います。それとクライミングは遊びであり、また一部の人にとっては仕事であって当然のことながら宗教ではありません。
 
 
 
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