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5.千山萬岳 志村烏嶺(しむらうれい)/1912/嵩山房/334頁


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挿入画 大町付近の晩春
挿入画 大町付近の晩春る


志村烏嶺(1874-1961)、植物学者、登山家、山岳写真家
 栃木県那須郡烏山町(現那須烏山市)に生れる。一八九六(明治二十七)年、栃木県尋常師範学校卒業後、栃木県の小中学校、師範学校、仙台第一中学で教員を勤め、一九〇三年、長野中学校に博物・地理の教師として赴任。休日ごとに飯綱山、戸隠山、八ヶ岳、横岳などに登山し、高山植物採集を続けた。
 一九〇四年八月、長野市を徒歩で出発。柳澤峠に立って初めて白馬連峰を目の当たりにし、今までの山とはけた違いの大きさに驚嘆する。以来、北アルプスとそこに咲く草花に魅せられ、植物研究・山岳写真撮影を目的に山々に入った。日本山岳会創設にも関わった。生涯で四千種もの植物標本を作製したと言われ、それらは国立科学博物館、市立大町山岳博物館などに収められている。
 初期の山岳写真家としての功績も大きく、一九〇四年の白馬岳登山で得た写真を、いち早く園芸雑誌に発表し、それを契機に「日本山水論」、「日本山嶽志」や「山岳」創刊号を烏嶺の写真が飾った。さらにウェストンにより杓子岳の写真が「アルパイン・ジャーナル」第二三巻一一七一号(明治三九年二月発行)に掲載され、日本アルプスがヨーロッパに紹介された最初の写真となった。一九〇六年四月発行の日本山岳会「山岳」第一号の巻頭写真「白馬の大雪渓の写真」も烏嶺の撮影である。
 山での撮影がいかにたいへんであったかは、器材一式で一貫目もある組立暗箱式のカメラで、明るい光の下でもキャビネ版(約一六一二センチメートル)のガラス乾板の露光に三十分以上、後処理に一枚一時間を要したことを考えるとよく分かる。
 一九〇九(明治四二)年、「高山植物採集および培養法」、山岳写真集「山岳美観」第一・第二集、一九一三(大正二)年、「千山萬岳」出版。
 一九一八年、台湾台中中学校に転ずる。同年、新高山(玉山)に登る。長野中学赴任から台湾に渡るまでの十三年間に毎年の白馬岳のほか御嶽、木曽駒ヶ岳、乗鞍岳、槍ヶ岳、常念岳、大天井岳、燕岳、立山、尾瀬燧岳、飯豊山、磐梯山ほか多数の山に登り、植物採集とその研究に精力を注いだ。
 一九二二年、教職を退き、東京目黒に植物園「素香園」を経営、関東大震災の際には一時期ここが日本山岳会の事務所となる。一九二四年、埼玉県横曽根村(川口市)に転居し、農園を経営する。晩年は植物採集・標本整理で過ごした。一九五六(昭和三十一)年、八十三歳にして最後の白馬岳登山を果たす。一九六一年、八十七歳で逝去。

内容
Highslide JS W. ウェストンが序文を寄せている。烏嶺は本書出版の意図について、「登山家の伴侶となり登山の気風を鼓吹することを得ば実に著者の之にすぎたるはなし」としている。紀行四編、研究論文二編および日本高山登路案内略記からなり、付録として日本高山標高表が付されている。
「木曽の御嶽及駒ヶ岳」は木曽街道を歩き、御岳山と駒ケ岳に登った時の紀行である。御岳山に登った友人から、小屋が完備し、七合目には浴槽もあり、頂上も設備完全飲食等に不自由なしですこぶる俗化していると聞かされて、一種嫌悪の情を抱いていた。しかし木曽の古道についてはさまざまな道中記を見て、「益益荒涼たる古駅を訪はんとするの念禁ずる能わず」と感じ、一九〇七(明治四十)年七月に六日、洗馬から木曽街道をたどった。鳥居峠で御嶽山を遥拝し、木曽十一宿の首位にある福島町から合渡峠を越えた。
 顧みれば漠々たる暗雲木曽の本谷を埋め、駒ヶ岳を何処と問ふ由もなく、前面は怪雲濃霧黒澤の谷を覆い、五百重の雲を突破して、蒼空の磨き出だされたる雄渾偉大の御嶽の山塊、紫匂う山色の美、言語に絶し、谷々に残る千古の雪は日光に輝き、右の右方に近き最高点は問わずして剱ヶ岳たるを知る、‐‐‐‐御岳山容の雄大なるは、日本アルプス中に匹儔少なし、暫時は吾を忘れて佇立せり、‐‐‐‐。

 黒澤口より山頂を目指した。途中七合目の山小屋に一泊し、小屋の主人の人情にふれた、翌日頂上に達したが、山頂近くに御嶽郵便局があり、一万尺の天界に郵便局があるのは他にはないことと驚く。参拝者での混雑や整った設備の商売っ気には触れず、ひたすら頂上からの絶景を次のように記す。
Highslide JSーーーー猶遠く北方を望めば、白駒奔騰する乗鞍の尖峰、巍々乎として千古の雪を戴き、高く雲漢を摩す、東西の山脚天地の間に神秘の一線を劃し、右は信濃の高原に左は高山の高台に、乗鞍の北方槍ヶ岳の尖頭、、穂高の〇峰、簇々として高さを競う。
 下山は王滝口へと下り一泊、崩越えから木曽川へ出た。芭蕉の句で有名な「棧や命をからむ蔦かつら」の架け橋を渡ろうとするが、橋板がなく渡れない。そこへ十四、五歳の少女が走って来て、船で渡してくれた。薄汚れた衣服を着けた少女であったが、その親切心と機敏な行動に感激する。翌早朝、上松から駒ヶ岳を目指す。
 絶頂は円頂高潤巨人の頭顱の如く、彼の火山頂の崢たるに似ず、円満具足頗る温容あり、寳剱ヶ岳が嶽に至りては、矗々として一剣寒く天を指すがごとし。
 頂上付近でミヤマウスユキソウが咲いていた。ヨーロッパアルプスのものに比して「形態著しく矮少確にその一変種となすべきもの、余はヒメミヤマウスユキソウなる名称を下す」。伊那へ下ろうとするが、夕方より暴風雨となり、途中玉の窪の避難小屋で不安な一夜を明かし、
 漸々下るに従って路一層険悪、喬木帯を脱すれば、飢餓疲労、殆んど其の極に達せる余は、嚇々たる烈光を浴して卒倒せんとせしこと幾回なるを知らず。

 そして午後二時、ようやく伊那にたどりつく。

 「高原の雨、峠の霜」では、御代田(現しなの鉄道御代田駅)から坂本までの碓氷峠越えの中仙道旧街道を歩いて、かつて殷賑を極めた街道筋の宿駅が鉄道施設によって急速に寂れていく有様を、愛惜をこめて描いている。その鉄道も現在は上越新幹線の開通で横川から軽井沢までは廃線、軽井沢以北は第三セクターの運営となった。

Highslide JS 「日本アルプス縦走記」は、一九〇七(明治四十)年七月、中房温泉から燕岳連脈の東沢乗越しを経て高瀬川に下り、烏帽子岳直下の山稜から野口五郎岳、鷲羽岳まで単独(人夫と)で縦走した記録で、日本アルプスの縦走記としては最初のものである。紀行文には先蹤者にしか見られない新発見の喜びが躍動している。本書によれば、この山行の後、日本アルプスを縦走した例は一九〇九(明治四二)年、辻村伊助の飛騨山脈、一九一〇年、小島、高頭、高野による槍ヶ岳より黒岳、一九一一年、榎谷による針ノ木峠から槍ヶ岳へと続く。

 当初の計画は笠ヶ岳まで縦走して蒲田温泉に下る予定であったが、人夫の類蔵が鷲羽岳まで来たときにこの山が笠ヶ岳と言って譲らず、またもう一人の人夫の体調がすぐれないことから縦走を中断、再び高瀬川へと下った。此の退却について烏嶺は日本アルプスの研究が遅れているためと嘆いている。

 「乗鞍行」は、一九一一年八月、梓川を遡行し、大野川より乗鞍岳登頂の記録である。雷雨、先達に連れられた登山団一行との石室で同宿し、その付近で七年前にあった五名の凍死事件などを思い出しながら、登頂を果たした。島々を経って四日目であった。

 烏嶺は生涯で四千種もの植物標本を作製したと言われるが、本書中の研究論文「高山の植物」では植物分布について、高山植物の由来、分類、栽培の可能性などについて、詳しい考察を試みている。紀行文にも見られるように、登山では常に高山植物に目を配り、観察し、標本採集に務めている。

 「日本アルプス」は日本アルプスについての解説書である。名称の由来、南北アルプスの特徴について概説する。 「日本高山塘路案内略記」は富士山はじめ、四十三峰についての登路案内と植生の解説で、これには百十四頁を費やしている。

参考文献
高山植物 武田久吉/1916/同文館
高山植物の研究 河野齢蔵/1917/岩波書店
日本山水論 小島烏水/1907/隆文館
日本アルプス-登山と探検 W.ウェストン/1957/創元社
日本山嶽誌 高頭式編/1975大修館
よみがえる高根の草花/2007/市立大町博物館 
 
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