9.ヒマラヤ行 鹿子木員信(かのこぎかずのぶ)/1920/政教社/204頁
鹿子木員信(1884-1949)、哲学者
東京生まれ、東京府立第1中学を経て、海軍機関学校卒業。日露戦争に従軍、1906(明治39)年、中尉で海軍を退き、同年京都帝大哲学科選科入学。翌年、ニューヨークに渡り、ユニオン神学校とコロンビヤ大学で学んだ。1910(明治43)渡欧し、ベルリン及びイエナ大学で哲学を学び、博士号を取得。この間、1911年8月下旬から1ヶ月間ヨーロッパアルプスの高原を1人で踏破した。この時の感激を綴ったのが「アルペン行」である。
1913(大正2)年、帰国後、慶応大学哲学科教授となる、山岳部創立にあたって槙有恒らの相談役となる。1918(大正7)年慶大を辞し、ダージリンへ、カンチェンジュンガ地域を踏査。1921(大正10)年、東京帝大文学部講師、東大スキー山岳部の創設に協力する。1923(大正12)年、文部省在外研究員としてドイツへ、ユングフラウやマッターホルンなどアルプス登山を行なう。1926(大正15)年、九州帝大教授、1932(昭和7)年、同法文学部長。1939(昭和4)年、退官後は徳富蘇峰が会長の大日本言論報告会の専務理事、事務局長を務め、国粋主義思想を広めた。戦後はA級戦犯容疑者として巣鴨刑務所に拘束されるが、釈放される。
1919(大正8)年12月6日、北大スキー部主催の「鹿子木員信ヒマラヤ登山幻灯講演会」が北大中央講堂で催されている。
内容
本書は日本人が登山を目的に、初めてヒヤラヤに挑戦した記念すべき記録である。前著「アルペン行」とは同じ出版社、同じ版サイズ、同じ装丁の姉妹編である。
アルペン行から七年後の一九一八(大正七)年、哲学研究のためにダージリンに滞在中の鹿子木は、単身シッキム・ヒマラヤを目指していた。イギリス官憲との長いやり取りの末、ようやく十五日間のみ有効のシッキム入国旅券を得て十月十七日、リエイゾン・オフィサーのベンガル人、人夫と共にダージリンを発った。目標はカンチェンジュンガ東尾根チンセップ(五八三六メートル)登頂である。雨期のダージリンに数ゕ月を過ごし、時折の晴れ間から望見される崇高で雄偉なカンチェンジュンガを望んでヒマラヤ行を決するに至ったが、その時の心境を次のように述べている。
ダージリンにあること数月、屡々此のカンチェンジュンガの挑戦の声を聞いて、僕は空しく、再び印度の平原に下りて行くを、恰も巨人の挑戦の前に、旗を捲いて戦場を去る劣敗者のことのように思われてならなかった。かくて僕は、前途に横はる幾多の困難障害を思い、私かに、ためらひつつも、ヒマラヤ行を計画した。
装備を整えるのに苦労した。天幕は槇有恒が仙台で試験的に作って贈ってくれた面積一坪ほどの紙製の天幕、氷銊(アイス・アックス)はカルカッタのアイス・アックスを見たこともない友人が鍛冶屋に作らせて送ってくれたが、はなはだ不完全であった。ザイルもまた、カルカッタの友人が莫大な費用を投じて新しく作らせて送ってくれた。アイゼン・背嚢などは望むべくもなく、きわめて貧弱な装備であった。
チャクン、ガイジン、チュンブン、ヨクスン、プレイグ・チュ、ゾングリ、オクラタン、チェマタン(地名は原文のまま、以下同じ)と泊を重ね、十月二十六日、ダージリンを発ってから十日目にダイチャ・ラ(五〇〇八メートル、Gocha・La)に到達した。霧が深く、期待した大景観を十分に視野にすることはできなかった。
眼を挙げて望めば、強き南の風、依然、絶えず雲と吹雪を飛ばしその吹き断つ切れ間、切れ間に、東にパンジムの一角、南にオクラタンの大氷河、西にカンチェンジュンガ南尾根の諸尖峰、北にタルンの深き氷の谷を隔てて、直ぐ頭の上に蔽い被さるがごとく如く屹つカンチェンジュンガ東尾根の一角が、幻の様に、隠見している。カンチェンジュンガの絶頂は、雲の後ろ深く匿れてついに見るを得なかった。
峠からタルン氷河(Talung Glacier)へ五百メートルほど下りたところ(ヤンボック平)でキャンプ、明日はタルン氷河を越えてトンション氷河(Tongashiong Glacier)から目的の先人未踏のチンセップを探るべく早く眠りについた。 しかし、翌朝は降雪で景色はまったく見えなかった。目指すチンセップはその所在さえ分からない。フレッシュフィールドの「Round Kanchenjunga」付図を頼りにタルン氷河に下りようとしたが、人夫らの帰路が降雪で閉ざされることへの懸念を了とし、撤退を決めた。
翌々日、チンセップ撤退のせめてもの腹いせにと黒カプア峰四八一五メートル(註Kabur)を目指した(この山は一八九九年にフレッシュフィールドがカンチェンジュンガ一周をした時に登頂している)。頂上直下の大岩壁を裸足になってしがみついてみたり、人夫のターバンを使ってザイル代わりしたりしながらようやく乗り越え、午前九時四十五分、黒カプア一五八〇〇フィート(四八一五メートル)の頂上に達した。カンチェンジュンガ、カブルーはすっかり雲に隠れて見えなかった。
帰路は東側の国境沿いにとり、ダージリンに到着したのは十一月五日であった。
フレッシュフィールドのカンチェンジュンガ一周によって周辺の地形がほぼ判明したのが一八九九年である。本格的な登山隊としては一九〇五年、ヤルン氷河から挑戦したイギリス・スイス隊で、六三〇〇メートル付近に達したが、雪崩に遭遇して隊員を失い撤退した。その後、鹿子木の挑戦まで、カンチェンジュンガ周辺に登山を目的として接近した者はいなかったのである。
鹿子木は、この旅行はカンチェンジュンガ遠征への偵察行であり、第二、第三の計画を考えていたことを「あとがき」で述べている。しかし、この旅行後にまったく身に覚えのないことながら、英官憲によりスパイと見做されて追放処分を受けた。同行のリエイゾン・オフィサー(ベンガル人で本書の中ではDとしている)が終始、彼の言動をスパイ報告した結果であった。カルカッタの三井物産社宅で逮捕され、直ちに英汽船で強制送還された。シンガポールでは牢獄に十日間拘束された。「あとがき」は鹿子木の無念さにあふれており、この屈辱が鹿子木のヒマラヤ計画を挫折させたと言える
参考文献
アルペン行 鹿子木員信/1913/政教社
登高行15号‐山岳とスキーの思い出‐/鹿子木員信/1957/慶応義塾体育会山岳部
わたしの山旅/槙有恒/1968/岩波書店
わが登高行/三田幸夫/1979/茗渓堂
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秘密の国 西蔵遊記/青木文教/1920 |
山行/槙有恒/1922 |