44 山に描く 足立源一郎(あだちげんいちろう)/1939/古今書院/285頁
足立源一郎(1889-1973) 画家、作家、登山家
大阪船場生れ。1905年、京都市美術工芸学校(現:京都市立芸術大学)入学。翌年、浅野忠(1856-1907、日本近代洋画界の先駆者)の開設した関西美術院に移り、浅井忠が亡くなると東京に移り、太平洋画会研究所に学ぶ。1914(大正3)年から4年半パリで画業に励んだ。1918(大正7)年、帰国後は小杉未醒、梅原龍三郎らと共に春陽会を創立。1923(大正12)年、再度ヨーロッパに向け出発、1925(大正14)年帰国する。この間、グリンデルワルドなどに入り山の絵を描く。春陽会での会員間のごたごたに嫌気がさし、山への傾斜がより強くなる。1929(昭和4)年ごろより尾瀬、会津燧岳、穂高、剣岳等から、ついに日本各地の山岳いたるところにその跡を残すことになる。1年の大半を北アルプスで過ごし、その制作態度は現場写生に徹し、岩壁にザイルにぶら下がってスケッチするなど、エピソードが数多い。
1934(昭和9)年、日本山岳会会員。1936(昭和11)年、石井鶴三、茨木猪之吉、中村清太郎、円山晩霞らと共に日本山岳画協会を設立した。画材を求めての旅は海外にも及び、台湾新高山、朝鮮半島金剛山、白頭山、満州へと広がっていった。1945(昭和20)年4月、戦争で田園調布のアトリエを焼いて、パリ時代から戦時中の制作の一切を失う。1963(昭和48)年、三度ヨーロッパに向かう。1971(昭和46)年、最後の登山として長屏山へ登る。1973(昭和48)年、最終作『春の穂高岳』を仕上げ、逝去。
内容
山の画家、足立源一郎の画文集である。著者が新聞、雑誌等に発表した37編よりなる随想、紀行をまとめたもので、それに73枚に及ぶ軽妙なスケッチ、11枚のカットなどが各所に挿入されている。 巻頭の「サヴォアの山居」(昭和3年8月)は、ある年の夏に過ごしたスイス、イタリア国境の一寒村での経験を美しい文章でまとめている。
「正しい立錐形に枝をはったサバンの木陰に画架を据えて描いていると、爽やかな朝風に送られてボロンボロンと放牧した牛の鈴の音が響いてくることも屡々であった。時としては径一尺もある大きな長方形の鈴を頸に重たそうにブラ下げた牛の頭がのっそりとパレットをなめるように現れて、仕事の邪魔をすることさえあった。」
北海道の山旅は「大雪山行」(昭和8年8月)、「利尻礼文」(昭和13年8月)、「冬の北海道」(昭和13年1月)の3編が収録されている。利尻岳には鴛泊から登り、鬼脇へ降っている。
「五百米ほど登ると予想通り霧の上へ出て、空は紺青に澄み渡って、はい伏した樺の林の末枝に細かい新緑の緑を輝かせ、その下影には白花エンレイソウの花が一面に咲き乱れていた。ほどなく這松帯となって千二百八十米の一角にたどりつく。ベットリと雪を蓄えた大きな凹地をへだてて主山がピラミッドの二面を見せて泰然とそそり立っている。その雄大さと崇厳さは、北アルプスあたりでも一寸比較すべきが無いほど素晴らしいものである。」
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