36 谷川岳 登歩渓流会(とほけいりゅうかい)/1936/弘明堂書店/437頁
登歩渓流会
1930(昭和5)年、東京日本橋周辺の山好きの商店主や店員などで結成された。設立当初は、当時の他の社会人団体同様に、会員相互の親睦を目的に低山のハイキングを主にしていた。1932(昭和7)年頃から若い人を中心に、会の性格がアルピニズムを志向するようになり、1932(昭和7)年10月には奥多摩大武山の集中登山など、意欲的な計画を見せ始めた。1933(昭和8)年9月、一の倉、幽の澤など13のルートから谷川岳の集中登山を行い、谷川岳が同会のプレイグランドとしての位置を確立した。谷川岳での成果は、杉本光作(註1)、山口清秀らが主力となり、同会の総力を挙げた文献「谷川岳」にまとめられた。谷川岳での同会のいくつかの遭難は、会への毀誉褒貶を激しくしたが、それでも会は果敢に未登の澤への挑戦を行なった。戦時中は、谷川岳が東京から夜行日帰りの近さにあることから、戦火が広がっても若い会員達は寸暇を惜しんで谷川岳に挑んだ。
戦後は、松濤明(註2)、川上晃良を中心とする新しい世代が、八ヶ岳バリエーションルートの開拓や北ア、南アで意欲的な登攀を行なった。昭和25年12月に川上晃良をリーダーとして利尻山へ挑戦している。鬼脇から入山、4度にわたって南稜からの登攀を試みたが、悪天候に阻まれ失敗した。そのため2月1日、東稜に転進、川上は単独での登攀に成功した。
内容
上越線の開通(1931年)によって谷川岳は東京から夜行日帰りが可能になったことや、杉本光作、山口清秀らのリーダーシップによって、登歩渓流会は谷川岳の岩壁に大きな足跡を残した。その集大成が文献「谷川岳」で、一の倉沢をはじめとする谷川岳の岩場の詳細な紹介は、社会人クライマーにとって大きな刺激となった。装丁は茨木猪之吉(B-49「山旅の素描」参照)、箱入/布表紙の堂々たる山岳書である。
第一編総説、第二編谷川岳東面、第三編谷川岳南面、第四編谷川岳越後側及び谷川岳付近、最終編谷川岳連嶺遭難譜の5編からなり、全体概念図1、図版18、写真40頁が挿入されている。総説は山名考証、地質、水系、植物など谷川岳の総合的な研究からなる。第一編〜第四編は、会員による各沢の登攀記録である。最終編の谷川岳連嶺遭難譜は、遭難死17例の記録で、遭難防止の1助として原因・経過を忠実に採録したとしている。
一の倉沢滝沢下部について杉本光作は次のように記している。
「瀧澤は一の倉澤の岩壁を目指す誰もが目標とするものであるが、その下部は垂直に近いスラブと、険悪なる瀧によって占められて居て、瀧澤の名も宣なるかなと肯ける。即ち、第一の瀧は、その上部はオーバーハングをなし、永遠に人類の登攀を拒否するかのやうである。第一の瀧の上には更に、第二、第三の瀧が連続して、共に険悪さを競う。現在、夏期に於ける登攀は不可能とさえ言われ、ただ積雪期に於いて、上部ルンゼより落下するデルタ状の堆積雪を利用してのみ可能と認められる。」
滝沢下部は、本書出版から3年後の1939(昭和14)年9月、北アルプスのガイド浅川勇夫と平田恭助によって初登攀された。滝沢登攀後の翌年に登歩渓流会に入会した平田恭助は、第五ルンゼの帰途に遭難し、加えて救出パーティーも遭難して谷川岳での最初の2重遭難となった。
山岳館所有の関連蔵書
谷川岳研究/長越茂雄/1954/朋文堂
回想の谷川岳/安川茂雄/1959/朋文堂
風雪のビバーク/松濤明/1960/朋文堂
石楠花 日本山岳名著全集12/藤崎昌美/1963/あかね書房
谷川岳の岩場/東京緑山岳会/1968/日本文芸社
青春の墓標・谷川岳/橋川卓也/1977/講談社
私の山谷川岳/杉本光作/1983/中央公論社
谷川岳・大バカ野郎の五十年/寺田甲子男/1992/白山書房
新編 風雪のビヴァーク/2000/松濤明/山と渓谷社
(註1)杉本光作(1907-1980)
栃木県出身、谷川岳の開拓者の1人。1929(昭和4)年から谷川岳の岩と雪の研究に精魂を傾け、登歩渓流会の中核として活躍。一ノ倉沢、幽の沢などの初登攀の記録が多く、社会人山岳団体の地位を確立した功績は大きい。また遭難対策にも尽力した。著書に「私の山谷川岳」がある。(出典:岳人事典/東京新聞)
(註2)松濤明(1922-1949)
仙台出身。東京府立1中卒業後、1939(昭和14)年12月、滝沢第1尾根積雪期初登攀、昭和15年、中学5年生で登歩渓流会に入会する。1942(昭和17)年7月、北岳バットレス中央稜初登攀。翌年応召、1946(昭和21)年、復員。戦後は登歩渓流会の中核となって、八ヶ岳バリエーションルート開拓、北岳、穂高などで多くのめざましい山行をした。1948(昭和23)年12月、岳友有元克己と北鎌尾根〜槍〜焼岳の縦走を試みるも、暴風雪のため遭難死する。遺書によって明らかにされたそのドラマティックな最後は、井上靖、新田次郎、安川茂雄などによって小説化された。遭難から10年後の1960(昭和35)年、登歩渓流会によって遺稿が「風雪のビバーク」にまとめられ、朋文堂から出版された。
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アルプス記/松方三郎/1937 |