1.記念 北大スキー部創立十五周年 著者代表大野精七/1926/北大スキー部/401頁
北大スキー部
1912(明治45)年2月、北大の稲田昌植(のち全日本スキー連盟初代会長)ら7名は、オーストリア軍テオドル・フォン・レルヒ少佐からスキー術指導を受けた月寒25連隊の三瓶中尉から、10日間に亘ってアルペン・スキー術の指導を受けた。この時の学生が中心となって同年6月、北大にスキー部が設立された。その後、1926(大正15)年に登山を志向するグループが分離して山岳部を設立した。さらに1963(昭和38)年、山スキーを楽しむグループが分離して山スキー部を設立、スキー部はアルペンスキー術を教えたレルヒ少佐の来日以来連綿と続いた山への志向を切り離して、競技スキーに徹することとなった。戦前は、ジャンプと複合で数々の名選手を生み、1928(昭和3)年、第1回全日本スキー選手大会で優勝するなど、日本のスキー界をリードした。日本が初めて参加した第2回冬季オリンピック(1928年サンモリッツ)には団長に廣田戸七郎、ジャンプに伴素彦を送った。伴はのちに全日本スキー連盟会長、レークプラシッド大会(1980年)団長を務めた。2012年はスキー部創立100周年に当たる。
内容
本書は、1925(大正15)年に北大スキー部が創部15年を記念して発行した。大野精七部長の序文以下、30編が寄稿されているが、創部由来や思い出に関するもの10編、スキージャンプなど競技に関するもの7編、登山に関するもの13編からなる。この13編は主に山岳部創立に関係し、創部後は山岳部を盛りたてた人たちの筆になり、さしずめ山岳部前史である。大正10年前後は、国内の積雪期登山はまだ開拓期であったが、北大は板倉勝宣を中心に北海道の山々で既に活発な冬期登山を行っていた。その勢いを感じさせる内容である。巻末には海外16名の著名なスキーヤーや登山家からの寄稿が載せられている。
登山に関するものは、「知床半島の山々」(須藤宣之助)、「イトンムカ川から武利岳へ」(西川桜)、「オプタテシケ山脈よりトムラウシ山彙へ」(山口健児)、「大正二年冬の富士山スキー登山の想い出」(角倉邦彦)などである。「スキーセーリングの興味」(松川五郎)と「石狩平原の二日間」(六鹿一彦)は、石狩平野をスキーで滑走した時の記録である。
角倉の「冬の富士山スキー登山の想い出」は、角倉らスキー部員3名がまだシュタイグアイゼンやピッケルが輸入される以前のその名前さえ知らない時代、スキーによる冬の富士山登山を目指した記録である。大正元年12月31日、御殿場中畑を出発、スキーは岩の露出が多く使えなくなった為に2合5勺の小屋で捨てたが、油氷と強風に悩まされながら、御殿場の鍛冶屋に作らせた金樏(鉄のかんじき)と鳶口を使って攀じ、翌大正2年元旦、零下17度の山頂に到達、同日下山する。富士山の冬期登頂はすでに野中至などの記録があるが、スキー部らしくスキーを使って登頂しようとした心意気は素晴らしい。
その他、本田治吉、田口鎮雄、加納一郎のスキー登山技術に関するもの3編、そして板橋敬一の立山で遭難した板倉勝宣への思いを切々と語る追悼文「板さん--亡友板倉勝宣の憶ひ出」が載せられている。
スキー技術を理論面からリードし、加納一郎らと十勝岳冬季初登頂をした中野誠一は、「ターンを構成するファクター」で回転技術を理論的に説明している。
山岳館所有の関連蔵書
北大スキー部部報1-3号 北大スキー部/1931/33/35/北大スキー部
北大山岳部部報1-7号 北大山岳部/1928/29/31/33/35/38/40/北大山岳部
北の山 伊藤秀五郎/1935/茗渓堂
北海道のスキーと共に 大野精七/1971/私家本
北大スキー部70年史 スキー部70周年編集委員会/1982/スキー部OB会
北大スキー部80年史 スキー部80周年編集委員会/1992/スキー部OB会
北大山の会会報1-55号合本 /1999/北大山の会
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静かなる山の旅/河田木貞/1927 |