坂本家の宿帳
坂本家から寄贈の直行遺品の中に4冊の”お宿帳”がある。下野塚での開拓時代の25年間と開拓地を離れて豊似市街で画業に専念した5年間の延30年間に、坂本家を訪問した人たちがこのノートに自分の想いを記していった。毎日の厳しい農作業の中での家族挙げての歓待、日高の山々の雄大な景観、柏林、遠くの海鳴りに感激した人たちは感謝の気持ちを抱いて帰っていった。
ご家族(ツル夫人)の手による宿泊、訪問客数を記した紙片がノートに挟まれているが、それは以下のとおりで、直行を慕って来た訪問者の多さに驚かされる。
1936年〜1965年 坂本家宿泊者数 589名
1936年〜1960年 下野塚原野訪問者数 440名
1960年〜1965年 豊似市街訪問者数 245名
お宿帳をご覧になりたい方は山岳館所有の複写(朝日新聞植村隆記者撮影)で閲覧できます。
以下、下野塚原野時代のお宿帳(1号〜3号)の中から北大山岳部員達が残した手記の一部を紹介する(いずれも原文のまま)。
1936(昭和十一)年一月十二日 「お宿帳」第1頁に記載
(本野正一、葛西晴雄、湊正雄 1935年12月30日〜1月11日南日高へ、トヨニ、ピリカ冬季初登)
湊正雄
----トヨニ岳から眺めたピリカの大きな山容と山に入る日の原野から眺めたルベツネ、ペテガリのすばらしさは今度のもっとも印象的な場面だったと思います。冬来て初めてここがどんなに山を見るに良いところかを知り直しました。五月残雪のうるわしい頃に、また参ります。それを楽しみにしていつまでも居たいのですが、この居残りを打ち切ります。
葛西晴雄
----例によって山を出る頃ともなれば天気が良くなる。しかし、自分の登った山を見ながら下りられることは実によい気持ちだ。僕はこの頃このような気持ちを味わったことはなかった。
1937(昭和十二)年二月十七日 有馬 洋
(1937(昭和12)年1月〜2月、第1次冬期ペテガリ岳登山隊が、暴風雪で稜線上のテントが破壊されるなどして敗退に終わった後、直行に促されて訪問した。この隊には直行も参加し、長男の誕生を帰宅後に知った。有馬は医学部3年生だった1940(昭和15)年1月に葛西晴雄と共に第2次ペテガリ隊のリーダーとして参加し、葛西以下7名の部員と共に雪崩で遭難死した)
コイボクサツナイよりの厳冬期のペテガリ登頂を志せるも、一日の違いで天候激変のため退却の余儀なきに至ったのでした。一年間の計画も白かんの親なるかまぼこ天幕の為に山を下りなければならなかった時は、ようやく天気恢復せる山頂をのぞんで涙の出るほど残念でした。心の憂さを晴らすべ可く直行さんに供はれて牧場に来ましたが、丁度こちらはお産の翌日、土方さんの方はお引越しと云ふ大変な時に来てしまひ、おまけに自分は風邪を引いてとんだお世話様でした。
あのモルゲンロートの筆舌につくせぬすばらしさ、又は白銀のこい影を付けた山並みの姿は一生脳裏から離れぬことでしょう。牧場を去るに当って、登君の健やかなるご成育をお祈りします。
1936(昭和十一)年七月十九日 石橋恭一郎
昨日来て、きょうは既に帰る。僅か2日足らずの滞牧、今少しの日数と思えど、如何ともならず。心をここに残して去る。此も空蝉の世の習わしとか。過日、牧場主に案内されて海岸へ行く。その茫茫たる風景にすっかり魅惑された。
―風もなく、ただ聞こえるは波の音のみ、沖ゆく船も見えずー
1937(昭和十二)年七月十一日〜十八日 中野龍雄
(夏休みを利用して開墾の手伝いに来た。遭難した有馬、葛西らと同期の中野は第1次冬期ペテガリ隊に参加、アタックメンバーに選ばれるなど活発な部員であった。昭和18年、ガダルカナルにて戦死)
僅か8日間、その内の半分は雨とガスの日でろくに仕事もせず帰るのは残念です。原野の開墾の現実、茫茫たる太平洋の荒波、連綿と続く日高の連峰、憧憬の牧場の8日間は愉快でした。
オニール作「地平の彼方」の兄のことなどが思い出されました。「あの丘の向こうの海の彼方に何かがある。きっと良いところがあるだろう」とか言ったロマンチックな詩人の弟に対し兄の『詩ばかり歌っていた日には牛や馬が飼えるかい』の言葉を。
最後の前日、不注意で馬を死なせてしまったことを深くお詫びして、簡単ながら筆を置きます。
1937(昭和十二)年8月十七,十八日 栃内吉彦(初代、第3代山岳部長 当時予科教授)
とっくに来可かりし直行氏の農場にやっと来ることが出来た。8月30日の朝札幌を出て、トッタベツ川のピリカペタンから札内岳に登り、尾根をエサオマントッタベツ岳に縦走し、更に南折して1852m峰ヲ越え、カムイエクウチカウシに登り、札内川の八の沢を下って上札内に出たのは16日の晩だった。一泊して翌朝一番のバスで豊似に来たり、折良く市街地に来ていた直行氏に伴われて荷馬車に新築用の屋根柾を積んだ上に乗っかって農場に着いたのは午後2時頃だった。独りで柏の林を逍ひ豊似川の河原を歩き海辺の砂も踏んだ。
夜は四八組の全部が集まって折からの月明かりに一本木丘上の草地に歓迎の宴を開いてくれた。仰いでは空を往来する雲を眺め、臥しては太平洋の波の岸打つ轟きを聞き、痛飲談論夜半に及んだ。この日偶然来合わせた文チが酔っぱらってトンガラカッチャダメヨなんかと唄って魚になってくれたのは大いに良かった。さもないと私の気持ちはあまりにしんみりし過ぎてむしろ感傷的になってしまったことだろう。然し私の感情が嫌にしんみりしてしまうのは無理もないのだ。この土地に対して私はそれほど深い関心をそもそも事の始まりから持ち続けているのだ。民有未墾地入地の前後に起こった坂本兄弟の身辺の事情や私の身辺の事情やらを回想しないわけにはゆかず、従って感傷的にさえならざるを得ないのだ。その感傷をビールと一緒に胃袋の中に流し込んで文チヲ肴にしてのけた。(文チよ許せ) −−−−−−
皇紀二千六百年(昭和15年)十二月三十一日 有馬 純
十月に来てから2か月を経てまたやって来た。
底の底まで澄んだ高雅な十勝の空と雪で真っ白になった懐かしい日高の山並みが再び私を迎えてくれた。汽車を下りて雨後でつるつるに凍った道を急ぐ。だいぶん遅れたこのサンタクロースの背には大きなルックが揺れる。牧場に入ると例の炭焼きのところへ飛んで行った。案の定、直行さんが一人で真っ黒になって炭を俵に詰めている。合宿に行けないと腐っていると思って、ちょうど呼んでやろうと思っていたと言われる。いつもながら嬉しい言葉だ。−−−−−−
牧場は来る度に大きくなって行く。大雪後の昨年の正月には馬に屋根を食われた馬小屋とこの家だけだったが、この前4月に来ていたときは家より立派な牛舎サイロが出来ていた。いつもの槲の林から直行さんがあれサイロの屋根が見えるだろうと言われる。屋根はこの前は出来ていなかったのだ。杉の皮で張ったサイロの頂上が見違えるほどサイロと馬小屋を美しい風景にしている。井戸と風呂場が今度は露天ではなく、小屋の中に納まっている。来年はどうなるか楽しみだ。−−−−−−−
1941(昭和十六)年八月二十六日 東 晃
(昭和15年1月、コイカクシュサツナイ川で遭難した部員のケルン建設後に立ち寄り)
初めて直行さんの牧場を訪ねることができた。ケルン積みの帰り、トーチカに誘われて急に思い立って来たが、日高の山から下りてこの原野で暮らすと、大和平原の対象を感ずる。雨でお手伝いできなかったが、乳搾りを見たり、子牛をなでたり、スケッチを見せていただいたり、外の雨音を聞きながらいろいろの話をしてよい時を過ごした。直行さんのお言葉に従い、また冬にでも来よう。
1942(昭和十七)年七月二十八日 今村昌耕
野塚岳―1371m―1320m―十勝岳―楽古岳の縦走を終えて、楽しみにしていたこの原野に先輩を訪い、一晩泊めていただく。誠に恵まれた日、ガスの無いいい月夜に訪れた。また朝は雲のかからない日高の山並みを、Heimatを、丘の上から眺める機会を作って下さった。この度も与えられる喜びに浸ってここを去る。この前の時はおばさんが子供さんのお病気のためお留守であったが、此度は皆さん一緒のところに来てとてもよかった。去る時はまた訪れる日の喜びを持って去るのである。作物が今年は良いとのお話で嬉しい。皆さんの健康を祈る。
1943(昭和十八)年一月九日 藤木忠美
(橋本誠二、石井次郎、藤木忠美、札楽古川―楽古岳―十勝岳縦走)
生まれて初めての冬山の旅を終えて、直行さんのところへ来た。苦しかった旅、苦しければ苦しいほど旅の思い出は楽しい。星空の下、寒風吹き荒ぶ中を迷いに迷って見つけた牧場の灯、あんな嬉しかったことは無い。丘の上から見れば、今日も日高は快晴である。ペテガリはどうしたろう、やってくれれば良いのだが。―――夏にはまたここへ来よう、また日高の山々と牛や馬も喜んで迎えてくれるだろう。そしてまたあの直行さんの話を聞くのだ。その時を楽しみに待とう。
1943(昭和十八)年八月十二日 今村昌耕
(同年9月医学部卒業、同時に海軍入隊)
卒業前最後の山登りを思い出深く男澤哲夫さんと一緒でき、男澤さん御一家と名残を惜しんだら次にまた名残に暖かき直行さんを訪ふことができた。こんな恵まれた日々は今まで与えられて来た幸福な山生活に最後のpointを打つべきこの上もなきものであった。身は山から、日高山脈から離れても変わらず山心を抱き、また山の生活に結ばれた方々への感謝とご幸福を祈る心でこの北海道を去りたい。この牧場を通してすぐれた実際的な豊かな教養を恵まれざる多くのお百姓さんに及ぼし、日本の農民が将来豊かな心を持って仕事に精を出せるようになったらどんなに日本に追って感謝すべきことだろう。10日、11日の間に、いろいろお話をお聞きできてうれしい。温かいおもてなしに感謝しつつ、皆様のご幸福を祈ってお別れします。またいずれの時にかお会いできるか思いにふけりつつ。
1943(昭和十八)年九月二日 大川勇三郎
初めて日高山脈に入り天候の悪い際に合いへとへとになって直行さんのお宅にやって来た。日高の山脈がつきる所遙かに太平洋を望みしかも不毛と言われるこの土地で直行さんの生活を実際に拝し泣きたいようにうれしい。それに自然と共に生きている登ちゃん達子供さんの生活はほんとうにうらやましい限りです。僕は山と言ってもただ自然と交わればよい。それはほんとうの山行でないかもしれない。しかしそれをつづけます。自然と生きる生活にどれだけ僕は引きつけられたことか。今年は天気が悪いとか、これからでも回復して実りの秋が迎えられるように祈ります。
1944(昭和十九)年三月二十五日 山崎英雄
(戦争の影響がますます深刻になり、この年、山岳部は夏、春に2パーティーのみ入山した)
4月から旅行制限になるので僕たちが当分の間、最後になるであろうと思うと感無量です。今頃スキーなど持って旅行できるかとヒヤヒヤしながらやっと汽車に乗れました。出発1日から札幌もベタベタ雪が降り始めて心配しましたが、十勝も昨晩一尺近く降った由にてそれが今日はベタベタ解けて、トヨニから牧場まで大いに弱らせられました。−−−−−
夕方直行さんと土方さんの裏山に登って日高の山々を見ましたが、生まれてこんなに感激して山を見たことはありません。尾根の雪煙が金色にかがやいて実に神々しく見えました。太平洋の色、カシワの色、雪の色、実に調和のとれた落ち着いた感じです。−−−−
1946(昭和二十一)年七月十七日 菊池 徹
AACHに育って七年、今度私は多く持つ希望の二つを成すことが出来たのを全く幸福に思います。その一つは初めてペテガリ岳に登ったこと、その一つは直行さんのお宅に泊まれたこと。卒業直前にこの二つの出来たことは私には一生忘れられない事となるだろう。私は近いうちに北海道を去って四国に帰る事になると思う。ペテガリよ!! そして坂本さん御一家のご多幸を祈りつつ−−−−−−。
1952(昭和二十七)年一月七日
岡本丈夫
山でさんざん吹雪かれたあとの温かい一日、ほんとうに里に下りてきたと言う感じがしました。
森厚
山での事が嘘のような暖かな平和な一日を過ごしているとこの土地に住み着きたいような気がします。静かな大地と日高山脈が、なんとうつくしい事、−−−−−−。
1958(昭和三十三)年八月十二日 渡辺興亜
自分にとって遥かなる山脈であった南日高にそれもペテガリに一年目部員として登れたことは非常な感激であった。毎年一度は来たいと思う。下界へ降りたとたんにわれらの大先輩坂本さんにお会いでき一夜を過ごさせていただいたということは、これまた僕にとって非常なる感激です。これからもラッコ、ピリカを訪れるときは迷惑なる後輩となりたいと思います。
1959(昭和三十四)年一月十二日 安間莊
冬のラッコに行く。原野からの日高はすばらしい。厳しい自然の中で農業を営まれてきた直行さんに全くの敬意を表します
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