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第1章 山岳部創立前史(大正期)
第2章 北大山岳部創立と日高山脈の開拓1926年 〜1935年
第3章 “遥かなる山ペテガリ”への挑戦1936年 〜1945年
第4章 戦後再出発と山脈縦走登山1945年〜1957年
第5章 直登沢、集中登山、そして海外遠征 1957年〜1969年
第6章 厳冬期ヒマラヤ8000m峰登頂 1969年〜1982年
第7章 新しい山旅を求めて 1983年〜1995年
第8章 創立100周年へ向けて 1996年〜
前書き・あとがき
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第6章 厳冬期ヒマラヤ8000m峰登頂
1969(昭和44)年〜1982(昭和57)年
解説
1969(昭和44)年1月、定山渓天狗岳で発生した雪崩遭難事故を契機に公式山行の一時停止、同年4月の入学式に端を発した学園紛争の影響による山行の縮小、現役部員の大麻吸飲による社会問題化と大学当局による体育会公認取り消し、その責任をとって橋本誠二山岳部長の辞任、折から計画中であったダウラギリ?峰遠征中止など、昭和44年〜46年に一連の山岳部の存立を揺るがしかねない、過去に例を見ない事件が頻発、まともな山行ができない状態がつづいた。
このような混乱からの脱却を図るために現役部員達は、山岳部の位置づけについての議論やヘルヴェチア学校の開催、大雪リクマンベツでの合宿などを通じて組織の再生に取り組んだ。
その過程から生まれた山岳部の一体感は、現役部員によるアラスカ・マッキンレー峰遠征に実った。混乱の一時期を耐え、山岳部再生に努力し、マッキンレー峰登山を推進し成功させた世代は、以後AACHの活動の中核となって厳冬期ダウラギリ?峰登頂を成功に導いた。
1974(昭和49)年6月、山岳部創立50周年事業委員会は、厳冬期ヒマラヤ8000m峰登頂を目指すこと、その準備としてガネッシュヒマール・ラクサンカルボの冬期登頂に遠征隊を送ることを決定した。
ラプサンカルボ計画は、AACHにとってナラカンカール遠征から実に11年ぶりの計画であったが、ネパール政府の突然のヒマラヤ登山全面禁止により中止となった。AACHはそれに代わって急遽ガルワルヒマール・トリスル峰(7120m)へ野田四郎を隊長とする遠征隊を送った。
トリスル隊は突然の遠征決定による準備不足、現地の例年より早い冬の訪れと積雪、キャラバン途中の理由不明なポーターストライキによりベースキャンプにたどり着くことすらできずに中止に至った。
しかし、この失敗を経験した隊員を中心として、その後毎年規模の大きくなってゆく一連の海外遠征の端緒となった1978(昭和53)年8月カラコルム・ドレフェカル峰初登頂(6447m、石村明也隊長以下7名)、翌年7月カラコルム・クンヤンチッシュ北峰初登頂(7108m、越前谷隊長以下7名)が成功したのである。
1976(昭和51)年9月13日、札幌パークホテルに来賓、OB、現役90名が集まり、山岳部創立50周年記念式典が挙行された。記念事業として他にカナディアン・ロッキーへの旅、50周年記念誌出版が行われた。
海外遠征が華々しい成果を挙げる中、昭和54年3月、知床硫黄山から知床岬を目指していた平野パーティが、暴風雪にテントを潰されて遭難、3名が死亡した。山岳部は混乱の一時期から出発して着実に実力を付けつつあり、さらに雪崩研究会、アイゼン研究会などの地道な努力を重ねてきただけに、遭難は大きな衝撃となった。
1979(昭和54)年6月、部室が体育館脇のプレハブから新サークル会館付属体育器具庫へ移転した。新サークル会館には時間等の使用制限が多いが、現在に至るまで混乱もなく活動が続けられている。
知床遭難の翌1980(昭和55)年9月、AACHは、ネパールヒマラヤ・バルンツェ峰(7220m)の厳冬期登頂を目指して林和夫を総隊長とする総勢12名の遠征隊を送った。遠征隊は同年12月15日登頂に成功、厳冬期8000m峰登頂への足がかりを作った。
バルンツェ峰成功の2年後の9月、有馬純を総隊長、安間荘を隊長とする総勢15名の遠征隊が、ダウラギリ?峰(8167m)厳冬期登頂を目指して出発した。
この遠征はトリスルの失敗とバルンツェの成功を基に、冬のヒマラヤの気象予測に初めて科学的な方法を導入するなど可能な限りの科学的な方法を取り入れ、かつ総隊長以下AACHが望み得るベストに近い体制を組んで送り出された。周到に準備された条件は僅かな晴天を的確に捉え、12月13日小泉章夫、オンチュウ・シェルパがついにその頂に立った。
私にはこの冬期登攀の構想が、AACHの創立当時から、さらにその背景である北海道大学にスキーが伝えられ、冬期登山が始まった時からの、言わば寒冷の系譜とも言うべき一つの自然観の流れの中に位置づけられる様に思われる。・・・
・・なぜならば、我々がヒマラヤ冬期登攀の構想を持った時、このような構想はどこにもなく、なんら他の影響を受けず、内発的にそれを将来の目標に設定したからである。こうした構想は偶然や思い付きで生まれるものではなく、何らかの登山思想をその背景に持っていたと考えざるを得ない。・<中略>・
・・・即ち、日高山脈におけるこの冬期登山開拓の30年の歴史こそ(註:山岳部創立から冬季日高山脈全山縦走までの30年間)ヒマラヤ冬期登山の構築源泉であり、冬期の寒冷の風土の中で育まれた一つの系譜が考えられるのである。(バルンツェ峰遠征隊報告書1982 渡辺興亜)
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