毛利 立夫(山の会会報56号・1984年1月より)
長谷伸宏君が、10月6日、ネパールヒマラヤのヒマルチュリで遭難死した。私達はまたもや、かけがえの無い仲間を失なってしまった。
長谷は、昭和51年山岳部入部で、私は同期である。大学には前年に入学して、山岳部にも顔を出したが、勉学のさまたげになるという、後の彼からは想像もつかない理由で退部したという。その年のオプタテシケの春合宿で、私達と遠藤一峰君の3人が同じパーティのメンバーになり、6日間の印象深い山登りを行ない、共に山岳部生活をスタートした。
私達の同期は、大人数であったにもかかわらず、上級生の配慮で恵まれた山登りを続けることができた。2年目の冬には、いっしょに中部日高の縦走をした。その年の日高は、異常に堅い氷でおおわれ、かなり困難な登山となった。長谷のアイゼン破損の為1839のアタックを断念するという結果に終わったが、初めての本格的な稜線歩きに、2人とも満足した。この時のアシスタントリーダーが平野勝也さんだった。
3年目の春山、私も長谷も2年班のリーダーとしてそれぞれのパーティを率いて山に入っていた時、思いもかけない知床の遭難がおこり、平野さん、遠藤君、そしてやはり同期の大政君が死亡してしまった。私は北アルプスにいたため、現地に行くことはできなかったが、日高から下山した長谷は現地のスタッフに合流した。長谷は遺体に接して声を出して泣いたという。当時、すでに幹事の一員であった長谷や他の仲間達は、後に先輩に「鳥合の衆」と批判される程、何もできなかったというが、それまで平穏に山登りを続けていた我々にとって、仲間3人を失なったショックはとてつもなく大きかった。
4年目になり、私と長谷は幹事会の一員として、山岳部の活動再会の為、毎日夜遅くまで議論した。それは夢のある楽しい議論では無く、悲しみもいえないままの、苦しい毎日だった。しかし、登山というもの、山岳部というものを真剣に見つめ直し、話し合ったことは私達にとって無意味なことでは無かったと思う。
長谷は1年目の時(大学は2年目)、すでに優秀な成績で建築工学科に移行していたが、留年をくりかえしていた。建築が性に合わなかったのか転科を考えたようだが、それも無理だとわかると、なんとか進級の努力を始めたが、それもやめてしまった。「あんなわけのわからないことはもういやだ。できたものを先生に持っていくと、これではだめだと言う。どこが悪いかと聞くとはっきり答えられない。芸術性みたいものがかかわってくるらしい。」そして退学。
次の年、再び受験して水産学部へ行くという。これには皆驚いたが、長谷らしいやり方だと思った。退学してからも山岳部員であることに変わり無く、受験勉強とアルバイトに追われながらも、下級生を山に連れて行き、飲みに連れていっていた。
5年目の1月、共通一次試験に高得点をあげ、北大入学も近いと喜こんでいた時、突然ある事情で故郷帰ることになった。相当に悩んだ末の決断だったようだ。
長谷が札幌を去る前日、つるで大飲みした。「これからはヒマラヤへどんどん行こうと思っている。」山岳部の匕マラヤ遠征の動きにほとんど無関係だった長谷だが、匕マラヤに対する夢は持っていた。いっしょにヒマラヤの計画を話し合ったこともあった。
長谷は言った。「こんど会う時はネパールだな。」
昭和57年10月22日 ダンパス直下、標高5,000mのヤクカルカで私達は1年半ぶりの再会を果たすことができた。彼はその秋、ダウラギリ Ⅰ 峰に登頂した高松労山の5人パーティの一員とし、下山してくるところだった。数日間滞在した彼とは話すことがたくさんあった。前年には、ガネッシュヒマール Ⅲ 峰に初登頂し、今年はアタック隊のサポートとして7,500mまで行ってきたという真黒に日焼けした彼は、すっかりヒマラヤの山男になっていた。来年はヒマルチュリに行くという。3日後、私は先発隊としてレストキャンプに入るため、彼に見送られて出発、あいさつを交わして歩き始めた背後から、「毛利、がんばれよ。アイスフォールを突破できるのはのはおまえしかいないぞ。」と大声で激励してくれた。私はうれしかったが、複雑な気持になった。未知の冬の8,000m峰であり、アイスフォールの状態が日に日に悪くなっていることは長谷から知らされていた。生きて再び長谷と顔を合わせるだろうかという疑問が胸中をよぎった。
そして思いもかけない形でその疑問が的中してしまた。長谷のヒマルチュリ出発前になんとか彼に合いたいと思っていたのに実現できなかった。彼とは話したいとがたくさんあった。最近の北大の大がかりな遠征には常に批判的で,別の小パーティでヒマラヤに行き続けた長谷、しかし、あくまで AACHのカラーを身につけていた彼とは、いずれどこかで遠征や探検をいっしょできたに違いなかったのに。