ヒマルチュリにむけて

ヒマルチュリ登山隊参加に至るまで

藤田雅之

 1980年9月29日 AM10:58 (バギラッティⅠ峰登山の時の記録含)

 『あとピーク迄100mです。 大野, 栗本と行っております。 ・・・… 登りました。 登りました。バンザイ・・・』, 一次アタック隊リーダーの金沢隊員よりトランシーバーが入る。 この瞬間を待っていた各パーティより 『バンザイ バンザイ 』 『おめでとうございます』 『コングラッチュレ「イション』のお祝いの交信。 ついにやったか, なんか胸がこみあげてきて涙が出る。 そばにいる二次隊のメンバーと握手, 握手。

 翌日我々二次隊4名登頂。 その時「やった。······これが頂上か,これで人生の一区切りがついた。(一つの青春が終った)』と『これなら 7,500m位なら登れそうだ」 と思った。 頂上で抱き合って喜び合ったが、前日ほどの感激はなく, やれやれと思ったように思う。

 この登山により一つの区切りをつけるつもりだったのに,もう一つ余分な?ことを(これなら7,500m位は登れそうだ) 思ったことが,今回の海外登山につながってきている。勿論これは個人的にで県連としては将来 8000m峰に向けて海外登山を進めて行く方針であり,今回の登山もその一環としてあるわけです。

 全員登頂後ABC.(前進ベースキャンプ)に皆集まって, お祝い, カンパイし、喜びと興奮のなかで誰とはなく、次はネパールに行こうということになって,高さは7.500m前後の山を地図で探しているとヒマルチュリと言う美しい響きの名前をみつけた。そして, 11月4日その興奮の冷めぬなか1983 ヒマルチュリ(7.893m) 登山計画がA.B.C の中で生まれたのです。

 一時の喜びと興奮の中の、その場で、参加意志を表明した。 この喜び快感に至る迄の長い強烈な準備の忙しさ、苦しいまわりとの闘いをこの時は忘れていた。 が、80年のインドを振り返ってみても2ヶ月にわたる登山活動のなかでのまるっきり自然の中の生活, 片言の外国語での現地の人々との付合い, インド旅行 スリランカ旅行等, 日本を離れて, 異なる文化に接する新しい経験。 とすっかり仕事を離れた, 忘れた生活はよかった。 とにかくよかった。

 登頂後のベースキャンプで茶を飲みながら, 夕焼けの山々を眺めている時 『あァー今, 本当に生きている」としみじみ思った。

 少なくとも現代に生きる人として3年に一度位はこういう旅、 休養は必要であると思い, 欧米の毎年の4~6週間のバケィションはうらやましい, 日本人にも必要だと思う。

 だから私としては,単に山に登るだけでなく (山に登るだけで大変なんですが) 登山前後のそういう楽しみも含めて,今回参加することにしたわけです。

 現実には今の社会では,3ヶ月の休暇はとりにくいし、私個人的にも休むことを会社にいいにくいし、休みをくれるかどうかもわからないし、金の問題、まわり、特に家族の理解、等々いろいろ問題がありますが, とにかく行って登ってみようと思っております。

「ヒマルチュリ (7893m)

ネパールの首都カトマンズから北西約100kmの位置に聳える雄峯で、地形的には北からマナスル(8156m),P29(7.835m)に次いで南北に連なるマナスル三山としてその最南端に位置し、頂上部分は北峯, 西峯, 及び主峰からなっている。」

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