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51 霧の山稜 加藤泰三(かとうたいぞう)/1941/朋文堂 /309頁


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表紙カバー
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雪の上で
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霧の山稜
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表紙
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標高
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初冬
初冬


加藤泰三(1911-1944) 彫刻家、画家、登山家
 東京本郷に彫刻家加藤景雲(1874-1943、高村光雲の弟子)の三男として生れる。1930年、東京美術学校彫刻科に入学、卒業後は東京府立4中(現都立戸山高校)の教員となる。石井鶴三(1887-1973、彫刻家・画家・登山家、日本芸術院会員、東京芸大名誉教授、日本山岳会永年会員)に師事しながら制作を続け、院展に入選するなど将来を嘱望された若手彫刻家であった。傍ら装丁や挿絵の仕事もこなし、短歌や詩も手がける多才の人だった。山登りは中学3年から始め、先鋭的な登山家ではなかったが、東京近郊の山々、北アルプスなどに登った。第二次大戦に応召し、33歳の若さで戦没した。

内容
 第二次大戦で戦没した山好きな一人の若い彫刻家が残した画文集である。
 冒頭の「雪原」から最後の「高湯だより」まで全部で55編。そのすべてが短文と画との組み合わせで、平易な言葉で書かれている事と、魅力的な絵がふんだんに盛り込まれているために、読みやすく楽しい。山岳書というくくりになっているが、山の事だけが書かれているのではない。仲の良かった姉とのやりとり、植物や昆虫をテーマにした散文や詩、教師をしていた中学校の生徒との交流なども含まれている。「序」に師の石井鶴三が、蒲柳の質であった泰三が北鎌尾根を登るまでになったことを喜ぶ文章を載せている。

 紀行文には登山した月日や時間などは一切書かれていない。登山に対する気負いも無い。「どの山にいつ登った」のかは重要ではなく、純粋に「山が好きだから、好きな時に登る」と言う著者の姿勢が浮彫にされている。 復刻版が多く出版されており、昭和30年代に朋文堂から2回、昭和46年に二見書房から、平成10年度には平凡ライブラリーに収められている。時代を超えて愛されて来た本である。

「雪原」
空は蒼すぎて暗く、山は白すぎて眩しい。
 影は濃すぎるのに透徹り、空気は新しすぎて生物のようだ。
雪面に明滅する無数の輝きはダイヤの七彩、
歩く僕を取巻き、両側に流れて僕を送る。
僕の真赤な筋肉の塊は、烈しく血潮を汲み高らかに僕の命を刻んでいる。
炭酸水に立ち昇る気泡のように、僕の胸に沸々と湧くものがある。  −後略−

「雪の上で」(写真参照)
雪山の何処に住むか
兎、木の根に住むか

雪の中何を食うか
兎、木の根を食うか

雪の上逃げて行くよ
兎、何処まで行くか

こちら向いて、一度お見せ
その顔を、走るさまを
雪の上で、僕に

「霧の山稜」(写真参照)
偃松の香に噎びつつ
霧疾き山を描きて
午たけにけり

「初冬」(写真参照)
今年また
冬めぐり来て
たたなはる
かの山々よ
雪ぞ光らむ

「標高」(写真参照)
歓喜と悲哀は等量である。
それは雨天に登っても、晴天に登っても、山の高さは変わりはしないと言う事位に、確かな事だ。
それなのに僕らは錯覚をする。
殊に悲哀の中に於いて錯覚をする。歓喜と悲哀は等量ではないと。
僕らは、結局晴天にだけ登っていては、山の深さを知ることができない。

雨の中で登りながら、僕らを勇気づけているのは、今、標高は求められつつあると言うことだけだ。
ああ、それだけだ。
それだけだ。

 
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