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92カムチャツカ第二次遠征 »

第二次カムチャツカ遠征までの経緯

遠征隊隊長 澤柿 教伸


 日本最北端の地、北海道を本拠地として活動してきた北大山岳部は、創立当時からその延長上の山域として北方四島、千島、樺太といった地域にも足跡を記してきた。その活動は、当時これらの地域が日本の勢力下にあった昭和初期に集中する(部報2号に詳しい)。極東北方地域に活動範囲を拡大していく中で、千島の北にひかえる広大な山域“カムチャツカ”への遠征の願望は起こるべくして高まっていくことになるが、当時でさえ彼の地は距離的にも政治的にも遠い地であり、遠征の計画が実現することはなかった。戦後、カムチャツカは軍事的な要点としてロシア人すら自由に出入りのできない地域とされ、外国人の立入を一切拒んできたが、1980年代後半に始まった世界情勢の変化にともなって、ようやく外国人に開放されそうな気運が出てきたのである。

 ちょうどそのころ、山岳部では5年ぶりの部報の編集が開始され、すでに未知なる山域を失ってしまった、山岳部内のさまざまな問題を浮き彫りにしつつあった。同時に、部報13号をかざるような時代を反映する新しい企画を求めていた。一方、現役と若手山の会会員の間では、久しく行われていなかった海外登山への願望が高まり、一部の人間が集まって海外登山研究の活動を開始していた。そんな中で、ヒマラヤとは違った海外の山、しかも、いつもやっている山登りに近いスタイルで楽しめそうな、北海道の山と共通の魅力を秘めた極東の山岳は、絶好の目標となったのである。 こうして、1988年に部報13号の編集者も交えて極東山岳研究会が発足し、千島・カムチャツカの山岳地理的な研究と、将来の遠征に向けて対ソ連との交渉を開始した。研究の成果は1990年春に部報13号で発表すると共にクラーク会館で発表会を開催し、各方面で好評を得たが、実際の交渉のほうはなかなか進んでいなかった。山岳部は、この企画への援助を山の会理事会に要請して、かねてから個人的にもカムチャツカ登山をもくろんでいた越前谷氏らの協力を得て体制を強化し、情報収集とソ連側とのコネクションの模索を継続した。

 この間、1990年春に北大山スキー部が北千島に遠征して極東登山の先鞭をつけ、1991年3月の同志社大学に続いて、5月には東京雲稜会が、7月には北海道隊がカムチャツカ最高峰のクリチェフスカヤに登頂した。

 1991年6月に、ようやく山の会の要請がカムチャトインツールに受け入れられてコリャークスキーとオパーラの二峰の登山の許可が下り、上野八郎氏をはじめとする7名(含現役1名)が9月にAACHカムチャツカ遠征隊91として遠征した。

 二次隊の申請は1992年1月にカムチャトインツールに受け入れられて、1992年6月初旬の2週間で総勢10名がイチンスキーとハンガールに登ることが決まった。当初の研究メンバーの約半数はすでに卒業して遠征に参加する余裕がなく、10名の定員を埋めるのにフラテ山の会から2名と探検部OB1名の参加を得ることとなった。遠征の準備の一環として十勝の春合宿を位置づけ、他団体のメンバーとの相互理解の場として活用した。

 今回のカムチャツカ遠征隊は、1991年の遠征に継ぐ第二次遠征隊として現役主体で組織されたが、その中心はこれまで研究を行ってきた現役であり、一次隊よりも前から存在していたと言ってもよい。また、山岳部の将来をかけて、今後継続してカムチャツカ登山を定期的に行っていこうとする方針からすれば、今回の遠征こそが本格的な一連のカムチャツカ登山の始まりとなるものである。


 
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