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54 山と雲と蕃人と 鹿野忠雄(かのただお)/1941/中央公論社


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表紙
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見開き
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昼飯に憩うブヌン達
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弓琴を奏するブヌン
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鹿野忠雄(1906-1945)民俗学者、探検家
 東京に生まれる。1924(大正13)年、開成中学卒業。幼い頃から昆虫採集に夢中となり、やがて昆虫の宝庫である台湾に憧れるようになった。一浪ののち設立されたばかりの台湾の台北高等学校入学。在学中は、台湾の山岳地帯をくまなく歩き回り、昆虫採集に没頭する。それぞれの土地で原住民たちと交流をもち、次第に彼らの文化に魅せられていった。1929(昭和4)年、台北高等学校卒業、1930年、東京帝大地理学科入学。1933(昭和8)年、同大学院進学。大学院生のまま、台湾総督府の嘱託職員となる。渋沢敬三(註)の援助を受けて、バイワン族、ヤミ族の調査を行う。調査の過程で氷河地形を発見、過去の氷河が台湾まで覆っていたことを証明する。1938(昭和13)年、ヤミ族の調査報告を東京人類学会で行い、好評を得る。以後、調査の興味は先住民族の言語学、考古学にまで及んだ。1942(昭和17)年、陸軍嘱託としてマニラに「比島先史学研究所」を設立。1944(昭和19)年、北ボルネオに民俗調査を目的に派遣されるが、1945(昭和20)年、現地で消息を絶つ。

内容
 1930年頃の台湾の新高山(現玉山)を中心とした山行記録である。「自序」で出版の意図について次のように述べている。
 「収めるものは数多い山行の中、台湾中部の新高山を中心とするブヌン族の領域の七の山行記録である。高校と大学時代に歩いたものであり、最後の「新高雑記」を除いて何れも当時書いた旧稿で、其の上日本山岳会機関紙『山岳』にかつて登載したものである。この様なものを此処に今更公表するのは恥ずかしくもある。然しそれらの山行は初登攀乃至新登路の記録を成すものであり、且同地方のブヌン族蕃人が最近理蕃政策により平地近く移住した現在、あらためて懐古的な意義を帯びるものである。」

 新高山は、日本の植民地時代の名称で、現在の玉山(3,952m)である。ブヌン族は、現在中華民国政府によって認定されている14の先住民族の一つである。日本植民地時代は、高山に居住する先住民族を一括して生蕃人、あるいは高砂族と呼んでいた。台湾総督府は、警察官を先住民族の蕃社(村のこと)に常駐させ、徹底した威圧と指導を行なっていた。

 冒頭の「新高南山と南玉山の登攀」は、1931(昭和6)年夏、台風をやり過ごす為、2週間を郡大渓に点在するブヌン族の村々に過ごしたのち、新高駐在所(標高3,090m、この様な山奥にも警官が常駐した)の警官とブヌン族を一人連れて、玉山、南山(現南峰3,844m)、南玉山(3,384m)を1日で踏破したときの記録である。
 玉山を越えた尾根の上で、
「其処には見事なニヒタカビャクシンの樹海が広がって居た。その下陰に、ニヒタカフウロ、ニヒタカリンドウ、コダマギク、ニヒタカコケリンドウが、花咲いて、この高山の一角を飾っていた。--------それは確かに絵のように美しく、足を引き止める平和な情景ではあった。」

 そして南山を経由して、岩場の通過に苦労しながら南玉山頂上に立つ。
「結局、南玉山の最高点は、三番目の頭であった。其処には静かな草の上に、灰色の雲が舞って居た。それは永劫な天地を思わせるものであった。其処には一抹の人の香も感ぜられなかった。
 南玉山は、今まで未登攀の山だと聞いては居たが、正直の所、僕は何人かによって登頂せられては居ないかと心中穏やかではなかった(これに対して醜しと僕を責めるものあれば、僕は黙って叩頭するばかりである)。然し事実は、何人もこの聖なる頂に辿り着いた者は、無かったらしい。親しき山より遠く隔って居ることと、凶蕃の脅威は、この山頂を、千九百三十一年の今日まで、全く原始のままに置いたのであった。」
 帰路は、自分のテリトリーに侵入した人間を見つけると、首狩りを挑む凶蕃ラホアレ一味(原文のまま)の襲撃に怯えながら渓を下り、その日の出発点である新高駐在所へ帰着した。

 随所に民俗学者としての視点から先住民の起源、活動範囲、生活形態や山名の由来、登路などが述べられており、台湾の探検的時代の山を楽しむことができる。

(註)渋沢敬三(1896-1963)
 旧子爵、実業家、民俗学者。東京帝大経済学部卒業。柳田國男との出会いから民俗学に傾倒し、三田の自邸の車庫に私設博物館「アチック・ミュージアム」を開設、多くの民具を収集した。収集された資料は、国立民族学博物館の収蔵資料の母体となった。多くの民俗学者を育て、また今西錦司、川喜田二郎、梅棹忠夫ら多くの学者が、海外調査に際し渋沢の援助を受けた。
 北大理学部創設時の教員の一人鈴木醇教授(岩石学、鉱床学)とは旧制2高時代からの友人。

山岳館所有の関連蔵書
台湾の山/児島勘次/1934/梓書房
海外遡行研究‐台湾の谷(1963-1993)/茂木完治ほか編/2007/海外遡行同人
台湾山岳35/2001/洋書
台湾高山全覧図
 
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