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12019.jpg12019.jpgルベツネ1/12 1941年3月、朝比奈、橋本の両名は、ペテガリ積雪期初登を目指すも、強風に遇いルベツネ岳より引き返す。ルベツネ岳積雪期初登 この山行は、1940年1月のコイカクシュサツナイ川遭難の翌年行われたものであるが、長髪ルートを取って国境に出た。特筆すべきは、国境線での露営2箇所に日高稜線で初めて雪洞を用いたことである。 以下の12葉の写真に添付されたルベツネ・シンフォニーは、この山行を歌った朝比奈の作である。 写真:1839m峰(右端) お気に入りに追加
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12020.jpg12020.jpgルベツネ9/12 1941年3月朝比奈、橋本、ペテガリ初登を目指すもルベツネ岳より引き返す。ルベツネ岳積雪期初登 第四楽章アダジョーブレスト 穴に帰って5日間、来る日も来る日もすっかり用意されたルックは持ち上げられる機会をむなしく待っていた。もはや食料は三日を余す4月6日、生還を決意してヤオロへと出たが、猛烈な降りとガスは又穴に追い返された。良く7日、やや穏やかな朝を利して漸くヤオロを越えたが、雪は昨日にも増した降りとなり、カチカチの尾根が越までのラッセルと変わっていた。コイカクの尾根にいたっては、雪崩のためにあると言えるほど不安定な状態にあった。慎重に稜線に沿ってキックターンを続け、コイカクの澤に降り立った後も稜線からの表状雪崩に注意せねばならなかった。 写真:コイカク直下の雪洞で天候回復を待つヤンチョお気に入りに追加
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12021.jpg12021.jpgルベツネ11/12 1941年3月朝比奈、橋本、ペテガリ初登を目指すもルベツネ岳より引き返す。ルベツネ岳積雪期初登 第五楽章B 戦い破れてトボトボとスキーを引きずる二人に強い夕日が目に痛かった。里は晴れていたが、山は相変わらず雲に覆われて、国境は望むべくも無い。降り続いた新雪に雪は少しも減っていず、大島木工場後の大きなねこやなぎも固い蕾を少しも膨らませていなかった。赤旗をつけたままのストックを新しいセ雪庇が出来たため、国境線上に埋められたヤンチョは、カバの杖を突いていた。 写真:トムラウシ合流付近お気に入りに追加
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12022.jpg12022.jpgルベツネ7/12 1941年3月朝比奈、橋本、ペテガリ初登を目指すも烈風のためルベツネ岳より引き返す。ルベツネ岳積雪期初登 ルベツネ・シンフォニー 第三楽章アレグロ A 攻撃の日の空は晴れていたが、国境に登って見ると、昨日等は問題にならぬほどの烈風であった。風雲に包まれた1599mを越える頃は、空身の体が浮き上がるばかりになっていた。幾度か歩行のショックで大きな雪庇が落ち、凄惨な雪崩となってヤオロマップの谷へと落ちていった。それを避けて右に寄れば、名だたるルベツネの藪にアイゼンを履いての木登りを余儀なくさせられる。この藪漕ぎの途次、まだ誰も見ぬ雪の1839mの南側が、サッシビチャリの源頭にカールを抱いて聳立していた。 写真:1839m峰の南側お気に入りに追加
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12023.jpg12023.jpgルベツネ4/12 1941年3月朝比奈、橋本、ペテガリ初登を目指すもルベツネ岳より引き返す。ルベツネ岳積雪期初登 第二楽章B  コイカクの頂上に達した日は、幸いに午後から晴れた。雪崩に緊張また緊張でラッセルを続け、国境sんの四十mくらい下に着いたときはもう五時近かった。やっと二人が住めるだけの狭い雪洞が出来た時、空はもう冷たいいやな風がガスを呼んでいた。これはその翌々日の晴れ間に写したもの。目の前の広い斜面があのカタストローフを起こした源である。 写真:コイカク直下の雪洞お気に入りに追加
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12024.jpg12024.jpgルベツネ12/12 1941年3月朝比奈、橋本、ペテガリ初登を目指すもルベツネ岳より引き返す。ルベツネ岳積雪期初登 第五楽章C 山を出る日、それは皮肉にも決まって快快晴である。コイカクを、ヤオロを、そして相変わらず真っ白な「遥かなペテガリ」をを望みながら、春の水を聞きつつむっとするほど暖かい原野の馬橇道を歩んだことである。 写真:ペテガリお気に入りに追加
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12025.jpg12025.jpgルベツネ10/12 1941年3月朝比奈、橋本、ペテガリ初登を目指すもルベツネ岳より引き返す。ルベツネ岳積雪季初登 第五楽章アンダンテA 気とトムラウシの合流で二人はペテガリ頂上で写すはずだったフィルムを向けてお互いに記念撮影をした。君のゲートルにとっても淋しい心残りな冬山であったろう。 写真:トムラウシ合流お気に入りに追加
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12109.jpg12109.jpg右よりペテガリ岳、ヤオロマップ岳、コイカクシュサツナイ岳。撮影、岡彦一 部報6号及び50年記念誌に収載、厳冬期ペテガリ隊、昭和12年1月27日 2月7日 葛西晴雄隊長以下11名、坂本直行OBを除き全員予科生で構成。 北大が初めてポーラーメソッドを用いた計画で、コイカクシュ札内岳経由ペテガリ岳を目指すが、暴風雪によりテントを破壊され、1599m峰より撤退した。撤退の原因は高所露営の研究不足と報告している。お気に入りに追加
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12031.jpg12031.jpg1955/08/10-16、奥村先生慰霊登山、メンバー:山崎、井出、杉野目、白浜、有波、荒尾、野田 1954年夏の台風と水害により荒れた札内川コイカク合流付近お気に入りに追加
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12033.jpg12033.jpg1955/08/10-16、奥村先生慰霊登山、メンバー:山崎、井出、杉野目、白浜、有波、荒尾、野田 残雪輝く八の沢カールを望むお気に入りに追加
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12034.jpg12034.jpg1955/08/10-16、奥村先生慰霊登山、メンバー:山崎、井出、杉野目、白浜、有波、荒尾、野田 人物:杉野目 お気に入りに追加
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12041.jpg12041.jpg1955/08/10-16、奥村先生慰霊登山、メンバー:山崎、井出、杉野目、白浜、有波、荒尾、野田 お気に入りに追加
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12040.jpg12040.jpg1955/08/10-16、奥村先生慰霊登山、メンバー:山崎、井出、杉野目、白浜、有波、荒尾、野田 朝食の準備、正面は札内岳お気に入りに追加
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12036.jpg12036.jpg1955/08/10-16、奥村先生慰霊登山、メンバー:山崎、井出、杉野目、白浜、有波、荒尾、野田 左より:井出先生、白浜、荒尾、野田、杉野目 お気に入りに追加
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12048.jpg12048.jpg1955/08/10-16、奥村先生慰霊登山、メンバー:山崎、井出先生、杉野目、白浜、有波、荒尾、野田 お気に入りに追加
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12039.jpg12039.jpg1955/08/10-16、奥村先生慰霊登山、メンバー:山崎、井出、杉野目、白浜、有波、荒尾、野田 お気に入りに追加
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12037.jpg12037.jpg1955/08/10-16、奥村先生慰霊登山、メンバー:山崎、井出、杉野目、白浜、有波、荒尾、野田 キンポウゲ、フデリンドウの咲き乱れるカール 左から:杉野目、荒尾、他は不明お気に入りに追加
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12035.jpg12035.jpg1955/08/10-16、奥村先生慰霊登山、メンバー:山崎、井出、杉野目、白浜、有波、荒尾、野田 残雪の八の沢カールをみながら登る荒尾とお気に入りに追加
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12112.jpg12112.jpg1942/7/19-25、有馬洋君のための九の沢ケルン建設行, 朝比奈英三と有馬純はコイカクで遭難した有馬洋を悼んで九の沢ににケルンを積んだ。 その碑文は次のとおり; “Hier schleft ein man der den Hidaka herzlich geliept hat.” 部報8号に掲載 お気に入りに追加
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12113.jpg12113.jpg1942/7/19-25、有馬洋君のための九の沢ケルン建設行 朝比奈英三と有馬純はコイカクで遭難した有馬洋を悼んで九の沢ににケルンを積んだ。 その碑文は次のとおり; “Hier schleft ein man der den Hidaka herzlich geliept hat.” 部報8号に掲載 お気に入りに追加

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