10.山行 槙有恒(まきありつね)/1922/改造社
槙有恒(1894-1989)、登山家
仙台に生れる。1911(明治44)年、慶応義塾予科に入学、1914(大正3)年、日本山岳会に入会。1915(大正3)年、慶応義塾山岳会創設。1917(大正6)年慶応義塾大学卒業。1918(大正7)年、アメリカ・コロンビア大学留学するも、1年余りでアメリカでの生活を切り上げて、1919年より2年間ヨーロッパで過ごす。この間、スイスのグリンデルヴァルドに滞在し、2シーズンに渡りアルプスをくまなく登山し、1921(大正10)年、F.アマッター、S.ブラヴァンドら3人の熟練した地元ガイドと共にアイガー東山稜(ミッテルレギ山稜)の初登攀に成功、日本の登山界に大きな刺激と影響を与えた。1923(大正12)年1月、立山松尾峠にて暴風雪のため遭難、同行者板倉勝宣を失い、自らも凍傷を負う。1925(大正14)年、日本で初めての海外遠征隊を組織し、カナダ・アルバート峰に16時間の苦闘の末、初登頂。1956(昭和31)年日本山岳会マナスル遠征隊隊長、同峰初登頂を果たす。仙台市名誉市民、文化功労賞受賞、第7代日本山岳会会長、イギリス・アメリカ・スイス各山岳会名誉会員。
内容
本書扉に「比の微いさき書を板倉勝宣君の霊に捧ぐ」の献辞がある。「山と或る男」「アルペンに於ける登山の発達」「登高記」「南側よりのアルペン」「山村の人と四季」「板倉勝宣君の死」「岩登りについて」の7章からなる。全篇を通して見ると、登高精神、山の歴史、登攀記、山村の生活、遭難、岩登り技術と、山という大きな世界を総合的に理解するように構成されている。1874年の最初の試みから前後12回に亘って、名だたる登山家を拒み続けたアイガー東山稜(ミッテルレギ山稜)の初登攀については第3章に述べている。
「私達は勝った。併しブラヴォーを叫んだ訳でもない。只4人互いに手を固く握り合った、そしてストイリが只一言『ヘルは之で世界の人となった』と言った。雲が一時晴れた東方に大シュレックホルンが赫と夕日を浴みて聳える。」
大正8年から3年間北大に在籍し、北大スキー部の登山技術向上に大いなる貢献をした板倉勝宣の松尾峠での遭難については、第6章に詳しく報告している。
山岳館所有の関連蔵書
マナスル登頂記 槙有恒編/1956/毎日新聞社
わたしの山旅 槙有恒/1970/岩波書店
山頂の憩い 槙有恒/1971/新潮社
山の心 槙有恒/1974/毎日新聞社
槙有恒全集I II III 槙有恒/1991/五月書房
山とスキー26号 板倉勝宣君追悼/1923/山とスキーの会
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ヒマラヤ行/鹿子木員信/1920 |
岩登り術/藤木九三/1925 |