長谷さんのこと

高松労山  三谷 周子

 長谷さんの命は,まったく彼自身のものであり、その意味においては彼の死は悲しみではなく,一つの生き方の結果として尊重して捉えるべきだと思う。

 しかし長谷さんを想う気持ちというのも又、私自身のものであり,その意味においては私はやはり短かすぎた彼の人生が少しくやしい。

 長谷さんとは,当初私もヒマルチュリの隊員であったことから,金沢氏と三人でよく丸亀の塩飽事務所迄、準備会に通った。トレーニング山行も毎度共にした。 そういう場所での彼は年齢も若い為, ひかえめだった。私にとってはむしろ、それ以外の行き帰りの車の中とか、皆でワイワイやっている時とかの彼が楽しかった。 彼は大変に雄弁かつ頭の回転の速い人で、ぱんと一つ言葉を投かけると、まさにバラバラッという感じで言葉のシャワーがふってくる。 それもかなり大粒の・・・。それを楽しみながら。 おにぎり等食べて通った高松→丸亀間の夜景が今もよく想い出される。

 家庭教師をしながら毎年の海外登山の資金を貯めていた彼の倹約ぶりはいじらしい程で「もう3日もお金使ってない」 等とよく言っていた。

 けれども私が長谷さんに関して一番想い出深いことは山とは離れたところにある。 とは言っても底辺では山とつながっているのだけど・・・・・・。

 私の甥の勉強を見て貰う事になり兄の家へ同行した事があった。 その時, 兄夫婦の前でとうとうと教育論を語る彼が暑い季節でもないのに汗をびっしょりかいているのである。あっーこれは彼の仕事場なのだ。 それまでの家庭教師という仕事が遠征費用を貯める為の方便でしかないと想っていた私は胸がじんとした。

 家庭教師という仕事に誇りを持つというには,まだ彼には若く、経験も浅かったけれど、誇りを持ちたいという姿勢が顔いっぱいの汗に現われていた。ヒマラヤへ行きたい, 8,000mへ登りたいというのが登山家としての彼の夢ならば、同時に生きがいのあを仕事をしたい社会人としてもきちんと通用する人間でありたいと願うのも又、偽りのない気持ちだったと想う。 アルパイン・ジブシーという言葉があるかどうか知らないが,山へ登る為に、定職も持たず、(この場合、持てずと言った方が適切かも知れない)その日暮らしをしている人種がいる。それはそれで別段構わないのであるが, そういう社会機構からはみ出す生き方を祈ったり,又囲りが妙に英雄視したりする傾向が私はきらいである。山に登る事だって,社会に生きる事だって重さに変わりは無いはずである。一方を軽んずる人間が一方を全うできるとは思えない。

 そういう意味で,その時の長谷さんの汗を見た時は、私には大きな安心感であった。と同時に、ちょっと言葉では表現しにくい不思議な哀しみのようなものがあった。それは別な道を選ぶ事は出来るだろうが、それ迄歩いて来た道を消し去る事は出来ないというようなことだろうか……。

 どんなにとうとうと理論を語っていても,どこかにはにかみがあった。いつも自分を省みているような、少し淋し気な冷静さがあった。私はそんな長谷さんが好きだった。 大切な想い出である。

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