発行日時
パイプ名
見出し
2022-5-13 2:43
ヤマレコAACH
屋久島フリーウェイ
屋久島フリーウェイ(フリークライミング/屋久島)日程:2022-05-03(日帰り)メンバー: nikonikoaokazu Iida_2017コースタイム:コース状況/その他周辺情報:入り口はわかりづらいが、ピンクテープを辿れば壁に着く写真:2p目出だし充実の表情10p目3p目を終了点から見下ろす11p目、終了点目前が核心1p目取りつき6p目高度感もサイコー5p目のびしょぬれクラック。ノーカムでヒリヒリ。本富岳ピーク感想:皆さんにフリクションのご加護がありますように!満たされた時間。2024年3月にまた行きます。
2022-5-12 9:19
ヤマレコAACH
暑寒別岳
暑寒別岳(山滑走/増毛・樺戸)日程:2022-05-07(日帰り)メンバー: 2015guti yumepporo koichiro_mコースタイム:写真:感想:スキー上達
2022-5-2 12:55
ヤマレコAACH
日高/神威岳からエサオマン、ナメワッカ、イドンナップまで
日高/神威岳からエサオマン、ナメワッカ、イドンナップまで(積雪期ピークハント/縦走/日高山脈)日程:2022-04-28〜2022-05-01メンバー: Yanke1987写真:ポロシリ東カールはじめは雪の消えた林道札内とエサオマン遠くに39ナメワッカと彼方にイドンナップエサオマン北カールエサオマントッタベツ川、カール、U字谷、モレーンといった氷河の痕跡が明瞭に残る核心部を抜けて振り返る17:08泉発のバスを目指す神威ピークナメワッカカール群、スキー斜面10の沢カールと中央奥にカムエク林道に出たコンタ900位から雪が繋がるC1と札内岳札内分岐-ナメワッカJP間の稜線とカール街の明かりが見えるブル道にでたナメワッカピークからイドンナップをみる、だいぶ近づいてきた東西稜線を振り返るエサオマントッタベツが見えてきた中央奥:カムエク、左:イドンナップ、新冠富士からピパイロ日没、樹間にポロシリとトッタベツエサオマンへの登りカムエクはでかいスキー斜面がいっぱい、ほとんど滑られていないだろう札内分岐からエサオマンを振り返る所々雪底は狭いナメワッカJPよりこれから行く東西稜線札内と勝幌ポロシリに朝日があたる1480付近から稜線が太くなるナメワッカ岳、真っ白イドンナップ近づく歩いたきた東西稜線を振り返るC2びれい橋からスタートエサオマンピーク伏美とオシキ主稜線に出た、北方をみるイドンナップピーク札内‐勝幌の東西稜線ナメワッカへの稜線、真っ白なカール感想:4/28:晴れ 風やや強しびれい橋(5:30)-神威分岐(11:00)-神威岳-C1標高1620(14:30)帯広のゲストハウスでC0、タクシーでトッタベツ林道びれい橋まで。運ちゃんプリウスで頑張ってくれた。神威北東尾根は下部雪がなく鹿道を辿る。標高900位で雪が繋がり始めスノーシューで神威分岐まで。アイゼンに切り換え神威岳を空身で往復。国境稜線はおおむね十勝側に雪底があり快調。時折ズボる。雪底が切れているところは日高側の踏み跡を行く。この日帯広で強風注意報、天場は風が避けられるところを探す。1604を超えたところに小さい地すべり地形で風が防げそうなところを見つけそこに泊まる。夜おそく風収まる。4/29:晴れのち高曇りC1(5:30)-エサオマントッタベツ岳(6:50)-札内分岐(7:40)‐ナメワッカJP(9:30)-ナメワッカ岳(12:40)-最低コル標高1200,C2(16:00)アイゼンを効かせエサオマンに。白いナメワッカ、はるか彼方にイドンナップが見える。札内分岐から尾根が広くなる。ナメワッカJPから東西稜線を見下ろすと様相が異なる細く白い尾根が繋がっている。ナメワッカカール上は両サイドが切れていて高度感あるが雪が安定しているので問題ない。北側の真っ白なカールは素晴らしいスキー滑降大斜面に見えた。ナメワッカ岳ピーク直下でハイマツ漕ぎ少々。ヤブ中でピッケルが肩紐から外れしばし捜索。ナメワッカからは西向きのハイマツ斜面は藪漕ぎ、下りでよかった。逆縦走だと大変だろう。1200mの鞍部で泊まるがここも雪なく南側の雪の張り出し上に天張る。古い欠けた茶碗が落ちていた。焚火するが風なく、火が元気にならない。ずっとあおいでいないと火が消える。現役時代にストーブ持たずの夏山でコメ食いたさに必死で焚火をあおいだことを思い出した。4/30:晴れC2(6:30)-イドンナップ岳(11:10)‐新冠富士(13:30)-標高1050、C3(16:50)出だしは急だが1480のポコに上がると稜線は広く緩やかになる。スノーシューで十勝の稜線みたいなところを気持ちよく歩く。イドンナップ手前は2重稜線、知床を彷彿させる。念願のイドンナップピークでゆっくり飯でも食おうと思いながらピークに上がる。が、眼前の雪稜を見て一気にトーンダウン。細い稜線に頼りなく雪がついている。これを超えないと帰れない。必死で凝視してルートを探す。急な雪面をピッケルとハイマツを頼りに攀じ登り、雪稜に馬乗りになってそれからヤジロベイになる、といった動作を何回か繰り返してようやく広いところに出た。やれやれ、何年たっても怖がりな性分は抜けない。新冠富士から一気に夏道を下り今夜は沢中で泊まろう、という目論見はもろくも崩れ去る。時折ピンテがあるが道は埋まってわからない。1404では斜面を登ったり下りたりで時間を食う。尾根型がはっきりしてくるとかすかに判別できるが道とは名ばかりの踏み跡、さらに急なルンゼ下りがあったりと日高はすんなり山からおろさせてくれない。幸いなことに標高1050付近に20x20m程度の平らな残雪を見つけここに泊まる。5/1:曇りのち雨C3(4:30) - 林道に出る(7:40)高度差50mほど下ると、刈り分けがされていて突然歩き易くなった。サツナイ沢で雪解け水を腹いっぱい飲んで林道に出る。17:08泉発のバスを目指し林道を無心に歩いていると、運よく通りがかりの地元釣り人が乗せてくれた。
2022-4-27 23:45
記事
山の会会報
2022-4-20 5:57
ヤマレコAACH
南極観測隊1960の吹雪・木崎甲子郎氏のこと
こんにちは、イグルスキー米山です。
南極観測隊は山岳部員だらけだった。
いま、南極で冬を迎えようとしている日本の観測隊の隊長・澤柿教伸氏は、イグルスキーの、北大山岳部時代(1980年代)の仲間です。1957年の第一次隊から続く観測隊員には、北大山岳部の出身者がたくさんいます。何故かって皆、山登りをしたくて大学に行き、山登りをしたくて研究分野を選んだ人が多いからです。それに寒いのが大好きなので。それに当時の南極には、人類にまだ存在が不確かな領域さえあり、測量もされず名前も無く標高も不確かな山脈があり、足で歩いて行くしか無い時代です。これは山岳部員なら行きたいでしょう。
1960年のブリザード遭難
その澤柿氏からの便りで触れられていましたが、基地の近くには日本の南極史で唯一の遭難死者、福島紳氏の碑があります。1960年、猛吹雪の基地周辺で遭難があり、毎年この碑の前で黙祷するとのこと。
基地のすぐ近く(わずか50mほど)にあった観測設備を悪天のなか確認しに行っただけで帰って来られませんでした。猛烈な吹雪は風速30m/s、視界は10m以下になるほどでした。捜索に向かった二人ずつ二組の四人も行方不明になり、一晩穴を掘ってしのいで翌日天候が回復してから帰りました。
このときの一人に山岳部の先輩で地質研究者の木崎甲子郎氏がいます。木崎さんの後の著書によれば
「わたしたちや吉田・村石が生きて帰ってきたのは、『しまった、間違った』と思ったあと、穴を掘ってもぐりブリザードがやむのを待つことができたからだ。また、学生時代、山岳部の生活でそういう訓練を受けていたからでもある。福島にはそういう経験はまったくなく、おそらく、風に押されるままに流されて、絶望して凍えてしまったのであろう」「もう一日ブリザードが続いていたら、われわれだってどうなっていたかわからない」
と書いています。
吹雪の中から生還する力
私が山登りを愛好する一番芯の部分に、「厳しい自然の猛威から、なんとか生きて帰る力」への憧れがあります。風速30m/s を超えるような状況でも穴を掘れる雪の場所を探しだすこと。そのためにスコップとノコギリを持っていること、敵わない天候には抗わず氷雪の中で体温を保ち何が最適なふるまいかを判断し続けること。これは週末登山ではなく、長期の山行を数多く経験しなければ据わらない胆力ではないでしょうか。
木崎氏は1924年生まれ。軍役を終え1946年に旧制の予科に入学、物資無き動乱の時代、戦中にペテガリ岳初登までで滞っていた厳冬期日高山脈探検を再開させ、1948年2月イドンナップ岳の冬季初登者です。1949年以降に新学制が始まった時代、旧制最後の世代の木崎さんのリーダーシップで北大山岳部は戦前の活気を続けられたと聞きます。
南極、ヒマラヤ、琉球島弧の地質学研究者として活躍し、今年の2月26日、長く住んだ沖縄で97歳でなくなりました。私は一度もお会いする機会がありませんでしたが、山岳部と地質学講座の先輩として、長く長くお付き合いを感じる方でした。
きょうはここまで、またね。
2022-4-18 4:01
ヤマレコAACH
道南/紋内岳・突符山
道南/紋内岳・突符山(積雪期ピークハント/縦走/道南)日程:2022-04-16〜2022-04-17メンバー: Yanke1987コースタイム:写真:紋内岳ピークブナの森突符山に到着彼方に乙部岳その左の小鉾山岩壁巨木もあるガスガスのブナ林初日はいい天気、車止めのゲート天場牧場焚火と満月視界がない翌朝、野田追岳をみる感想:1日目:良い天気、スキーとスノーシュー両方用意していたが、歩きはじめのとき積雪の残りをみてスノーシューにした。結局全行程ツボ足。林道を離れても雪は繋がっておらずシカ道をたどりササを漕く。C1は標高380付近の平坦地、ここらあたりから雪がつながってくる。夜は落枝を集めて一人で焚火2日目:ツボ足で尾根を辿る。紋内岳に近づくと風が強まり視界もなくなってくる。紋内岳から突符山まで要領悪く、2,3回藪漕ぎ。強風で視界がないなか突符山に到着、しばらく待ってみるも天気よくならず戻る。天場に戻ったあたりから雨が降り始めた。
2022-4-16 7:07
ヤマレコAACH
ブロック切りの基本・ハの字には2つある
こんにちは、イグルスキー米山です。
イグルーで屋根が塞がるかどうかは、長くて角が揃った、平面がきれいなブロック切りの技術が重要です。
奥の方で三方向の切れ目を合わせる
奥の方で縦、横、底面の3つの切れ目がきちんと合えば、スコップでガジガジやらなくてもブロックは動きます。3つの切れ目が奥で合っているかどうかは、持っているノコの刃の長さと、差し込んだ角度などをよく見て空間イメージを磨いてください。漫然とやると、合っていないことが多いです。刃は長いほうが断然有利です。
でもブロックがコトコト動くのに、スコップで誘っても取り出せないときは、切れ目の向きに問題があります。
上の図:手前に開く「ハの字」、下の図:上空に開く「ハの字」ブロックは手前と上空に切れ目が開いていないと引っかかって出てこない。
「手前」と「上空」、二種類のハの字がある
手前にやや開く切り方を「ハの字」と呼びます。90度よりちょっと開いたくらいで良いのです。「手前」ともうひとつ「上空」にも開く必要があることも忘れないでください。「ハの字」とはつまりブロックがやや台形になることですが、台形は2方向あるということです。両方開いていないと、引っかかって出てきません。出てこないとスコップで無理して、ブロックの角や平面が傷つき、積むときに支障が出ます。平面が少ないブロックは積むとぐらついて、崩落の原因になります。最もほしい長いブロックは折れてしまって取れません。
上から図1:右手で右側のカットはうまく「ハの字」できます。図2:右手で左側を切るとどうしても「逆ハの字」になります。図3:左は左手で切るとやりやすい。図4:できればヘソの前にノコを持ってくれば腕力不要です。
体の右側は右手、左側は左手で
この「ハの字」、わかっちゃいるけどなかなかできない人が意外に多いです。例えば右手で体の右側を切るときは割と手前開きに切り易いのですが、右手で体の左側を切る時、どうしても逆「ハの字」になってしまいますね。左側は、左手に持ち替えて切ると良いです。固くて力がいる場合など、できれば体の位置を動かし、ヘソの正面にノコが来る位置に移動するのが腕力維持にベターです。伸ばした手の先でギコギコやるより、ヘソの前でギコギコやるほうが楽だし、うまくできますよ。重いブロックを持つときも「ヘソの前」が肝心でしたね。立ち位置を変え、腰を落として「体(ヘソ)をそこへ持っていく」のが大事です。
上から図1:壁際は手が当たるので「逆ハの字」になりやすい。図2:ノコの先を曲げて差し込みそのままギコギコせずに下へ落とすテクニック。図3:長さが少しもったいないけど壁から少し離して切れ目を入れる。
壁に近いところは「ハの字」切りがやり難い
それから、右手で体の右側を切るときでも壁際から切り出すときは右手が壁に当たるのでどうしてもノコの目が「ハの字」と逆に入ってしまいがちです。
壁際でノコを入れるなら、普通に刺すのではなく、刃先を曲げて差し込み、前後にギコギコせず真下にスーッと切り下ろすとか、固くてギコギコしなくてはならないときはその分壁から切れ目を離す必要があります。その分ブロックは短くなります。壁際などでの使い勝手からもノコのグリップは長い両手用(折りたたみ式などが多い)ではなく、短い片手用が有利です。
3つ以上取るなら真ん中から
床からブロック取りするなど、3つ以上並んだところからブロックを取る際は、上述の理由から壁際は後回しにして、真ん中からブロックを取りましょう。壁際は手が当たって「ハの字」がやりにくいからです。真ん中が無い状態なら、両脇のブロックは「ハの字」に切らなくても出てきます。手前、片脇、上空の三方向が空いていれば、どう切っても引っかかることはありません。奥の切れ目を合わせさえすれば大丈夫です。
まとめ
以上、回数やればわかることですが、初回に意外とつまづく人が多いのでまとめてみました。
●3つの切れ目の接合点をイメージして切ること
●「ハの字」には2つあり、意識すること
●右手と左手使い分け、ヘソの前
●壁際は工夫すること
●壁際は後回し
●ノコのグリップは片手用の短いのがおすすめ
きょうはここまで、またね。
2022-4-16 5:57
ヤマレコAACH
春メイン一年班知床 知円別〜硫黄岳直下引き返し〜知床岳〜岬〜北浜
春メイン一年班知床 知円別〜硫黄岳直下引き返し〜知床岳〜岬〜北浜(積雪期ピークハント/縦走/道東・知床)日程:2022-03-17〜2022-03-26メンバー: kasaisnt2016 TnkYutaro2019 Mt-sunnyコースタイム:写真:タケノコ岩付近?アドベンチャー感ありあえなく敗退。帰るその1硫黄岳との分岐に向かうポカポカ陽気でさながら海水浴のよう。岬。しけもくひと吸いその2岬方面化石浜南のへつり。雪上に上がる一歩が少し怖い。ご機嫌斜めのM。まだ先は長いぞ岬までの稜線。徐々に細くなり、カンバや岩が鬱陶しくなってくる。お邪魔しますきれいだったおっきい人L主砲たかの井、初夜陥落。グレートな夜。幸せ極まれり。老子のひと知床岳ピークより硫黄岳方面ルシャ二股のテンバ。今回の低気圧では問題なかった。硫黄岳方面を望むシュラフ族というらしい硫黄岳At感想:田中 知らないところに来たワクワクを体験できました.いい思い出になりそうです.パーティに感謝.笠井 知床は聖!やっぱり行ってよかった。好天とパーティーに感謝あるのみ。Mの今後の活躍に期待します。山下 知床RP!白銀の知床台地に一本のトレースを引くのはとても気持ちがよかったです。小川 どこかの夜ではベッドで寝ている夢を見て、「なんでここにいるんだろう、はやく知床に帰らなきゃ」とテント内で飛び起きました。下山してほっとしつつ、少し寂しいです。齋藤 知床メイン貫徹嬉しいです。
2022-4-12 8:38
ヤマレコAACH
剱岳 小窓尾根白萩川側フランケ〜チンネ中央チムニー〜早月尾根
剱岳 小窓尾根白萩川側フランケ〜チンネ中央チムニー〜早月尾根(アルパインクライミング/剱・立山)日程:2022-04-02〜2022-04-07メンバー: Takenaka2017 nrtk7写真:2pめbクラック?よくわからないけど適当に登った。3p目フォロー。中央バンドより白萩川をつめるイグルーチンネへ。チンネ全景。本峰へ小窓ノ王からはバックステップ側壁の氷はラインを選び放題。池ノ谷ガリーをつめる。結構急。4p目。雪壁。朝日稜線に合流。ここはザイル出してもよかった先行パーティーの右の氷を登った。3p目。左のベルグラが正規ルートだが今回はかなり厳しかった。一本右の凹角へ。ピークから後立山4pめチンネピーク中央チムニー2p目。むずい。4p目は正規ルート復帰を諦めバンドトラバース。左方ルンゼ1p目。3p目。ドライに見えるがホールドやクラックにはベルグラが詰まっており厄介。ぴーしゃ最終ピッチのヴィクトリーロード。小窓尾根とイグルーピー写感想: WCMに参加することになり、本州へ行く機会が出来たので、ずっと登りたかった剱岳に登ることにした。この時期はガリーに氷が張り、快適なアイスクライミングができるとのことで、小窓尾根の白萩川側フランケの氷を6日分の食料燃料を背負って登攀、そのまま小窓尾根を登ってチンネの左方ルンゼか中央チムニーで快適アイスクライミングをして〆に本峰乗っこして早月尾根下山という計画で出発。4/2 快晴 成田の得意技寝坊により出発遅れる。車は伊折のゲートまでで、そこからは除雪された道路を歩く。小一時間の歩きで馬場島まで。ここで常駐されている富山県警山岳警備隊の方に挨拶をした。馬場島からは除雪は入っていないが、雪は締まっておりツボで問題なくサクサク歩ける。スノーシューは重いので置いていくことにした。タカノスワタリ手前で、サングラスを車に忘れた竹中が車に取りに戻ることになったので、ここにテントを張って泊まることにした。4/3 晴→雪 暗い中出発。タカノスワタリ手前の未完成橋を渡って左岸へ。そのまま雪で埋まった谷を歩くことでタカノスワタリは楽に通過できた。新調した靴が合っていないのか成田の足が痛みペースが上がらない。三ノ又台地に先行パーティーのテントがあった。下部岩壁の氷はほとんど終わっていたが、少し進んだ4ルンゼには、5本ほどの氷が。一番上流側の氷に先行パーティーが取り付いていた。2ルンゼも覗いてみたかったが、荷物重いしとっとと登ってしまおうということで4ルンゼの先行パーティーの一本右の氷を登る。リードは成田→竹中のつるべ。1p 45m 80°までの氷を登って傾斜が落ちたところの岩でビレー。2p 50m 傾斜の緩い氷と雪田を登り灌木でビレー。3p 100m コンテで雪田。上の氷の基部まで。4p 60m 一部80°くらいの氷を登って傾斜の落ちたところのスクリューでビレー。5p 70m コンテで急な雪田を登り右岸の壁の下のテラスまで。 ここでザイル登攀装備をしまい急な雪壁登りを1時間程で小窓尾根のドームを過ぎたあたりに合流。疲労感がカシンリッジのジャパニーズクーロアールを登ったときのそれをマイルドにした感じだった。まだ進められる時間だが、ペースやパーティーの士気を考慮してここで泊まることにする。イグルーを作り始めると雪が降り出し、やっぱり進まなくてよかったと話す。4/4 雪? 高圧部と高圧部の間の気圧のコル?みたいな感じであまり天気良くない予報だったので停滞を決め込んで爆睡。だがイグルーの天井から差し込む光が明るかったので意外と天気良かったのかも……。4/5 晴 小窓尾根を行く。結構急な雪壁をトラバースしたり登ったり。一箇所岩のセクションでザイル出したほうが良かったところもあったが、結局ザイルは一度も出さずに北方稜線に合流。小窓ノ王やチンネが見えてテンション上がる。小窓ノ王からの下りは池ノ谷側からバンド状の急な雪壁をクライムダウン。結構急なので少し緊張した。三ノ窓にザックデポしてチンネ偵察に行く。期待していた左方ルンゼと中央チムニーには全く氷がない。左方ルンゼにはうっすら白いものがついているが、アイスクライミングという感じではなさそう。結構時間あるのでとりあえず今日左方ルンゼを登ってみることに。下部からルンゼを20m程登って取り付き。1p 45m 竹中 ベルグラと雪のバンド状からルンゼを左に回り込み雪壁を登り岩でビレー。2p 20m 成田 雪壁と緩い氷を登ってビレー。3p 30m 成田 ここから左方ルンゼがスタートするようだが、正規ルートはベルグラで覆われたハングでかなり厳しそう。正規ルートの右隣のベルグラ凹角を登るが、こちらも僅かな氷にフッキングしたり雪をほじくってシビアなフィンガージャムだったりで普通にむずい。正規ルートの右のバンド状に這い上がってビレー。4p 40m 竹中 左にカンテとフェースをトラバースすれば正規ルートに復帰できそうだが、プロテクションはたまにある残置のみになりそうでやばそう。また、正規ルートの方を覗き込むとその上にもベルグラ垂壁やハングが見えたので左方ルンゼの登攀は諦めることに。バンド状を更に右にトラバースし、おそらくT3をのっこして更にバンド状をクライムダウンして下部中央壁ベルニナルートの取り付きまで。 ベルニナルートはハングしたOWでかなり悪そう。今日はもう時間的にトップアウトできそうにないので残置ハーケン×3に新しく捨て縄かけて懸垂で降りることに。チンネ手前の岩陰に風を避けられる平坦地があったのでテントを張って泊。軽量化で今回のテントはステラリッジフライなし本体のみだったが、意外と風には耐えられそう。結構寒いが通気性がいいので結露しなくてある意味快適だったかも?4/6 晴→ガス とにかくチンネに登ろうということで中央チムニーを登る。しかしこちらもベルグラに覆われており厳しい登攀になりそうだ。リードは成田→竹中のつるべ。1p 40m 簡単なミックス壁を登りチムニー手前まで。2p 25m 凹角の緩い氷を登ってからチムニーへ。チムニーは遠目にはドライに見えたが、ホールドやクラックに氷が詰まっており中々厳しい。1手カムでA0してカンテを越えてチムニー右壁のテラスでビレー。3p 60m 再びチムニーに戻りヌンチャク掴んで辛うじて氷のないクラックにカムをセット。その後再びベルグラに覆われたチムニーを30m程登り、チムニー抜け口は右壁に張ったベルグラにそっとアックスを刺しアイゼンはほとんどスメアでのっこす。その後は比較的マシな氷の張った凹角を30m。スクリュー置いてきたので一応持ってきたアイスフック1つしかプロテクション取れなかった。中央バンドまでロープいっぱい伸ばしてビレー。4p 40m 中央バンドの雪田を右にトラバースしてピナクルのところで直上。aバンドがよくわからないので10m程簡単なミックスを登りビレー。5p 60m 右に7m程トラバースして右上するバンドに入る。適当なところで直上する凹角に入り、ロープいっぱい伸ばしてビレー。6p 20m 傾斜の落ちた岩を左上しチンネ頭。 壁が北面なせいか、登攀中はずっと気温は-2~5℃くらいで風もあり普通に寒かった。頭からの景色をしばし堪能。頭から反対側に降りたコルから残置ハーケン&ボルトの懸垂支点で60mいっぱいの懸垂で池ノ谷ガリー側の雪田に降り立つ。ロープの結び目がクラックに挟まり回収不能となったので恐怖の登り返し&確保してもらって途中の残置ハーケン支点で懸垂。いつの間にかガスガスになっている中池ノ谷ガリーを下降して三ノ窓のテンバまで。4/7 晴 池ノ谷ガリーをサクサク登り、雪壁登りや雪稜で剱岳ピーク。快晴でとても気持ちいい。早月尾根の下降は急で硬い雪壁のクライムダウンが結構出てきて意外と緊張した。標高が下がり日も照ってくるとひどいズボズボになり、耐えかねたので松尾平手前から白萩川側の斜面を適当に下って林道に合流した。あとはてくてく歩いて車まで。入山時よりも春が進んで一抹の寂しさを感じる。 アルプス温泉で身体を癒やしたあと富山のW田さんに寿司(!)をご馳走になった。ごっつぁんです! ずっと登りたかった山を、充実したラインで登ることができてよかった。小窓尾根白萩川側フランケは、いい時期に行くと何本も氷ができるので、雪のコンディションと気候の安定した時に片っ端から登り尽くすと面白そう。今回のように小窓尾根からチンネ等へ継続するのもいいラインだと思う。チンネは氷を期待して行ったのでちょっと残念だったが、ベルグラの壁はこれはこれで手強くて充実のクライミングだった。氷ができるのはもっと遅い時期か?気温が急に上がって壁の雪とかがほとんど消滅したせいか?また今度氷のできたときにリベンジしたい。
2022-4-11 21:19
ヤマレコAACH
強風でイグルーの壁が削られる緊急事態がありました
こんにちは、イグルスキー米山です。
●イグルー山行でのピンチ
これまでイグルーは無敵だ、と思ってきましたが、この冬、日高の主稜線でイグルー泊していて、強風で壁が削られ、夜中に穴が開き、緊急事態になったケースがありました。大切な話なので、この場で共有したいです。
事例を教えてくれたのは、北大山岳部の若手OBイノウエさんで、すでに30泊以上のイグルー泊経験があります。日高山脈全山単独縦走予定で、年末に日勝峠から入山し、行動13日停滞6日、今山行では6個のイグルーを作っています。ヤオロマップの山頂付近の5個目のイグルーで事故が起きました。日が暮れてから南風の強風にかわり、サッシビチャリ沢側に作った入り口側のブロックと壁から穴が開き始め、何度か内部からブロックを切って補強しても削られ続けてしまいました。
ヤオロマップ山頂の1/11晩に崩壊したイグルー。基本南北の日高国境稜線は、ここでは東西に向く。図の右が南側。
●当日の詳しい状況
1/11
18:00くらいから入り口周辺が削られ始めて穴塞ぎ、仮眠を続けた。気がつくと穴が開いていて塞ぐのを繰り返す。荷物をまとめておく。
23:30頃、目を覚ますと縦横50?以上の穴が雪壁部分に開いていて、みるみる大きくなっていく。雪ブロックを詰めようとするが埒が明かず、ブロックで積んである屋根部分も削られていくので緊急脱出を決めた。荷物はほぼまとめてあったが暴風雪の中、靴を履き、寝具をザックに詰めるなどの際、多少の紛失あり。
1/12
00:40頃 プラ靴を履いてフライにくるまって落ち着いた。山行中止を決める。
03:00頃 サッシビチャリ側の風が弱くなり風向きがナナシ側に変わる。明るくなるまで待つ
05:00頃 まだ暗いがイグルーを作り直す。吹雪で視界がなく2〜3m先が見えないこともあった。シビアなイグルー製作となる。
07:00頃 イグルーが完成し、ひとまず状況が落ち着いた。その後寝袋とシュラフカバーも強風で紛失していることに気づく。
1/12〜14日まで作り直したイグルーでビバークして好天を待ち、15日にコイカクの下降尾根まで戻って下山。
●状況の補足
・削られた時の風はザラメ雪を含み、雪の礫で風向きに対して目を開けられないほどの強さだった。
・その後12日に作り直したイグルーは尾根方向に入り口を作り15日まで十分耐えたが、やはりハイマツが近くサッシビチャリ側は(壁の薄さのため)若干青みがかる箇所があった。
・1/10に泊まって後にしてきたコイカクシュサツナイ岳山頂のイグルーは、4日ぶりに戻ると跡形もなく消え去っていた。このイグルーも固い良いブロックで積み、入り口も風向きとは逆側だった。
・コイカク、ヤオロマップは日高で特に風が強い場所の上、今年の稜線はクラスト状態がひどかった。
ヤオロマップで作り直した2つ目のイグルー、3日後ここを去る時の姿
●イグルー性能の見直し再認識を
低気圧接近時に日高の主稜線のイグルーで迎え撃つことが100パーセントできるわけではないことを憶えておきたいです。
これまでのイグルスキーの認識では、強風でイグルーが削られるようなところには、そもそも雪が少なくて地面が出ているところが多くイグルーが作れないと考えていました。
でも今回のように風向きが変わる可能性のあるところ、例えばヤオロマップの稜線は東西を向いていて、この西側1839峰のアタックでは、雪庇が両側に出ることが知られています。ということは、ここは雪がいつもあるところといつも無いところが決まっていない稜線なのかもしれません。
イノウエさんの印象でも、壊されたイグルーを作る前と後では、サッシビチャリ側にあった積雪の印象がずいぶん違い、全体に削り取られた感じを受けたということです。
ザラメの強風つぶてで壁が削られる不安を感じたのは富士山です。イグルーは強風のパンチで壊れるのでなく、削られて穴が開き、広がって行くイメージです。でもここでは風向きは一定でした。
ただしこの条件では、雪洞でも同じように削られるし、テントならば始めからもっと大変だったでしょう。イグルーでも、危機を察知して、対処するまでの時間が勝負です。
イノウエさんは危機的なピンチを、豊富な経験で落ち着いて、うまく対処したと思います。野心的な日高全山縦走は今回はならず残念でしたが、この難局を乗り切った経験は宝となるのではないでしょうか。やはり厳冬期の日高全山は手強いです。
でもね、さすが厳冬期日高。さすがイグルーって思いました。
イグルーを作れるような登山愛好家は、イグルーが壊れたってなんとかすることができます。
日高はそう簡単には貫徹させてくれないないけれど、イグルーが壊れたぐらいで死なないしぶとさ。これが最も尊いのでは無いかと思います。
きょうはここまで、またね。
ヤオロマップで崩壊したイグルーあと。消え去っている。積雪状況も大きく変わり、南側の雪の吹き溜まりの幅が狭くなっていたという。
2022-4-8 19:42
ヤマレコAACH
残雪期のイグルー心得
2022-4-4 9:11
ヤマレコAACH
稲穂峠から八内岳〜熊追山〜トーマル峠
稲穂峠から八内岳〜熊追山〜トーマル峠(積雪期ピークハント/縦走/積丹・ニセコ・羊蹄山)日程:2022-04-02〜2022-04-03メンバー: saito1987 Yanke1987コースタイム:写真:古平側のおどろおどろしい雪庇落ちたら空中落下で確実に昇天銀山の盆地と前回まで踏破した分水嶺を一望八内岳へ熊追山の先の稜線は霧に包まれ幻想的な雰囲気タンネ付きの天場適地はこの辺りと我々が泊まった周辺のみ分水嶺から外れた滝ノ沢山と天狗山振り返れば・784の断崖が素敵だタキビスキー軍団岩平峠ようやく当丸山着夕方には晴れてきて両古美山越しに余別岳が現れた3年越しのトレースの完成を祝うかのごとく熊追山〜当丸山中間地点の△784手前側の沢斜面は逆行程の場合スキー適地時間が無いのでシールを着けたまま尾根を滑走トレースして来た稜線はじめて熊追山が見えたトーマル峠までは快調なザラメ滑降これから行く岩平峠と熊追山方面の稜線熊追山頂上手前・824下りのスキーで先頭のSAITOがはぐれ(後続2名はルートから外れた尾根に迷い込む)、合流まで1hロス。当丸山の頂稜をスキーで行くラスボス的佇まいの当丸山手前・787ポコ状態悪ければスキーで登るのは不可能か八内岳から派生する稲倉石山〜天狗岳〜湯内岳の稜線古平牧場の風力発電施設古平方面の眺めを楽しみつつ当丸山へ急ぐ岩平峠の先・705との最低鞍部付近にねぐらを決めるツェルトスキー戸田氏翌日上部ガスのまま熊追山へ八内岳の広い頂上から雷電岬と日本海標高が高ければ良いアルパインルートとなるようなリッジも数本午後になって上部は厚いガス雲に覆われてきた八内岳への登り後方稲穂峠越しに蝦夷富士感想:札幌の奥座敷からマイナーピークを繋いで積丹原野へ、山スキーによる3年越しのトレースは今回の区間で完成。約100km。・豊羽鉱山跡〜美佐内山〜本倶登山(樺立トンネル) この区間だけスキ―の楽しさ重視で逆走した。春スキーの機動力を生かして本倶登→美佐内は半日行程。・本倶登山(樺立トンネル)〜三角山〜銀山〜稲穂峠 全方向パノラマが楽しめる、スキー滑走の区間も多く、楽しい・稲穂峠〜八内岳〜熊追山〜トーマル峠【今回区間】 熊追手前と当丸山手前に急斜面があり、雪の状態によっては苦労する。シーアイゼンは必須。古平側のお化け雪庇に気を付ける。・トーマル峠〜両古美山〜余別岳〜積丹原野 ポンネの登りからスキーは担ぐ。早い時期にはアイゼン必須。最後は積丹ブルーの海に向かって長い緩斜面を優雅に滑る。
2022-4-2 1:10
ヤマレコAACH
1415m峰
1415m峰(積雪期ピークハント/縦走/芦別・夕張)日程:2022-03-20〜2022-03-21メンバー: Takeuchi_2016 yumepporoコースタイム:コース状況/その他周辺情報:時期の割に雪多い感想:就活で多忙な中付き合ってくれてありがとうございます。
2022-3-30 12:55
ヤマレコAACH
北穂高岳/滝谷/クラック尾根
北穂高岳/滝谷/クラック尾根(アルパインクライミング/槍・穂高・乗鞍)日程:2022-03-28〜2022-03-30メンバー: gt2010 nrtk7コースタイム:コース状況/その他周辺情報:林道上ところどころデブリ跡写真:小屋付近は至るところ雪崩跡こ奴1p目上部壁、Aフェース槍うじゃうじゃいるチビ谷の大雪崩デブリ4p最終ピッチ彼方に槍槍小屋付近は至るところ雪崩跡1p目クラック尾根末端、スタート地点北穂高岳上部壁3pめb沢コルから降りるデブリだらけ滝谷槍バック北穂高小屋感想:クラック尾根は、ビレイ点含めナチュプロ主体でどこでもプロテクションが取れる快適ルートだった。壁は全体的に露出していて除雪もなかったが、しっかり氷結していたのでカムプロテクションも良く効いた。3000mの標高で壁が登れるのは楽しい。
2022-3-30 2:37
ヤマレコAACH
2年班春メイン コイカク〜ペテガリ〜中ノ岳
2年班春メイン コイカク〜ペテガリ〜中ノ岳(積雪期ピークハント/縦走/日高山脈)日程:2022-03-21〜2022-03-26メンバー: sy2017 Nakagawa2019 koichiro_mコースタイム:写真:・1573〜・1469。写真じゃ伝わらないけどたぶん核心部。いざ最高の土俵入り朝焼けとΩ4最後のピーク中ノ岳より南日高3山。ピリカまでくっきり。入山祝い高まっていくΩ1=Ω2よりコイカク完全に取りつき判断をミスったL最終日朝。心の目で燃やせ。無感情ルベツネピークなんか不思議な気分はじまった。はじまってしまった。緊張の糸が溶けていく。勝利だヤオロより23カムエク方面ガソリン補給中ノ岳はピークまでスノーシューおれたちの山夏尾根頭の岩稜帯貫徹の味ヤオロから1599への稜線いい朝だルベツネ手前でΩ3ルベツネ手前の岩稜ストック捜索南から見るペテガリはピラミダル中ノ岳から・1445への気が抜けない稜線同じ夢見させてもらいますはげ天を消費するALまさかのインデアン継続何度も振り返ってしまうリンゴ畑久恋の頂へ右手に圧巻の39さらに南進コイカク沢感想:できるとかできないとかじゃなくて、やりたいことやってみよう。きっとできるよ。おれたちはAACHだ。
2022-3-29 17:24
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2年班メイン コイカク〜ペテガリ〜中ノ岳
清き頂目指そうよ
2022-3-27 11:57
ヤマレコAACH
暑寒/恵岱岳
暑寒/恵岱岳(山滑走/増毛・樺戸)日程:2022-03-27(日帰り)メンバー: saito1987コースタイム:写真:北東斜面の滑降開始恵岱別川の渡渉地点雪解け水が滔々と悪雪切り裂いて滑る頂上は爆風雨止んで御科峠から出発平らな頂稜と白い斜面信砂岳をバックに高度を稼ぐ恵岱岳北東斜面感想:恵岱別川渡渉地点にスノーブリッジが幾つか残っているが4月1〜2週目位には消滅しそう。
2022-3-26 15:51
ヤマレコAACH
壁から三角柱のあと、どやって続けるか?
みなさんこんにちは!イグルスキー米山です。
今回は、屋根を塞ぐために長細いブロックを内部から切り出す三角柱切り出し法の、その後に付いて技術を図説します。しっかりイメージしといてね。
三角柱切り出し法のあとどうするか
ブロック切り出しは、切れ目をぴしりと合わせるのが必須です。切れ目がつながればブロックはコトリと動きます。そうでないのにスコップで出そうとすると、せっかくのブロックが崩れたり折れたりしてもったいないです。かるかた層が貴重な場合もあるのでなるべく無駄にしたくないですね。三角柱をまず取り出すのは、切れ目を合わせるのは割と楽なので、切れ目がつながれば、斜めの面を三角柱が勝手に落ちてくるくらいです。問題はそのあと。2つの方法があります。
方法1:垂直切り出し法
三角柱を出した下の部分からもブロックを取り出します。その際、後ろ側の切れ目を入れる時、ノコギリを普通に刺したのでは、斜め向こうに行ってしまい(図のA)下面の切れ目と出会うことができません。なので、切れ目はなるべく鉛直方向に近く入れたいところ(図のB)。そのために私は、下図のようにまずは一番奥にノコを寝かして起き、柄の部分を両手で持って、垂直な切れ目ができるように刃を下に回転させて、背面の切れ目を入れます。こうすることで底面の切れ目と背面の切れ目が出会うことができます。図では左側が切れますが、右側も同じ用に回転切りにします。この方法はブロックが切りやすい硬さの時使えます。短い柄でないとできないし、柄が短いので両手を使って回転する時力がいります。その下の段(下右の図)では、より柄が扱いやすい広さになるのでタテに差し込んで左に引いて背面を切ります
方法2:三角柱連続切り出し法
おすすめはこちらです。三角柱を一本だけでなく、その下からも連発で切り出します。そうすると、その奥の列は、ノコの角度が入れやすく、すんなり四角中を切り出すことができます。ただし60度と120度からなる「ひし形柱」ですが。こうしてできた四角柱、結構大きいので縦割りにして、屋根に使っても良い軽さにしてください。縦割りは三角柱2つでなくひし形四角柱2つでもよいです。
ひし形四角中が取れているところです。
横壁から長細いブロックを取り出すことで、中も広がります。この深さにはかるかた雪層あり。
大きいので縦割りにして軽くし、本数を増やします。
ノコの切れ目の注意
ノコの切れ目は、深く入れすぎず、その後どう切り出すかを考えて入れてください。後ろの列も同じ切れ目で切り出すなら良いのですが、うっかりいらない切れ目を付けてせっかくの大きいブロックをあとあと失わないように。
また、改めて書きますが、「ハの字」の法則は意識してくださいね。ハの字には二種類ありますよ。手前開きのハの字と、上開きのハの字です。片方だけでうまく行かない例をたくさん見ました。また次回。
今回はここまで、またね!
2022-3-21 3:44
ヤマレコAACH
城山、湯河原幕岩
城山、湯河原幕岩(フリークライミング/東海)日程:2022-03-13〜2022-03-20メンバー: nikonikoaokazu aach_17inoueコースタイム:写真:城山ワイルドボアゴージ。ジャンバラヤ11c。ご当地ボルトの残骸エキスカーション3p目梅の花がきれいな湯河原幕岩。お祭りの時期は過ぎてたので駐車代はタダ。エキスカーション4p目。大仁町。川と電車、家、田んぼ、車。ジオラマみたいで見ていて飽きない。日曜には川の土手でマウンテンバイクのレースをやってた。湯河原幕岩のルートは小粒でもピリリと辛い。これも面白いルートだった。JNCCルート(2p)。2p目が非常に美味。ただ10aにしては辛い。城山南壁、トワイライトゾーン、2p目は核心の11ab。甘いポケットをつなぐフェース。難しく、苔が目に入った。ancientボルト感想:日程のわがままをきいてくれた井上に感謝です。たくさん登れてよかった。
2022-3-20 16:20
ヤマレコAACH
イグルーネコ模型
こんにちは!イグルスキー米山です。
発泡スチロールでイグルー模型を作りました。どのくらいのブロックが必要でどのくらい大きいものだと良くて、どんな形だと良いかが視覚的にわかりますよ。なお、このブロックは実際の長さの1/2、体積は1/8です。モデルのネコよりもう少し大きい人向けです。このネコなら8匹は入って猫背を伸ばして寝られます。
実際は
大ブロック(A)30cm×30cm×50cmと長細ブロック(B)20cm×10cm×70cm
模型はその半分の縮尺です。
全体の雪の量
総量は1.5m×1.5mの湯船。深さは60〜90cmくらい。積雪が1mくらいはほしいところです。この模型では、堀り2段の途中までしか使っていませんが、それは理想で、実際には壊れたり、崩れたり、堀り一段目が全然ダメな雪のこともあるので、堀り3段くらいが普通です。
イグルー予定のブロック。地面の下。タテ50cm×3=1.5mとヨコ30cm×3=90cmの敷地から堀り2段分(2つ足りず)のA。両サイドの「かるかた層」からは10×20×70の細長ブロックBが掘り出される予定。
積み1段目は大きなブロックで囲む
人用なのでイグルーの底面は丸くするより四角いほうが使いやすいです。それに四角いブロックを切り出しやすい。積み一段目はなるべく大きなブロックを方形に並べます。スキマはなければ無いほうがもちろん良いです。この模型はブロックが足りないせいもあってスキマだらけです。
積み2段目は、真上に積んだらサイロ壁になります。なるべく中へ。入口の上も梁を載せます。角のところに橋渡しすると決まります。角じゃない所は滑り落ちないギリギリまで内側に寄せます。
積み2段目は中にぐぐぐぐっと攻める。角は橋掛けで攻める。
二段目も大きなブロックです。でも真上に積んだらサイロになりますよ。できるだけ内側へよせてください。寄せるためには壁の厚みが十分30cmくらいは必要です。模型では数が少ないのでスキマだらけですが、もちろん触れ合っていたほうが摩擦で落ちません。
ブロックさえ長細ければ、苦もなく屋根が塞げることがわかると思います。ネコ、見守るばかり。
積み3段目以降は長細いブロックで多角形橋掛け工法
長細い、70cm以上あるブロックをなんとか「かるかた雪層」から切り出してください。これが屋根完成の成否を分けます。屋根は重いと不安定です。厚みは10cmくらいになるよう縦割りにしてください。割れば2本取れます。
長細いブロックが取れない時
かるかた雪層がなかったり、切り出し技量が未熟だったりで細長いブロックが10〜20本くらい取れなかったら、ストックを渡したりすると、クズクズの小さいブロックでも引っかかって落ちません。この時、あまり重いブロックを乗せるとストックがたわみます。薄くフレークにしてください。10cm以下が良いです。
ブロックの縮尺は1/2なのにストックは実物なのでこんなに長いです。橋渡しはど真ん中でなくとも隅っこで2〜3本くらい掛ければ断然進みます。
コの字型のブロックは、いまいちなブロックの象徴です。屋根なので10センチ以下の薄めにします。おもかた雪なら厚さ5センチでも大丈夫。
逆にウルトラ長いブロックが取れちゃった場合
この大きいのを3本かければ屋根ができます。イグルーと言うより棺桶みたいになりますが。一本だけ渡せば、あとはクズクズフレークだけでもふさがります。
発泡スチロールのブロックを使えば、イグルーは3分でできます。つまり、決め手は、切り出し技術なのです。 改めて重要な要点は
・かるかた雪層を当てる。
・ノコギリテクニック・奥の切れ目を確実に合わせる。ブロックがコトンと動くまで。
・ノコギリテクニック・上開き、手前開き、2つの「ハの字」を確実に。
・途中でできる、じゃがいもみたいなダメブロックは、ためらわずに外へ捨てる。積んでも後で上の方が崩れる。
きょうはここまで、またね!
友情出演・ボル
イグルスキーネコ 1
イグルーの作り方解説動画のつもりが、ネコに入られてしまいました。
2022-3-20 7:03
AACH現役サイト
定山渓天狗岳 継続登攀
近くていい山
2022-3-20 6:54
AACH現役サイト
層雲峡 パラグーフォール
バーチカルアイス入門
2022-3-20 4:13
ヤマレコAACH
定山渓天狗岳 ラクダ岩稜(左)ほか
定山渓天狗岳 ラクダ岩稜(左)ほか(アルパインクライミング/札幌近郊)日程:2022-03-17〜2022-03-18メンバー: sy2017 Nakagawa2019コースタイム:コース状況/その他周辺情報:小規模なデブリはいたるところに写真:ラクダ岩稜左1p目(中)2p目(中)ついでに左クーロアールも登った1p目(sy)?峰と?峰?今度行きたい2p目終了点1p目フォロー中央クーロアールがんばったピークラクダのこぶ2p目(sy)3p目(sy)感想:神居岩とか赤岩でのトレーニングを山のクライミングに活かせるの楽しい。
2022-3-16 9:27
ヤマレコAACH
黒岳北稜
黒岳北稜(アルパインクライミング/大雪山)日程:2022-03-08〜2022-03-09メンバー: nrtk7写真:いい天気凌雲岳カムイミンタラ上部岩壁かんたんな登りトップアウト北壁ピーク最終ピッチを登るウサギ北稜とイグルー1pめ北稜に上がる小さな先行者のトレース感想: 現役時代に行こうとしてアプローチ敗退した黒岳北稜。その後なんとなく気になりながらも行くタイミングがなく、宿題となっていた。でもクライミング的には3級程度の簡単なピッチしか出てこないので特別今更行く魅力も感じずスルーしてしまっていた。今回上川のYDさんの友人宅ゆきうみハウスに滞在中、天気が良いけどパートナー不在の日があり、単独にはちょうどいい難易度ということで行くことにした。3/8 雪降る中、1400円のロープウェイ代を払いたくないがために夏道を下からスキーで上がる。泊まり装備にロープやギアを全て積んだマカルーが背中に食い込む。映月峰を偵察しながらゆっくりと登る。途中スキーヤーやボーダーとすれ違った。こんな重荷背負って40年前のジルブレッタとスキーでここを登る人間はさぞ奇特に映っただろう。ここ数日雪がコンスタントに降っていたのでラッセルも結構あり、アヒアヒになりながら黒岳駅。後は圧雪されたスキー場をペタペタ上がってリフト終点、その上もあんまりラッセルなくさくっと肩。適当にイグルー作って泊。3/9 入山前にスパンティークの左踵にひびが入っていたのに気付いたので、瞬間接着剤とダクトテープで処置していたが、右踵にもひびが入っていた。靴を履いた後左右ともにテーピングとダクトテープでぐるぐる巻きにして対処。ちょっと怖いが多分大丈夫。肩から黒岳沢側に下降して、現役時代に敗退したトラバースに取り掛かる。今回は敗退したときよりは雪付きはマシで、一箇所微妙なところはあったもののサクッと通過できた。北稜基部をさらに西側に回りこんで簡単そうな凹角から取り付く。今回は一人なので攻めたラインはとらずに、最も簡単そうなラインを登ることにした。硬雪ダブルアックス、木登り、岩登りをこなし快調に登り、取り付きからたった1時間半でピークについてしまった。ロープ、カムナッツトライカム、イボイボ等身につけていたが結局どれも使わなかった。ピークには誰もいない。快晴のピークをしばらく満喫して下りようとすると夏道尾根から大量のスキーヤーボーダーが上がってきた。ジャラジャラ金具つけてペタペタ下りていく自分がすごく場違いに感じられた。イグルーに戻ってのんびり荷物をまとめて全装スキー下山開始。上質パウダーなのでずっこけながらも楽しく下山。だったのは黒岳駅までで、そこから下は僕にとっては苦行でしかなかった。
2022-3-9 9:57
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ニセカウ南稜
試された総合力
2022-3-6 17:13
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野塚岳〜十勝岳
成人式 in 日高
2022-1-24 0:06
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第94回ヘルヴェチア祭...
この投稿がうまくつながらなくて、だいぶレポートが遅くなったが、昨年晩秋のヴェチア祭り。コロナで私以外のOBは写ってません。女子が4名も
前夜祭。現役が料理をふるう
私はコロナを避けて乾杯後、小屋管理のアドバイスをして退散
翌朝私は再訪して祭りに参加。祭りといっても記念写真を撮るくらいだがヴェチアの歴史を少し語った
部歌の山の四季を歌ってヘルヴェチアの神様に献杯!だけはした
祭り後は大掃除に薪割り。女子もチャレンジ。今年の薪はトイレ脇の大きくなりすぎて、また小屋に傾いたキハダの木で夏に伐採したもの。
煙突掃除の後は床掃除とワックス磨き。他の北大小屋から比べると床が汚いので、ハッパをかけてしっかり磨いてもらう
2021-4-24 23:18
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【読書備忘】岐阜百秀...
地方の百名山の書は数あるけれど、県山岳協会や当地の新聞社が手分けして踏査して協議して選んだ本が多いのではないだろうか。中には各市町村に公平にというような選定もある。岐阜にも、上述のような選定を経た1975年の「ぎふ百山」があったが、124山と絞りきれていない。また高速道路ができ徳山ダムができて環境の変わった今の時代にふさわしい「佳き山」を選びたいと、著者清水克宏氏は最新情報を載せるため五年に限って踏査し選定したという。
ひとり個人が候補の100以上を登って選んだというものは、深田久弥の日本百名山と清水栄一の信州百名山だけではないだろうか。強い計画力と実行力とを要する情熱、そして教養がなければなし得ないのではないか。
私は先月3月に石徹白から白川郷まで一週間の白山縦走をしてきたばかりで、歩いてみて知りたく思ったこと
「なぜ三つの越前、加賀、美濃の禅定道のうち最も泰澄法師ゆかりで正統のはずの越前道がいま見るかげもないのか?」
「なぜ石徹白はあの独特の雰囲気なのか?」
「念仏尾根の妙法山周辺の複雑な地形もやはり古くから人が通ったのか?」
などすべての好奇心の答えを、この本は歴史的な視点から教えてくれた。
信州人の私の目線で岐阜県とはどんな県か。長野県と北アルプスを挟んで対称の位置にありながら、信濃にはない多様性がある。北陸豪雪地域に面した山嶺が長く、標高はなくても遠く深い奥美濃や、白山に連なる国境があるかと思えば、鈴鹿山脈にも木曽山脈にも引っかかっていて、実に多様。それから低山だけれど個性ある山と人里の多い県中央の山間部。これらを俯瞰して一冊の中に眺めることができた。
この多様な山域の隅々まで、歴史的背景や地名山名の由来なども漏らさず盛り込まれている。往時の修験者、木地師、鉱山師に関する話も、知れば山歩きで見える風景を変える要素だと思う。とりわけ、徳山ダムで沈み非常に行きづらくなった千回沢山(とても100山に入れるわけにはいかなかったとある)や、廃村の馬狩で出会う現地の人とのささやかな交流の話などはとてもおもしろい。日本の山里には従来、人と文化があり、今はそれが失われゆく時代なのだ。こうしたさりげない話が貴重なのだと思う。そうした時間軸を意識すると、コラムで触れていた奥美濃の山を紹介した昭和15年刊行の「樹林の山旅」には、たいへん興味を惹かれた。
岐阜県の山にはその名前が地形図に載っていないものが多いという。信州との対比で、濃尾平野以外は山がちなので、遠くの名山が抜けて見えない、そのため名前が広く認知されなかったり、飛騨山脈が視覚としても印象に残らないのではないか、との話もしていただいた。本書に一貫するのは、そんな「少し不遇な」岐阜の山への愛着である。
私はいくつ登ったのかな?うきうき数えてみたら34だった。楽しいものだ。
私も、筑摩、安曇両郡(犀川流水域)50名山を選んでみた。故郷の山への愛である。
ナカニシヤ出版2021年5月
森の国水の国 岐阜百秀山
清水克宏
2200円
2021-3-22 4:03
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Re: 【中部日高】ナナシ沢1823m峰南面直登沢→コイボクシュシビチャリ川
2021-3-7 10:29
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【読書備忘】ぶらっと...
毎日新聞夕刊で特集ワイド面記事を書く、藤原章生会員(1980年入部)の最新刊です。海外取材の長い58歳記者(当時)の、プライベートなダウラギリ2019年遠征記。
なぜこの年齢になって八千m峰を目指すのか。著者の幼年期の体験、青年期の山、海外支局取材時のさまざまな話を交え、高所の及ぼす脳や精神への影響から、話はどんどん死と時間、恐怖と勇気、シンパティコ、達観と情熱、なぜ山に登るのかというテーマに至る。昔から相当な読書量だったうえ、著名人のインタビュー経験が豊富であり、ジミー・チン、メスナー、原真、リカルド・カシンなどの発言や行間にふれる部分が面白い。大澤真幸の「他の誰にも出来ない仕事」の話が良かったです。
故郷を出て男ばかりの共同体に初めて入門した1984年の私にとって、東京の下町の育ちだそうで、きっぷの良い話しぶりに、人をじろりと見る目つき、あけすけにものをいい、最後にニヤリと笑える話を添える藤原さんはちょっとワルなインテリとして、憧れの人でありました。直接の先輩である2,3,4年目のひとつ上の5年目でもあり、何より1984年のガルワール・ヒマラヤ、スダルシャン・パルバットのメンバーでした。1年目の私には近い将来の憧れの未来そのものでした。興味はなかったけど、くわえタバコの麻雀にものこのこついていきました。
私が半人前を終えかけた3年目の4月上旬、藤原さん鷲尾さんに誘われて、立山、剣に登りました。大町の扇沢からスキーかついで冬季休止中の関西電力のトロリーバストンネルを延々歩いて、ケーブルカーの真っ暗な階段トンネルも延々登って、いきなり立山の東面に出るアプローチでした。今では考えられないけど、当時は特に止められなかったし許可とか危険とか、そういう日本社会ではありませんでした。ここに雪洞を掘って3日間、悪天缶詰になって、最後は雪崩が危なく日数切れで引き返しました。4泊も穴の中でヒマだったかといえば、藤原さんの面白い話を朝から晩まで聞いて、ゲラゲラ笑って過ごしたのを覚えています。全く話の上手い人でした。本書にも出てくるけれど、20代の若い時代特有の「シンパティコ(人懐っこさ)」の話には、このときのことを思い出しました。当時、名前しか知らなかったOBの小さな話を、顔マネ、口真似しながら藤原さんが話してくれるのですが私は腹を抱えて笑いました。
その後、藤原さんは新聞記者、私はTVカメラマンになり、業界は同じでも全く違う仕事でした。はじめ私は山岳撮影が主な関心でしたが、藤原さんのように誰か興味深い人にとことん話を聞くドキュメンタリーのような仕事にあこがれてきました。留学や海外支局で日本を離れた藤原さんを、グアダラハラ、ヨハネスブルク、ローマと、夏休みなどによく訪ねました。昔からずば抜けた読書量で、あるとき話のはずみで文庫本の巻末にある他の本の紹介広告のタイトルを見ながら、これも読んだ、これも読んだ、と数十冊ほとんどすべて読んでいた話を聞いて驚きました。彼に勧められて読んだ本も数多くP.フォーバス「コンゴ川」、G.マルケスあれこれ、関川夏央、丸山健二など、私が本を読むようになったきっかけかもしれません。特集ワイドの取材でインタビューに行く前に、相手の著書は全集含めてほとんど読んでいくとあり、納得します。
本書では、やはり高所登山中に受ける精神的な影響の話で死に対する考察があります。いつか20代の頃、どこかの国を訪ねたときの雑談で「俺は最期、死ぬ時に、間際にどんなことを思うのか、横になり朦朧としながらも、心に浮かぶこと、考えることを様々、全部ペンに書き取りながら死にたいね」と言っていたのを読書中に思い出しました。やはり、ずっとこれは大切なテーマだったんだ。
あらすじを書いてもネタバレになるので、藤原さんの追悼文のようになってしまったけれど、少し上の先輩の勤め人の節目である定年退職間際の心の内など、私も大いに関心が高く、今後の人生でも常に先を行くセイパイに変わりありません。まだ30年、人生は続く。
2021-1-28 17:32
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【読書備忘】 リュック...
100年を迎えた早大山岳部と稲門山岳会の100周年記念事業誌。昨年はお祝いの催しも計画していたが、covid19の影響で中止になったとのこと。
1920年前後、第一次大戦後の好景気で日本社会は鉄道が伸び、大衆の観光や旅行や登山活動にも広い裾野が伸びた。以前から大学生を中心に行われていた登山界にも逸材が流れ込んできた時代で、老舗の大学山岳部はこの頃相次いで山岳部を創立した。北大もスキー部が1912年から創部、そこから山岳部が独立したのが1926年。
リュックサックはもともと現役の部報であり、2011年に14号が出ていて、今回は15号。1990年代・平成以降は現役部員が少なかったためリュックサックは次第に両者合同の内容で編集されているようだ。内容は過去100年の早大山岳部のあゆみがダイジェストで記される一方、14号以降の10年分の活動報告が厚めに盛り込まれている。
冒頭のまとめはよくまとまっていて、早稲田の100年を今回初めて知ることができた。実は早稲田の歴史について、失礼ながらこれまであまり印象がなかった。K2の大谷映芳氏と、翻訳家の近藤等氏と、あとは80年代の同世代数人の名を知る程度だった。早稲田は伝統があり部員も充実していたのに、死亡遭難事故や不運が多くヒマラヤ登山では79年ラカポシ、81年のK2まで成功を得ることができなかったことを初めて知った。また、その後の世相の変化による90年代以降の部員減少期の組織的葛藤や不信。ヒマラヤで活躍を期待されたやる気に満ちた若手が次々に死亡遭難事故で失われる苦しみなど、かなり踏み込んで事情を読むことができた。
他大学との対話でこれからの山岳部を考える、という企画のひとつに、北大山の会から11人が座談会に出席し、北大的な山岳部気質などを紹介する機会が設けられた項目がある。私達にとって、早稲田も含めた東京の山岳部の活動は、「監督、コーチ」「合宿」「トレーニング」という存在が示すように、かなりスポーツ的に見える。歴史的にも、他校山岳部との競り合いを強く意識している気配を感じる。「スポーツ科推薦入試」も2000年代にあったとあり、発想としては競技スポーツを連想する。極端に言えば、彼らから、その要素を引き算して、さてどう山に登ろうか!といったものが北大流だったのだということを感じた。そしてそれぞれの寄稿を読むと、やはり早大自身の中にも「個人山行⇔合宿」という大きな対立する概念があり、それを内的に処理できず、苦悩して来ているように思えた。
巻末に年次順の会員名簿が併記されている。おかげで記録を見る際にたいへん助かるのだが、会員の総数が、ここに載せられるほど少ないことに驚いた。80年代以降のほとんどの年は一学年一人か二人しかいないのである。よくぞ続いてきたものと思う。
どんな時代でも大学山岳部にしかない魅力は、学生時代の当事者にはその時はわからないけれど、100年も続いた縦の時間軸を越えて、皆が同じ青年期を過ごした経験を共有できることだ。行く山は同じでいい(違う山でもいいけど)。馴染みのメンバーが生涯居る。おなじみの雪稜で迷い、おなじみのナメ滝で滑り落ち、おなじみのクラックに右手を突っ込む。おなじみの飲み屋におなじみのヒュッテ。ヒマラヤやデナリはオマケだ。老いたメンバーはそのおなじみの定点があることで、自分がどれだけ遠くまで来たか確かめる。若いメンバーには尊敬する先輩がいればそれでいい。そして、山で死んだ仲間のことを時々思い出すのだ。人のライフサイクルをまたいだそういう共同体は今、日本でほぼ失われつつある。なにかに勝たなくていい、文化を伝承するのが、大学山岳部でありたい。
2021-1-26 13:21
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【読書備忘】サガレン...
著者は硫黄島1945司令官、栗林中将のノンフィクション「散るぞ悲しき」で憶えのある著者。かなりの鉄道オタクとのこと。特に廃線ジャンル。樺太鉄道は憧れなので期待して読む。雑誌の連載紀行をまとめたものなので旅行記として読みやすい。
サハリンは、アイヌ・ニヴフ・オロッコ、ロシア、日本、ソ連の時代変遷で地名が三つある。ロシアとソ連時代でも違う。サハリンの地図を片手に、更に地名対照表を片手に読むと更に楽しい。
白秋、賢治など日本統治時代に訪れた人々の足取りも盛り込まれチェーホフ、林芙美子、村上春樹まで改めておさらいできる。後半の宮沢賢治の亡き妹を悼む詩集と辿るパートは東北本線や津軽海峡の下りなどの検証なども含めてサハリンからは離れるけれど、時刻表や車種の証拠からも詰める乗り鉄オタク手法込みのノンフィクション検証で、1923年の傷心の旅を解析するところはお見事。賢治の詩編の一言一句の吟味になるが、これはこれで大変面白かった。はるか昔読んだ賢治の詩は不思議と心に残りあり、詩特有の曖昧な受け取りだった言葉の数々も先行研究もうまくまとめられてこの本で明確になりました。賢治特有の草花や鉱石の解説も詳しい。妹の死、樺太鉄道旅行、そして銀貨鉄道の夜への流れを解釈する。
やはり樺太山脈スキー縦走に行かなければならないなあ。山岳部の仲間と、コロナが収まったら、旧国境を積雪期に越えて北上したい。帰りは鉄道で帰るのだ。やる気が出てきました。何キロくらい、無補給で行けるだろうか。
2020-12-16 21:09
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【読書備忘】追憶のヒ...
日本山岳会東海支部で、1970年のマカルー南東稜初登以来、50年間名古屋岳人のヒマラヤ遠征、東海支部の組織運営を担ってきたご本人77歳の総まとめ自伝本。東海山岳に関わった人にはたいへん興味深い歴史の、一つ一つの裏側を語ってくれる。
そして、AACHにとっては、偉才、原真氏の右腕として尾上氏が携わった数々の話が興味深い。東海支部設立、アンデス、ヒマラヤ遠征のゼロからのスタート、組織作り、資金集め、日本山岳会本部との確執(というかみんなが知っている妨害工作)、現場での破綻、遭難スレスレの格闘と成功などの歴史が尾上氏目線で語られる。関係者の多くが亡くなっているのも、おそらく今書ける理由でもある。やはり生き残った強みである。みんなが知りたいことでも、関係者が居る前ではなかなか文字にはできないものだ。何より尾上氏のその後果たしてきた実績と信用が、彼の書くことならと、周りを納得させられたのだろう。50年経って、やはりマカルー南東稜は歴史になったのだ。
1970年マカルー南東稜初登は、ヒラリーに「あの南東稜をまさか日本人が登るとは」と言われた、当時難しすぎる未踏8000mのバリエーションで、同年の日本山岳会(本部)のエヴェレスト(ノーマルルート第六登)に比べると、事情を知るものには段違いの快挙だった。だが、これは「思想家・原真」の強烈すぎるリーダーシップによって鍛え上げられた先鋭集団だから成功した。そのいきさつを、原さんの右腕役を務めた尾上氏が文章にした本書は、まことに興味深い。マカルーを、東海支部を、新撰組にたとえる下りがある。「尾上、明日までに○○を切れ」とささやく原さんはまさしく土方歳三ではないか。ぞくぞくするような展開である。
本書後半では、原さんが去った後の東海支部の40隊にも及ぶ海外登山隊の切り盛り、尾上さんを育てた東海高校剣道部、日大山岳部の活動なども触れられる。名古屋という土地に於ける人のつながり、その時代の背景が、門外漢にも判って大変おもしろい。1960年代の日大山岳部が極地山行に傾倒していたのを少々知ってはいたが、ここまでグリーンランドや北極点に通っていたとは。ヒマラ高峰系の海外ではなく、ソリを曳いて未知未踏の極地エリアに分け入るスタイルは北大の志向に近いものがある。日大山岳部の池田錦重氏や、名古屋山岳会の 加藤幸彦氏も触れられる。私はお二人と90年代にガッシャブルムやチョモラーリで山行を共にしたことがあり、知らなかった一面を読むことができた。人には出会う以前から歴史があり、そのいきさつを知ると、知っている人であってもまた多面的に見えてくる。
「誤解を恐れずに書けば、山登りは死ぬほどおもしろいのであり、おもしろいほどあっけなく人が死ぬ世界である。」ぎくりとするが的を射ている。誤解されそうなので書くが、人の死がおもしろいのでなく、「(その山登りがギリギリ生還するような過酷なレベルのもので、おもしろければ)おもしろいほどあっけなく人が死ぬ」という意味と解釈する。敢えて誤解されそうな書き方をするところが尾上氏流の味かと思う。こんなお節介は不要か。原真も書いていた。「山には死があり、したがって生がある。下界の多くにはそれがない。」
また原さんの本をよみたくなった。
尾上昇(おのえ・のぼる1943年生まれ) 2020 中部経済新聞社 1600円+税
2020-11-11 14:32
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第93回ヘルヴェチア祭...
今回はコロナ対策としてOBには案内は出さず現役のみで企画、開催。
ヴェチア幹事の佐藤君(4年目)からの報告を混ぜてレポートします。
参加者は現役13名、2013以降の若手OB7名 水産4年1名。指導のため特別参加のOBは井ノ上、石川部長と私。現役と若手OB2人は昼間は赤岩で登ってから到着。
17時頃から前夜祭。部長から挨拶と小屋生活や山行を通しての山仲間の意義を、私から作った小屋管理マニュアルの説明の後、幹事(オレンジ帽子)が乾杯。料理は2年目シェフ田中君により、豚汁、唐揚げ、大根の煮物、サラダ等。
現役と若手OBら。3年目がいないが1年目が4名いて全体で15名近くと何とか部員数は維持。若手OBに協力してもらって2年班のリーダースタッフをお願いしたい。
女子が3名も。焚き火を囲んで自己紹介、山の四季などを歌いお開き、一部の者は日付をまたいで話し込んでいた。
我々OB3名は19時頃に退座して帰ったが、その前に現役は山の四季含め、カメラーデンリートも知らないというので2〜3曲と、森田君(1973入)が現役2年目に作った「ヘルヴェチアコンパの歌」も歌唱指導してきた。部室には1993発行の歌集「山の四季も」あるというが、山と歌は我々には切っても切れないものなのだが〜OBの指導が必要か。
ヴェチア祭り記念集合写真、ロゴと国旗は佐々木ロタ(1955)の90周年の際の労作。本祭としてヴェチアの女神に祈りを捧げ、集合写真を撮り解散。
小屋大掃除での床ワックスがけ。以前より木目が浮き出てきた。
前日私が砂利を積んだダンプで小沢を越えて砂利敷き。山の会会計に了解を得ての作業でバイト代として現役にもカンパをしてきたが、途中でぬかるみにはまり動けず、結局レッカーを救助要請して高いものになってしまった。
2020-9-29 15:20
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【読書備忘】人間の土...
東海大山岳部で2006年、若くしてK2登頂を果たした小松由佳さんは、その後山をやめてシリアの遊牧民を撮影するフォトグラファになった。なぜ山をやめたのか、以前はそれを知りたかったが、今は少しわかる。K2登頂生還者というオリンピック並の金メダルは、その後自分の山登りを若々しく無邪気に正直に続けていくのには重すぎるものだったのかもしれないと推測する。信頼できる仲間、積み上げた技術と体力、高所で酸素が切れてもヤラれなかった才能、これだけそろえても更に強い運が加わらなければK2から生還はできない。彼女は賢明で、成功のあと、足りたものを知り、無理に世間の期待や相場に合わせて「高所登山中毒」に陥ることなく、自分の別のテーマにすっと移行したのではないか。
家族を大切にし、伝統の中に価値を見出し幸福に暮らすシリアの家族を撮影した写真集、「オリーブの丘へ続くシリアの小道で」は、彼女の新しい世界をみせてくれた。しかし、2011年に始まった民主化運動を弾圧するシリアの内戦はその後地獄と化して、今現在も10年近く続く終わらない悪夢だ。シリアに関わった彼女は、幸せだった人たちのその後の窮状を危険な治安機関の制限のなか撮影、あるいは取材し続ける。
https://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=745&cid=7 帯に角幡氏とヤマザキマリ氏の推薦文が。探検家角幡氏はわかるが、ヤマザキマリの応援はなるほどと思った。小松氏は、シリアの60人もの大家族の末っ子男性と結婚し、元ベドウィン(遊牧民)の砂漠伝統家族の仲間入りをするという、思い切った人生を選択していて、この点が「モーレツ!イタリア家族」の一員になったヤマザキ氏や、イギリス人と結婚し最近おもしろい本を連発しているブレディみかこ氏に通じるたくましさがある。本著の前半はそんなベドウィン風の古き良きイスラム的大家族の幸福な魅力が語られるのだが、今世紀最悪のシリア内戦の当事者として、ストーリーは続いていく。
思うに彼女は、選ばれてしまった人なのだ。強剛登山家が4人に一人の確率でがあっけなく死んでしまうことで有名な死の山K2から、仲間と才能と努力と運に恵まれて生還した運命といい、地獄と化すなんて想像もしなかったほんの数年前の幸福な時代のシリアを知った上で、今の惨状を知ってしまった運命といい、本人も予期しなかったことではないか。
しかし、アフガンの故・中村哲氏も言っていた、「見てしまった、知ってしまった、放っておけない」これが彼女の運命ではないかと思う。そして運命は、弱い人間を選びはしない。大学山岳部で山登りにとことん打ち込み、強い心を持った彼女だから、今こうしてシリアの内戦から逃げずに歩んでいけるのだ。そしていま最もやりがいのある仕事、ちいさな二人の子供と歩む実り多い人生を過ごしているさなかだと思う。
「山岳部員出身」というちかしさから、20代の数年間を山登りのことばかりを考えて過ごしたという共感から、彼女の人生をひとごとと思えない。彼女は、自分で選んだ人生の舵を決して離していない。船は波に漂うが、舵だけは自分で握り続け続けている。子どもたちのビレイを続けながら。その姿がとても尊い。
人間の土地へ
小松由佳
2020/9
集英社インターナショナル
2020-4-15 21:46
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【読書備忘】渓谷登攀...
大西良治著「渓谷登攀」が出版された。ガイド本を除いて、沢登りの本としては成瀬陽一氏「俺は沢ヤだ」以来の事だろうか。いや、「外道クライマー」以来か。
登山者人口が増え、情報もそれなりに流れるようになりかつてのハードル高さも減じて夏道登山だけに飽き足らずクライミングや雪山、そして沢登りにも手を染める人達も徐々に増えてきたように思う。それにしても、このような特殊な本にまで手が伸びるとは到底思えず、出版元の山と渓谷社の英断を称えたいし、こうして沢登りの深部が紙媒体として残ったことを祝いたい。装丁も、表紙からして配色やI滝と文字の配置よろしく洗練されており、編集者の労をねぎらいたい思いだ。目次等、背景が黒で文字を浮かばせたそれらは、渓谷内のゴルジュを意識したものだろうか。
台湾渓谷での沢登り(溯渓)や日本の険谷遡行に多少なり関わってきた身として、この本がどういった価値を持つ本なのかを語ってみたい。
著者である大西良治氏については御当人の開設する「SOLOIST」を参照頂くとして、ここでは客観的な補足に留めたい。クライミングに魅入られて入れ上げる多くの人々が、登山総体の中での一ジャンルに過ぎないクライミングという行為自体を目的としてしまうだけに満足する中で、大西氏はクライミングを手段としてこれまで通過やトレースが許されてこなかった大滝や不明だったゴルジュを解明し、時に新ラインを引いて我々オールドスクール出の溯行愛好家を驚かせた。またそれらが主として単独で成された点に尚、驚かされた。
まずは国内掲載の「日本の渓谷」について。25本の掲載があるが、私の少ない経験に照らしてもどれをとっても一筋縄ではいかない険谷群の羅列である。登攀的要素が強く、単独でロープを出すとなれば「ソロイスト」という制動ギアを使用した登り返しの必要な倍手間を喰うシステムとなるし(赤川地獄谷、オツルミズ沢、池ノ谷、梅花皮沢滝沢、剱沢等)また、泳ぎを強いられる谷(不動川やザクロ谷、五十沢)では水流への引き込まれを回避できる確実な方法がないために“賭け”ざるを得ない場面も現れる。増してや滝や高捲きのフリーソロ部分では絶対に落ちられない。一本一本が遡行愛好家の究極の目標たり得るものばかりであるが中で「日本の渓谷」のハイライトは『称名川』、の項である。入口とも言える称名滝(しょうみょうのたき)が世紀末周辺に登られ出すや、次に注目されたのが当時未踏を誇った「称名廊下」であった。探検家である角幡唯介氏や北大探検部卒の故・澤田実氏、そして上記成瀬氏もこの「日本最後の地理的空白地帯」に注目して懸垂下降しては廊下部分の踏査をし、写真を残していた。成瀬氏に至っては計画の発案者である青島靖氏と共に称名滝落ち口からの溯行や、称名廊下終点からの下降とトライアルを重ねたものの水量の多さやスケールの大きさから「今までの溯行スタイルを越えた何かを掴まえること」が初溯行には必要となるだろうと記録に書き残し中退している。これら動きに連動してか、大西氏もこの称名廊下にエントリーして、氏としては”不本意ながらも”初めての偵察やエスケープ路の確保をした上、初溯行を成功させた。それらにも飽き足らず、更には称名滝(フリー)登攀から称名廊下、そして源頭の室堂までの溯行を(デポを置きながらも)ワンプッシュで完成させ、区切りとしている。誰の手も借りることなく。これら一連の行為に投じられた情熱や労力の総量たるや、計り知れないものがある。
この本に紹介された記録には、幾本かの重要な意味を含んだ山行が採用されている。それは、引き返しの効かない地点を意志的に踏み越え、困難を乗り越えた末に生還している点である。しかも“良いスタイル”で。台湾の大渓谷に踏み込むにあたって、谷中でトラブルやアクシデントに見舞われた際にはその奥深さ故に救援は全く見込めず、自力で対処し行くか戻るかの判断を迫られることもあり、何があってもパーティー内で処理し、覚悟を持って入渓する点は多少なり救援の見込めるヒマラヤ登山以上の心理的ハードルがある。その意味で「台湾の渓谷」での記録はその“ある地点”言い換えれば「境界」をどれも踏み越えているし、称名滝右壁登攀、そして「CANYONING」の項では剱沢や恰堪溪(チャーカンシー)の1st descent、Gloomy Gorgeの2nddescentもソレに該当している。
尚、我々が行っていた二十世紀末の台湾溯渓は、同行する現地の嚮導者の人数や力量もあって実にオーソドックスな遡行スタイルに終始し、困難な滝やゴルジュ帯が現れれば一日掛かりの大高捲きを敢行して回避し自然、日数に制約を受けた“そこそこの”中規模渓谷までの溯渓に限られていた。しかし世紀改まり、台湾溯行の際の嚮導者、人数等の制約事が良好に改善されたことも手伝って且つ日本からは精鋭達が集い、この魅力溢れる台湾島の未踏大渓谷群にありったけの情熱や力量を注ぎ込むことが出来た結果、たった一本の渓谷に二週間にも渡る沢登りとしては長期の日程を投じて高捲きを極力排した完成度の高い溯渓が次々と成された成果が、この本にある。規模の大きな台湾渓谷での高捲きは溯行に際して日数を食い潰す排すべきスタイルであり、高捲きを選択せず些か強引な手段を採ってでも中を通過した方が遡行は遥かに捗ることを示した。高いクライミング能力を武器に、ボルトの使用すらも排し、且つ不明部分をつくることなく行程を早く進められる。そのことは、前記青島・成瀬両氏が長渓、豊坪渓を三度に分散して完溯したのに比べ、彼らは(途中入渓だったとしても)ワンプッシュで左俣を成し遂げたことにも現れている。
渓谷溯行で現れる、一見して通過不能と見える鬼気迫る暗いゴルジュや廊下が人生の苦悩の、登攀困難な滝が人生の困難を象徴するならば、これまで殆どの人達に高捲かれ内院を覗かれず未知として残されてきたそれら空白部分に、著者である大西氏は時に単独で怯むことなく挑んで最も数多くそれら困難を乗り越えてきた人物といえる。
ただ本人が単調な表現の繰り返しを避けるのに苦労したと言っていた通り、志水哲也の「大いなる山 大いなる谷」が発刊された際に柏瀬祐之氏(「山を登りつくせ」の著者)が指摘したのと同じこと思ったのも正直なところである。それと、我々が台湾の沢登りを現地語で「溯渓」と呼称した言葉がここには殆ど現れなかった点は、我々が積み重ねた溯渓と氏が行った台湾溯行とが地続きで(水脈で繋がってい)ない感じを受けたのは少々残念であった。
とは言え、アルパインクライミングにも引けを取らない沢登りの可能性を未来に提示した点で、本書は価値ある一書である。素晴らしい大判の写真を目にするだけでも本書で展開された行為の迫力の一端に触れられる。
私が台湾溯行に手を染めた頃、極秘入手したその広げたゲジゲジ台湾地図を前にして解明される未来などまずやって来まい、そう手前勝手に思い込んでいた1990年代初頭時から凡そ30年、21世紀を迎えて主たる水系はあらまし溯行され解明されてしまった! 驚くと同時に、そんな同時代を生きて目の当たりにすることが叶ったのは幸いだった。
最後に名誉の為に申し添えたいのだが、日本の険谷登攀はじめ、称名滝、称名廊下、そして台湾大渓谷のこれからを将来に向けて世紀末の段で既に提示していた青島靖氏(大阪市大山岳部OB)の先見の明について、ここに記して本文を締めたい。【20200413記】
2020-2-24 15:43
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2020年関西支部新年会
日時:2020年1月25日(土)
場所:京都三条木屋町 温石 左近太郎 参加者(敬称略、入部年西暦下二桁):吉田(57)、相田(58)、神戸(59)、高橋(59)、田中英(59)ご夫妻、内藤(59)、渡邉(59)、川道(62)、須田(62)、岸本(65)、池上(70)、宮本(82)、岡島(83)、多田(86) 合計15名
報告:岡島(文)、宮本(写真)
会場の「温石 左近太郎」は、典型的な京都の「ウナギの寝床」であり、3回続けて会場になったためか、慣れ親しんだルームを思い浮かべた。12:30開催で、実に4時間にわたり、30年の入部年度差にもかかわらず、あちこちで話が咲き続けた。会費もなく遭難対策もない、親睦の集まりであるが、最後は肩を組み山の四季で締めた。
「若いOBの参加をもっと呼び掛けるように。」との川道支部長の号令を受け、脈のありそうな数名に直接コンタクトを取るものの、皆々ご家庭の用事があるとの事で残念ながら「ご盛会をお祈りします。」とのご返事。新しい面子が得られない中で、池上宏一さんが久しぶりに関西支部の集まりに顔を出された。
昨年10月の湖北合宿の報告に記した朝比奈英三先生と川道支部長とのアラスカ大学での件を池上さんが目にされ、1972年マッキンレーの下山後にアラスカ大学に川道さんを訪ねて行かれたことを懐かしむコメントをAACHのメール連絡に載せられた。私も30年近く前にデナリ公園でキャンプしたときにマッキンリーを北面から望んだことがあり、部報12号に掲載されているマッキンリー遠征のダイジェスト版を読み直した。
カヒルトナ氷河からウェストバットレス経由で頂上アタックはノーマルルートを辿るが、登頂後の下山が他所では考えられない行程となっている。詳細は「寒冷の系譜」にも記されており、越前谷さん達が語っている様にルームのセンスに徹した「3年班」と位置づけている。また東晃先生がこの長いワンデリングを褒めておられた事も嬉しい。まさに冬山メイン山行で、十勝川からトムラウシを登って石狩川に乗越すスタイルをアラスカで実践されたのだと思った。
池上さんは1980年のバルンツェにも登頂されている。この時の装備開発と気象研究が2年後の冬期8000m峰につながった経緯が「寒冷の系譜」に詳しく報告されている。 そして更に、越前谷さんが「池上の作った膨大な事務局ファイルというのは、全部記録として残っている。このファイルはAACHが初めて立派な登山報告書を作る上に貢献した。」と評価されている。その談の通り池上さんは、1本締めのアタックザックに収めたマッキンリー遠征のアルバムと地図を持参して下さった。
アルバムには写真とスケッチが丁寧に整理されており、報告書で見た覚えのあるチロリアンブリッジでクレバスを越える写真が、何故か目に焼き付いている。
さて、関西支部の報告というよりも池上さんを巡る“寒冷の系譜”を断片的に追った内容になったが、関西支部の常連メンバーは益々ご健勝につき詳細報告は割愛させて頂きたく。終わりに、今回欠席の連絡を頂いた窪田さん、伏見さん、福本さん、米澤さん、石松さん、川井さん、中谷さん、鈴井さん、三瓶さん、またの機会にお会いしましょう。
2020-2-6 14:13
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2019年秋関西支部会員...
2018年9月20日に京都駅前のビアホールで「甚暑祓い/豊穣祈願」の飲み会を開いた。この年の関西は梅雨時から尋常ではない暑さが続き、関西支部の先輩の何人かは、参ったと弱音を吐いておられたので、少し涼しくなったら顔を合わせ気分転換をはかるのも良いのではと急遽集合を設定したもの。(飲み会参加者:安間、相田、高橋(昭)、田中(英)、内藤、伏見、川道、岸本) 勿論皆様お元気でいつものようにジョッキ片手に近況雑談で盛り上がりました。席上、安間さんから空沼小屋の現状を話していただき、胆振東部地震がありスタートが遅れたがこれから北大当局を説得し、空沼小屋及びヘルベチア小屋を有形文化財として登録申請するように進めてゆくとのこと。
2020-1-14 21:44
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2019ヴェチア祭り レポ...
現役のヴェチア幹事岡崎君から第92回ヘルヴェチア祭りが10/27に催され、写真とレポートが来たので遅くなったが編集しました。
OBは川道(1962入)、小野寺(65)、高橋(66)、安藤(70)、岩間(70)、中村(88)の6名、 現役は15名、若手OB2名他2名で計26名。峠越えは若手OB神谷(2015)1人のみ。主任幹事の笠井(4)の挨拶で前夜祭スタート。現役は今年は1年目6人が入部し将来は明るい。途中小雨もあったが焚き火を囲む。OBからの酒や料理の差し入れが例年より多くありがたい。例年の現役ワンコイン、OBからは3000円の会費で間に合う。メニューは生ハムにクラッカー、ラーメンサラダ、鍋、ポテトサラダ、牛丼、とりわさ等。
朝は昨晩の鍋にうどんを入れて朝食。11時ごろまで小屋の掃除や薪割り、煙突掃除など。手こずった薪割り用の切株数個残して記念撮影。11時半ごろ解散。
北海道新聞20200112別冊
道新記者が当日取材しにきて、丁度1/12日曜版別冊に山小屋の鎖という題で2面に渡り特集を組んでくれた。
ヴェチア幹事の岡崎君や小泉前会長、空沼小屋の保存を考える会の安間会長のコメントもあり、なかなかの小屋PR記事になっている。14年前理学部博物館で催された山小屋展の再現ともいえる記事。写真入りのインタビュー記事の在田氏は山スキー部OBで当時の館長。
2019-11-2 14:56
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関西支部 月見の会
日時:2019年10月19〜20日
場所:奥琵琶湖キャンプ場
参加者(敬称略、入部年西暦下二桁):吉田(57)、相田(58)、高橋(59)、田中英(59)、内藤(59)、川道(62)、須田(62)、米澤(69)、奥様タップティムさん、石松(73)、宮本(82)、岡島(83) 合計12名
記録的短時間大雨情報が千葉県に発表されるなど、10月19日土曜日は関西地方も天候が不安定。今夜は外でのBBQは無理かなと思案しながらJR湖西線の安曇川駅に向かい宮本さんと合流する。天候は回復に向かい12時過ぎに駅に着く頃には雨は上がった。
安曇川は琵琶湖に流れ込む二番目に大きな河川で、比良山系の雪解け水が流れ出す春先には、「琵琶湖の深呼吸」と呼ばれる全層循環を引き起こす要因の一つであると、以前の月見の会で伏見さんがレクチャーされた事を思い出す。
我々先発隊は先ず、淡水魚専門の養殖場でイワナを仕入れる。養殖池にはニジマスやビワマス、鮎やコイがたくさん泳いでいた。次のスーパーで酒や肉、野菜の買い出し中に石松さんと遭遇。石松さんに永原駅での須田さんの迎えをお願いし、宮本号は今回のベースキャンプとなる奥琵琶湖キャンプ場へと直行する。
ここ湖北の西浅井町は、柴田勝家と羽柴秀吉の合戦となった賤ヶ岳が直ぐ東にあり、西方は鯖街道など御食国の若狭から朝廷に水産物を貢いだ街道も多い。また今回のベースの最寄りの集落である永原は、隣町の塩津と合わせて古代から琵琶湖の水運の要衝であった。更に、北方の山並みの向こうは越の国となり、敦賀・舞鶴からは小樽行きの船便(北前船)が蝦夷ヶ島に通っている。現代は塩サバに代わって、大飯・高浜の原子炉から赤坂山を越えて高圧送電線を電気が送られて来る。ちなみにこの辺りは関西では貴重な山スキーのエリアである。
今回の会場は薪ストーブ、キッチン、冷蔵庫、ベッド、風呂、ウォシュレットトイレ付の別荘風の2階建てのコテージ。玄関前のバルコニーを宴会場として、テーブルと椅子を並べ、夕食や炭起こしの準備をしている間に12名全員が集合し、午後4時に開宴となった。イワナの塩焼き、焼肉、鳥鍋、鯖寿司、マス寿司と饗宴が続き、米澤奥様のタップティムさんが華を添えて、インターナショナルな会話が弾んだ。
雲も晴れ、月も望めた9時過ぎに山の四季を歌い屋内へ移動。その後、高橋さんが準備された空沼小屋とヘルべチアヒュッテを巡るスライドショーの上演となった。またこの会に先立って芦峅寺の佐伯トンコのご長男である高男氏を訪問され、関西支部の山小屋に置かれていたヒュッテン・ブッフやアルバムを持参された。小屋ノートの緒言は吉田さんで始まり、途中には富山での雪氷学会の折に立ち寄られた木崎ジミーの筆跡もあり、最後は高橋さんの文で終わっていた。
高橋さんが探されていた物の一つは、芦峅寺の山小屋「北大山の会関西支部ヒュッテ」に掛けられていた伊吹良太郎さんの墨跡の看板でした。しかし残念ながら見つからなかったとのこと。確か30年ぐらい前の山の会会報に看板が写った写真付きの記事が載っていた記憶がある。「関西支部の名越ら悪童たちがまた今年もやって来た・・・」と記した恐らくトンコの寄せ書きだったと思う。私の手元にはこの会報は見当たらなかったが、平成11年に編纂された北大山の会会報の総集編を捲ると、昭和53年12月第46号「中野征紀前会長追悼号」10頁(p472)に「芦峅寺の山小屋」の題で関西支部の一文がある。
また、平成7年に編集された「芦峅の自然児・トンコ−佐伯富男追悼集−」に寄せられた思い出話しも芦峅寺の山小屋での場面であったのかも知れない。また別の機会に、芦峅寺のトンコの山小屋の資料が公開されることを期待したい。その他の話題として、伊吹さんが編纂された「行手は北山その彼方−京都一中山岳部85年の歩み」(2003年12月発行)の資料の紹介もあった。
伊吹さんの京都一中時代の貴重な写真をはじめ北大に関する章もあり、一行を紹介します。「当時は一中から三高へ進むのが一般的なコースであった。しかし、『謀反』を起こして北を目指す人たちがいたのだ。その中で、最初にブランキスト線−津軽海峡を越えたのは加納一郎(大正5年)ではないだろうか。・・・」このような会話が盛り上がる中、夜は更け11時過ぎ、7時間にも及んだ大宴会はお開きとなった。
翌朝はパンとサラダ付きベーコンエッグ、スープとコーヒーの朝食で始まる。合宿なので自炊である。朝食の後、皆さんの近況と今後の抱負を語って頂いた。
吉田:学生のヒマラヤでのフィールドワークを企画しています。ゴンドワナ地質環境研究所まで。
相田:六甲山を越えて有馬温泉に通っています。
田中:クルージングの海外旅行を楽しんでいます。同期会が段々と閉会し、世代を超えた山の会の集まりは大切な時間です。
内藤:家内と孫の世話をしています。若い人向けの料理も作って食べさせています。
川道:大学院生の海外での学会発表の支援をしています。川道国際学術交流協会まで。
ムササビの写真集を米国で出版するための編集中です
須田:自給自足の農業を営んでいます。
米澤:タイと日本の季節の渡りをしています。
タップティム:タイにいらしたときはぜひ遊びに来てください。
石松:定年後で余裕が出てきたので出席しました。アルバイトで足腰を鍛えています。
宮本:災害情報に関するインフラ整備の事業を立ち上げています。
岡島:冬山は雄山東尾根を考えています。
湖畔のベースキャンプを10時に撤収し、永原の駅前で散会となった。吉田さん、相田さん、内藤さん、川道さん、須田さん達と湖西線の客車のコンパートメントに二班に分かれて座り、車窓から琵琶湖の向うの横山岳、伊吹山、鈴鹿山脈を眺めながら話に花が咲いた。
川道さんの50年来の秀岳荘のアタックザックの話に始まり、51年ぶりにロシアとジョージアの国境にあるウシュバ南峰(カフカス山脈)下の氷河で見つかった小林年さんのザックの話に発展。ネンさんがザックを落とした理由として、秀岳荘のザックなら背負い紐が切れたのではなく、バックルの留め金のピンが革バンドの穴から外れたのではないか?
「ネンさんの岩登りの上手さは特別だ。」と川道さんが回想。その後は、写真家の星野道夫さんと朝比奈先生との交流の話も出た。「旅をする木」に記されている内容ですが、動物研究者でアラスカ大学に学んだという共通項で繋がった川道さんの話を聞くと、星野道夫と朝比奈先生の繋がりがぐっとリアルに感じられた。(注:低温研の朝比奈先生はアラスカ大学北極生物研究所のアドバイサリー・コミッティの一員として、留学中の川道とお会いしました)。合宿帰りの汽車の中の様な、ゆったりとした時間が流れた。
まだ陽も高いので、私は途中の叡山坂本で下車し、比叡山延暦寺を越えてキララ坂を下って修学院離宮の側に降りた。明後日の10月22日は即位礼。風水害が治まりますよう鎮護国家を祈念しながら帰路に就いた。
(文:岡島、写真:高橋、宮本)
2019-10-19 22:58
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【読書備忘】熱源 米...
熱源
川越宗一 文藝春秋社 2019.8
日露の文明に飲み込まれたかに見えるサハリン島の樺太アイヌと、独露の圧政にあり123年間独立を喪失していたポーランドの、19世紀から1945年の物語。
クライマー、ヴォイテク・クルティカの評伝をきっかけに、ポーランド関連本をこれで5冊目ハシゴしている。巨大なロシア文明に飲み込まれた東西の少数民族文化の数々に興味がある。19世紀はその滅びゆく最後の時期にして学術記録も残された時期。興味深いテーマの史実が盛り込まれたフィクションで、この秋の新刊。フィクションを思って手にとったけれど、かなりの部分が史実で驚いた。
以前からなんとなく思っていたが樺太の北緯50度線は、ただ日露が半分に引いた線ではなく、もともと南のアイヌと、北のニブフ(ギリヤーク)との大体の境だったのだろうか。
1875年の樺太千島交換条約での樺太アイヌの北海道への半強制移住、1904年日露戦争の日本軍による南樺太侵攻と40年間の統治、そして1945年のソ連南樺太侵攻。この時代に翻弄されて生きた樺太アイヌのヤヨマネクフと、1795年以降国を亡くしていたリトアニア・ポーランド人のブロニスワフ・ピウスツキ。遠く離れていたが流刑地としてのサハリン島で出会う両者。
読みすすめるうち、ブロニスワフの姓、ピウスツキと、ペテルブルクでのナロードニキの先輩革命家、ウリヤノフの名に既視感を感じてはいた。後半になって、実在有名人がたくさん出てくるに至って、ブロニスワフもヤヨマネクフも、実在の人物だったのを初めて知った。二人だけではなく、登場し生き生きと描かれる樺太アイヌたちのほとんども、民俗学者ブロニスワフによって記述され記録された人々だった。
登山愛好家の読者として注目するのは、1912年白瀬矗の南極探検隊の犬ぞり担当者として参加したヤヨマネクフの働きだ。わが主人公は歴史上ではこの役割によって名を留めているが、少数民族として南極隊に参加する動機とその葛藤、消えゆく存在とみなされることへの反発など、心の内がずっと描かれている。同じく終章で登場するウィルタ族の若く優秀な射手もまた、対照的なひとつのあり方として描かれていた。
この本で一番読みたかったくだりは、ヤヨマネクフがブロニスワフの録音機に、未来に向かって話した「願い」とも「祈り」ともいえる言葉だ(p249)。
「もしあなたと私たちの子孫が出会うことがあれば、それがこの場にいる私たちの出会いのような幸せなものでありますように」
「そして、あなたと私たちの子孫の歩む道が、ずっと続くものでありますように」
19世紀は近いようで遠い。自分の先祖でどんな人生を送ったか伝え聞いているのはせいぜい三代前までではないだろうか。1964年生まれの私なら父は1934年生まれ、祖父は1905年、曽祖父は1870年代、知っているのはそこまでだ。そして先祖の数は3人だけではない。母方にもその母方にもいて、2の階乗の和で増えていく。2+4+8+16ヤヨマネクフの同時代でも16人の直接の先祖がいるはずだが、ほぼ知らない。自分が「純粋な日本人」だと思っている多くの人も、明治初期の4代前の16人全員の生涯を知っている人は多くはないはずだ。アイヌもコリアンも無関係と思っていても、そうではないのだ。自分は旧家の10代目です、という人がいても、2の10乗=1024人のうちせいぜい一人の素性を知っているだけだ。子孫に伝えられなかった、多くの先祖たちの人生を思う。
「熱」という言葉は要に何度も出てくるこの作品のテーマだ。21世紀になり、姿を消したかに見える樺太アイヌの独自環境に根ざした暮らしぶりや習俗。しかし文化、物語は形を変えて残っている。見えないエネルギーの象徴として、「熱」が語られるのだろうか。
先週ちょうどラジオの音楽番組で、アイヌ音楽家のOKIがトンコリを奏でるのを聴いた。90年代半ば以降になって、ようやくアイヌ文化の価値を差別的偏見を通さずに評価する時代になった気がする。30年ほど前の北海道では、今では考えられない、ここに書きたくもないほどの差別的な体験を見たことがある。人が差別的になるときに、両者の無知を思う。作品中の主人公たちが人生通じて、無知からの脱却のために学校を作ろうと努力をし続けたことが印象的だ。
日本統治時代には近代化の開発が進み、ロシア統治時代にはかなり放置される傾向があったように思う。樺太の山河は幸か不幸かロシア統治下で21世紀にも物理的に比較的未開発のままだ。もし戦後も日本領だったら、高度経済成長期やバブル期に今の天然山河は失われていただろう。北大山岳部的には、すぐ近くにある「システム外」の秘境山域を、どこまでも山スキーとイグルーで北上していきたいと思うのである。アイヌ、ニヴフ、ウィルタたちの伝説を読み返しその世界を空想しながら。
2019-10-14 22:33
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北大寮歌祭(東京・蒲...
2019年10月14日(月・祝)に、東京・蒲田の大田区産業プラザで開催された北大寮歌祭に、AACHから9名が参加し、山岳部部歌「山の四季」を披露しました。
左から、中村(1979)、土田(1973)、清野(1979)、竹田(1968)、清原(1986)、 石村(1953)、山森(1986)、大村(1965)、山森娘(小6) 今年はAACHで1テーブルを専有し、世代を超えて交流を深めました。
壇上では、山スキー部、ワンゲルをはじめ大勢の「山の四季」ファンの方々の 応援をもらいました。「山の四季」が幅広く愛されていることを実感しました。
来年は、「2020年9月27日(日)、於:大田区産業プラザ」の予定です。 皆様、ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
北大寮歌祭サイト
http://www.ryoukasai.org/
北大寮歌祭動画配信サイト
https://www.youtube.com/user/ryoukasai
スマホ用の寮歌集アプリ
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~mkuriki/phone/ryoka/list_ryoka.html
山森聡(1986入部)
2019-9-28 15:38
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【読書備忘】アート・...
1980年代から1990年代にかけて8000m級を含む高所の困難なルートに、創造的なルートを見出し、事故もなく、数々の「芸術的」とも言えるラインの登攀を成功させて生き延びたヴォイテク・クルティカの評伝の和訳が8月に出版されて、かみしめながら、こってりと読書した。
表題がart of climbing でも freedom of climbing でもなくart of freedomというので、意味を考えながら読み続けた。読み終えるころ、納得する。山登りの喜びの芯の部分は、「自由」にある。
「自由」こそ、私自身が少年期から山に求めて飽きずに登ってきた山登りの魅力の本質の部分だと思っている。free。道具を持たず、社会システムの保護と制限から逃れて行ける所、それが「山」のはずだ。描くそのラインは、既存のものでも制限下のものでもなく、そして何より美しくなければならない。ガッシャブルムI,II峰縦走、ガッシャブルムIV峰西壁。今でもその美しさを後追いできない。
1947年生まれ。40歳前後のヒマラヤ高所で活躍の時代は、私の山登りを始めた時期であったのだが、同時代ではやはりメスナーとククチカの記憶はあったけれど、クルティカの憶えは無かった。その理由は、本書を読んでわかった。ククチカとクルティカ。名前が似ていて同時代の対照的なふたり。クルティカの軌跡は、当時のメスナーとククチカの「8000m争い」の時代に、惑わされず、始めから最後まで一本芯が通っていた。
「8000m峰全山完登という王冠」を懸けて「クライミングという高貴な芸術を、価値のない見世物に貶めた」。クライミングが持つ「ロマンチックで形而上的、そして美的な価値観を」無視し、「アルピニズムを序列化という罠に陥らせ」た。ということばに、クルティカの考えは集約される(330頁)。おそらくそれとつながる理由で、クルティカは何度もピオレドールの受賞を丁重に辞退し続けた。世から賞嘆を受け、自分がそれにふさわしいものと思い込んでしまう可能性を恐れたために。その丁寧に固辞する文面に、彼の誠実さがにじみ出ている。
読書途中で見た、ジミー・チン監督のドキュメンタリ映画「フリー・ソロ」のアレクス・オノルドの慎重で控えめな人格が何故かかぶってしまう。こちらも「フリー=道具なしあるいは自由」が主題。エルキャプの4時間フリーソロは快挙だけれども、同時に読んでいたクルティカのガッシャ4峰西壁は、誰にも映像化できまい。サードマンまで現れる限界の生還。どちらも「自由の芸術」にふさわしい行いだと思う。
ポーランドにはなぜ、あの頃突出したヒマラヤクライマーが続出したのか?これは個人的に長い間の疑問だった。70-80年代の社会主義体制に理由があったのかな?チェコスロバキアやハンガリーにだってタトラほどの山はある(と思う)。この疑問は何度か本書でも述べられる。この本を読んで少しわかったのは、クルティカの脱法精神が不条理な社会主義体制に育まれた面だ。「違法であることは創造的人生の一部なのです」「制約はほとんどが世界の悪者によって押しつけられ、私達を奴隷化します。これは自由の感覚を台無しにします。」(332頁)ディストピアや他国による長い圧政の歴史が芸術を生み出す、これは映画や文学でも多くあり「東欧産」には僕は心惹かれる物が多い。
クルティカの独白部分の一人称訳が、「です・ます」調であることに、はじめ小さな違和感として気にとまった。外国人の翻訳セリフや字幕は必要以上にフレンドリーというか、ときに馴れ馴れしいほど軽率な言葉遣いになりがちだ。これは日本メディアの悪習だと思うけれど。特にスポーツ選手や元気のいいキャラの場合は間違いなし。読み進めればすぐに分かるが、クルティカの言葉は思慮深く、難解とも言える言葉遣いだが、考えつくされて選ばれて出された言葉なのだろう。おそらく日本語ではこの丁寧な言葉遣いの訳がふさわしい人柄なのだと思う。それがわかるのが、意見の違いで別れていくパートナーたちに対する慈愛に満ちた言葉の数々だ。「アルパインスタイルの登攀には、とても深い倫理的理由があります。私は自分が大切に思う人としか行きません」(269頁)。
マッキンタイアと聴いたマリアンヌ・フェイスフルの歌(Broken Englishかな?)、トランゴで落っこちた後、ロレタンが聴かせてくれたダイア・ストレイツの歌(たぶん「Brothers In Arms」)。聴いてみると当時に時代を引っ張り戻してくれる。ポーランド人の名前や地名の発音しづらさが面白くてポーランド語初級教本やポーランドの地図と略史なども読みながら読み進めた。ポーランド、行ってみたくなってきました。
英語版で買って読んでいたクルティカファンもいるけれど、日本語でなければ私は読めなかったでしょう。理屈っぽくて言葉を選びに選ぶクルティカの独白を日本語にしてくれた翻訳者、恩田さんにも大いに感謝です。
2019-9-27 22:50
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51年前のザック・氷河...
51年前のザック・氷河で発見(小林年さんのザック)北海道新聞9月26日夕刊より
2019-9-14 21:05
山岳館
第13回世界の山々にナキウサギを訪ねる
2019-8-27 20:27
山岳館
北大山岳館
2019-5-21 14:11
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北海道流探検登山熟成3...
17日、1987年探検部入部の澤田実氏が、カムチャツカのカーメンの大岩壁の登攀山行中に事故死したと連絡があった。氏が高田馬場のカモシカスポーツにいた時、ライペンの褪せ柿色ザックと、伸縮性のカッパズボンを冬用に買った。今も継ぎ接ぎしながら履いている。そろそろ捨てようかと思っていたけど捨てられなくなってしまった。昨年3月、遠見尾根でイグルー作っていた時会ったのが最後。ニコニコしていた。
2年前、氏の著書の書評を編集部から依頼されて書いた原稿を以下に転載します。
山と溪谷 2017年2月号 書評記事より
北海道流探検登山熟成30年の技術論
北海道大学探検部の現役学生が北海道最大の鍾乳洞を発見し、彼らを取材したことがあった。函館で仕事をしていた10年ほど前だ。神秘的な深い穴の奥でその学生にきけば、「世界中の誰も来たことのない場所を僕らが見つけて、むふふという気分です」と答えた。誰も行かないところに行きたい。探検部員の真髄の言葉だったと思う。
著者澤田実氏は北大探検部、私は北大山岳部で、数年の違いで共に北海道の探検的山登りの洗礼を受けた。北海道の山は伝統的に未開であり、山岳部も探検部も共に探検的思想無くしては登れない。北大は、「遠くに行きたい、大自然に飛び込みたい」と考える若者が集まる所なので、活発な山系クラブがいくつも共存し栄えている。これは昔も今も変わらない。
実は私自身がつい三ヶ月前に、北大で育った登山経験を核に「冒険登山のすすめ」という本を出していて、今回澤田氏の本を読み、「・・・これはモロかぶりだ」と思った。山岳ガイドである氏が、初級者と登って気がついた沢や雪山の経験的な登山技術を書いていながら、雪洞(私の場合はイグルー)、焚火、地図読み、山スキーと排便問題にただならぬ力点を置いた特異な登山論が両者全く同じだった。なんだか自分の本の書評を自分で書いているような奇妙な状況である。しかし当然ながら、モロかぶりだからこそお勧めする。この本を読んでほしい。
澤田氏と私とは学生時代はほぼ入れ違いで、共通の友人は多くいるけれど長く話した事はない。示し合わせたわけでもないのに、同じ時期に刊行された必然について考えた。
今は登山ブームと言われるが、20代で山を初める人は多くはない。学生登山家として山を始める強みは、経験豊富なガイドではなく、数年しか違わない先輩と失敗しながら手作りで鍛える初期経験である。歴史あるクラブの経験智を引き継ぐおかげで、なんとかギリギリ死なずに、恵まれた時間と体力で長期山行をして、初めて得られる登山力である。我々の頃にはそれが当たり前だったけれど、今その環境はほとんどないと言っていい。90年代、中高年登山ブームとは裏腹に若者が山離れし、北大以外の大学山岳部は全国的に数を減らし衰退した。今再び若者が山に戻りつつあるが、どこも先輩が積み上げた経験智は途切れ、ゼロから積み直している所が多い。先輩がいなければガイドから教わる他はない。そんなに確か過ぎて責任を取ってくれる人から教われば、先輩から教わったような手探りでほどほどの失敗感がない。これは学生に限らずとも現代登山初心者の弱みではないだろうか。今はプロと初級アマに二極化し、中間の中上級アマ層がとても少ない。ヒマラヤ登山を見れば明らかだ。プロがアマを連れて行くガイド山行は盛んだが、手作りのヒマラヤ遠征に行くような上級アマチュア登山隊の話を聞かなくなった。山の世界の本当の胆力はこの層の厚さが重要なのではないか。
澤田氏と私の世代は、学生登山家が知恵と手探りと若い情熱で繋いできた部活登山の、最後の世代なのかもしれない。あの頃日本にプロガイドはほとんど居らず師匠の外注はなかった。手作りで泥臭い北海道式探検山登りの若者が本州に来て感じたアウェイ感を 、30年ちかく熟成させた登山哲学が揃って著作になったのだ。今の時代こそ読んでほしい山登り法だと思う。
「サスガは探検部」のクマスプレー被爆体験は必読である。山岳スキー競技の世界は、新しい道具にではなく新しい発想を新鮮と感じた。岳人誌に2010年頃連載していたものがもとだが2014年の冬期黒部横断長期山行の経験なども盛り込まれ大幅に書き直している。
よねやま・さとる1964年松本市生まれ。北大山岳部、カメラマン。ヒマラヤ、パタゴニア等を山岳取材。著書「冒険登山のすすめ」。
2019-2-2 12:55
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関西支部 新年会
関西支部新年会
日時:2019年1月26(土)13:00−16:00
場所:京都三条木屋町 左近太郎
鴨川と高瀬川に挟まれたウナギの寝床の様な京家にて、昨年に引き続き新年会を催しました。
周辺には角倉了以邸跡や佐久間象山遭難之碑、大村益次郎、桂小五郎、山縣有朋の寓居跡や別荘跡の碑が建っていて、島津製作所資料館が創業当時の姿で残っています。
江戸から明治にかけての事物が雑多に混ざった街角で、平成最後の関西支部のイベントを行いました。
先ずは川道支部長のご発声で、皆さんのご健勝と再会を祝して乾杯。
続いて岸本さんから、酔っぱらう前に、「北大山の会-関西-変遷史」編集の提題がありました。
関西支部の発足は昭和37年チャムラン遠征の募金活動や、坂本直行さんの大阪での個展開催(昭和39年)に遡ります。これら事業の応援に関西在住OBが参集したことが支部発足の契機です。その発足当時の資料を収集、編纂して記録に残すべく活動について出席者の賛同いただきました。参加者の年齢を考えますと、今こそ資料を収集する時期と思います。発足当時の記録や写真をお持ちの方は岸本さんまで情報提供をお願いします。
さて、宴のメニューは京料理の小鉢に始まって、太刀魚や寒ブリの刺身、メインはテッサ、唐揚げ、てっちりとフグのフルコース。宮本幹事の計らいにより京の地酒の飲み放題。月桂冠の大吟醸をはじめとする一升瓶をテーブルに三本並べてセルフで徳利に分注するところは、札幌の北18条界隈の安酒場のスタイルと変わっていません。
皆さんの近況報告や、登頂を断念した三浦雄一郎氏の話などで盛会の中、時折激しく降る雪を格子戸の向うに眺めながら札幌の冬に想いを巡らせました。
実は、昨年の新年会当日も激しい降雪で、田中夫妻は福井から参加できませんでした。今年もか、と憂慮していましたが、無事参加いただきました。田中さんの奥様の着物姿が京都の古い屋敷のたたずまいに溶け込んでいました(奥様は踊りの名取だそうです)。
奥様は、帰りの地下鉄からJRの駅に向かう途中も、上機嫌な田中さんの右手を肩で受けながら仲良く寄り添って歩かれて行きました。
「さあ、帰って全豪オープン・テニスを見よう。」という神戸さんの潮時を告げるコール。
肩を組んでの「山の四季」に続いて、応援団出身の窪田さんによる前口上で明治45年寮歌「都ぞ弥生」を高唱して平成の宴はお開きとなりました。
楽しく懐かしい時はすぐに過ぎ去ってしまいました。また秋に観月の宴でお会いしましょう。
若手OBの参加をうながす努力・秘策を探し求めています。
参加者(敬称は僭越ながら略、数字は入部年19xx)
窪田58、相田 58、高橋 59、田中ご夫妻 、内藤 59、渡辺(尚) 59、神戸59、伏見 61、川道62、須田 62、岸本 65、宮本 82、岡島 83、多田86
文:岡島、写真:伏見、宮本
2018-11-25 10:43
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関西支部 月見の会
日時:2018年11月10日(土)16:00〜
場所:琵琶湖畔 はなれ山水 大コテージ
参加者(敬称略、数字は入部年19** ):相田 58、内藤59、高橋 59、田中(英) 59、伏見 61、川道62、須田 62、岸本 65、米澤64ご夫妻、小泉74(ゲスト)、宮本 82、岡島 83 計13名
今年の月見の会は、趣向を変え、琵琶湖畔の貸切りコテージで開催することとなった。また、小泉会長と、米澤ご夫妻に初めてご参加いただいた。
開宴後、小泉会長から近況報告。北大山岳館の図書受入れ、空沼小屋の状況、北大山の会組織の今後の見通し等に関する説明があった。遠く離れた札幌で、山の会の運営に尽力されている方々のご苦労を察する。続いて、米澤さんからのご挨拶。仕事の関係で、長年、海外生活を送り山の会の活動に参加できなかったため、今後、山の会の活動にも参加していきたいとのこと。
その後、日が暮れ、差し入れの鮒ずしや、焼肉、鍋もの等をつまみながら、いつものように話が盛り上がり夜は更けていく。
今年は11月8日が新月であり、月見は期待できなかったが、それでも、細い三日月が見えた。これから満月に向けて新しく誕生した月を眺めるのも悪くはないが、次回は満月に近い日程での開催を目指したい。
焚火がないのが寂しいのか、岡島君が松の枯葉を集めてきてバーベキューコンロに投入。すると、誰ともなく紙コップや、食材の運搬に使用した段ボールなどを燃やし始め、人の背丈ほどの焚火ができた。
本格的な焚火なしでは寒い時期であり、また、近くのコテージに宿泊している数組の若い家族連れなどにも遠慮して、山の四季を歌うこともなく宴会はお開きになった。この点は次回の月見の会に向けた反省点である。
その後、コテージに入っても、進化論の話や今後の山の会の運営に関する議論を深め、少し薄い布団で眠りについた。
翌日は、スカッ晴れ。遠くの山々まで見通せる中、各自、寒い寒いと言いながら淹れたてのコーヒーをすすり、コテージの前で立ち話をしたり、散歩をしたりと自由に過ごす。
その後、近くのパン屋の焼き立てパンやゆで卵などの簡単な朝食を食べながら各自近況報告。そして、別棟で宿泊していた米澤さんを加え集合写真。
解散後、小泉会長を含む有志三名は、午後のフライトで帰札する小泉会長のスケジュールに合わせ、比良山系の堂満岳を往復。また、他のメンバーは最寄りのマキノ駅まで湖畔を歩き、三々五々帰路に就いた。
余談ではあるが、火を見ると何でも燃やしたくなるルームの習性がひと騒動を引き起こす。コテージのチェックアウトの際、コテージの女性管理人に「燃えるゴミは持ち帰りしているか?」と聞かれ、燃えるゴミは、すべて燃やしたと回答。
管理人は「そんなはずはない。通常このような大勢の宿泊の場合、大量のゴミが発生するはずだ。小さなバーベキューコンロで燃やせるはずはない」と言う。いくら燃やしたと言っても信じてもらえず、「コテージを確認するから一緒に立ち会え」と言う。結局、管理人と一緒にコテージに戻ったが、コテージは整然と後片付けされており、(恐らく管理人が想像していたのであろう)ゴミだらけの状態ではなかった。そして「山登りの人達は何でも燃やすのね」と一言。「いえいえ、我々だけですよ」と説明しようとしたが、先を急ぐので、誤解を解くことなく車を走らせた。
(記:宮本、写真:伏見、小泉、米澤婦人、宮本)
2018-9-9 20:11
山岳館
第12回北海道の森林変遷史 −花粉化石から復元された15万年間−
2017-12-27 18:01
山岳館
蔵書目録
2017-12-2 9:30
山岳館
部報2号
2017-12-2 9:30
山岳館
部報1号
2017-12-2 9:27
山岳館
カール
2017-12-2 9:26
山岳館
山の会会報
2017-9-9 20:41
山岳館
第11回山と美術と音楽と
2017-7-3 14:46
記事
北海道新聞に式典の記事が掲載されました(2017年7月3日)
2017-6-9 13:52
山岳館
山水無尽蔵/小島烏水/1906
2017-1-29 17:43
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Re: これまでの部報紹介・3号(1931)上/(米山悟1984年入部)
2016-12-17 19:42
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Re: ペテガリ冬季初登・72年前の今村さんのゲートル 米山悟(1984年入部)
2016-9-9 22:58
記事
空沼小屋改装仕上げ作業のご案内(2016年10月1~3日)
2016-7-28 22:47
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Re: 暮しの手帖96 特集戦争中の暮しの記録 1968 うちにありました
2016-7-4 13:41
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Re: 医学部戦没同窓生追悼式のご案内
2016-6-17 9:54
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Re: 道新に今村昌耕会員の記事
2016-6-12 11:16
記事
空沼小屋修復工事いよいよ開始(2016/6/12)
2016-2-26 19:14
記事
北大・空沼小屋 修復保存工事決定と募金のお知らせ(2016年2月掲載)
2015-12-22 23:49
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Re: おくやみ・谷口けい 米山悟(1984年入部)やま
2014-12-9 9:53
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Re: 【書評】アルピニズムと死 山野井泰史 2014.11(米山悟1984年入部)
2014-10-26 21:04
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日高山脈の地名問題
2014-10-25 6:17
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Re: 【読書感想】七帝柔道記 米山悟(1984年入部)
2014-5-17 19:51
スケジュール
山岳館開館日
2012-6-21 12:49
海外遠征
パミール・レーニン峰(7134m)登頂
2012-5-24 9:42
記事
ダウラギリとその時代
2011-12-8 22:40
記事
リンク
2011-6-30 17:09
海外遠征
北大ネパールヒマラヤ学術調査隊1969
2011-6-30 16:34
海外遠征
スダルシャン・パルバート
2011-6-30 16:33
海外遠征
81-82年パタゴニア
2011-6-30 12:47
海外遠征
海外遠征の記録
2011-6-30 12:29
海外遠征
96ロルワリン・タンナ・リ峰遠征
2011-6-30 12:26
海外遠征
ヒムルンヒマール(7126m)初登頂