3.西蔵旅行記(上)(下)河口慧海(かわぐちえかい)/1904/博文館/(上)415頁(下)456頁
河口慧海(1866-1945) 仏教学者、探検家
1866(慶応2)年、堺市の桶樽製造業河口善吉の長男として生まれる。本名定次郎。学制施行の年、小学校に入学するも仕事を継がせたいという父親の願いから12歳で退学(当時は8年制)する。しかし勉学の志は消えず、夜学(晩晴塾)に通い、漢学の素養を身につけた。そのかたわらアメリカ人宣教師から英語を学び、聖書も熱心に勉強した。
15歳の時、釈迦の伝記を読んで強く仏教に惹かれ、禁酒・禁肉食・不淫の誓いをたて、一時期を除き一生続けた。21歳の時、宣教師の影響を受けてか、新島譲の創立した京都の同志社に入学するが、学費が続かず帰郷し、大阪長柄の正徳寺で参禅、仏事、読経を見習った。1888(明治21)年23歳で苦学を決心して上京、哲学館(東洋大学の前身)に入学する。
1890(明治23)年、本所の黄檗宗五百羅漢寺で得度を受け、慧海仁広(エカイジンコウ)という名を授かり、同寺の住職となる。しかし、寺務に忙殺され、住職と修行・学問が両立しないことが分かり辞職、黄檗山別峰院で3年間を一切蔵経の読破、研究にかけた。その結果、漢訳仏典の異動、不備に疑問を感じ、なんとかインド仏典の原初形態をとどめているというチベット語訳の大蔵経を入手し、正しい仏教の教えを日本に伝えたい、そのためにはチベットへ行くしかないと決意する。
1897(明治30)年6月、知人らから喜捨を受けてインドへ向けて神戸港を出港した。ダージリンで1年5か月、チベット人からチベット語を習い、1899年2月6月、外国人の入国禁止のネパールへ密入国。1900(明治33)年、幾多の苦難の末、ヒマラヤを越えて日本人で初めて鎖国を厳しく布くチベットへ入り、カイラスを巡礼、1901年3月、念願のラサの地を踏んだ。1902年6月、密入国が露見したためにラサを去り、ネパールに滞在したのち、6年ぶりに帰国、1904年、「西蔵旅行記」を出版した。
「旅行記」出版後の1904年秋、再びインドを経由してネパールへ入国、サンスクリット語の研究、経典の収集に努めた。1913(大正2)年、パンチェン・ラマの招待を受けて2回目のチベット入境を果たす。1915年9月に帰国、持ち帰った膨大な量の経典の翻訳や研究、仏教やチベットに関する著作を続けた。1921年、黄檗宗に僧籍を返上、在家仏教を提唱し、さらに1926年、還暦に際し還俗を発表した。1926(昭和元)年、大正大学チベット語教授に就任。第二次大戦も終わりを告げようとする1945年2月、脳溢血で倒れ、大往生を遂げた。享年八十歳。
内容
本書は真の仏教を求めて日本人として初めてネパールへ入国、そしてヒマラヤを越え、外国に厳しく門を閉ざすチベットへ入った河口慧海の探検記である。本書は慧海の帰国直後の1903(明治36)年、東京の「時事新報」に155回、「大阪毎日新聞」に139回にわたって連載された口述筆記による探検記で、慧海の独特な語り口は読む者を魅了する。上下2巻、延870頁である。
1897(明治30)年6月25日、河口慧海は横浜港を出港した。失われた仏典、仏の教えの原点を求めてチベットへの旅の始まりであった。 カルカッタに上陸後、直ちにダージリンにチベット学者サラット・チャンドラ・ダス師(チベットへ2回入った英印政庁の秘密調査員)を訪ね、此処で1年5か月、チベット語の文法、会話を習い、さらにチベットの事情を集めた。ダス師からチベット行を反対されるが、慎重に入国ルートを研究、最終的にネパールから入る道を選んだ。
1899(明治32)年1月、ネパールへ中国人と偽って潜入、カトマンズ郊外のボーダーナート寺に1か月滞在し、チベットから来た巡礼者から情報を集め、ネパール北西部のトルボから国境を越えて北西に向かい、マナサロワル湖へ出ることに決めた。
同年、ポカラからカリガンダキを遡り国境に近いツァーランに10か月滞在、その間モンゴル人の学僧からチベット仏教とチベット語文法・修辞学を習った。
ツァ―ランを1900年3月10日に出発、ダウラギリ北方のトルボ地方に入り、キャルンバ・コーラからチベット国境へ向かった。この谷は非常に険阻で、5000mを越える峠を越さなければならない。慧海は希薄な空気の峠から南の方にダウラギリの雄姿を眺めた。
「寒い許りではない、モウ苦しくて荷を背負って居る荷物に縋らなくてはならぬけれど景色も亦佳いです、能く見る勇気もなかったが起伏蜿蜒、突兀として四端に聳えて居る群雪峰は互に相映じて宇宙の眞美を現しその東南に泰然として安座せる如く聳えて居る高雪峰は是ぞドーラギリーであります。恰も毘盧遮那大仏の虚空に蟠っているが如き雪峰にて其四方に聳えている群峰は菩薩の如き姿を現はしております」
それからトルボの東の入り口ツァルカに至り、トルボ、シェーの霊場を訪ね、ついに1900年7月4日、国境の峠に立った。日本出発以来3年の歳月が経ていた。
夏とはいえ深い雪と薄い空気に耐えながら峠を磁石一つを頼りに下り、ツァンポ河沿いに西進、カイラス山目指して歩いた。氷河から流れる冷たい氷の川を渡り、猛獣の声を聞きながら野宿し、血を吐き、霰に打たれた。水無き広原で渇きに苦しみ、砂嵐に耐え、雪中で凍死寸前までいった。どんな苦難を受けても仏の加護を信じ、自然を享受しているのには驚かされる。こんな苦しい旅の間も、自然や人間の観察を怠らない。野生動物や一妻多夫や鳥葬が描かれている。幾多の困難の末、聖地マナサロワル湖とカイラス山を巡った。転じてツァンポ川沿いに東進、シガチェのタシルンプー寺に詣り、1901年3月21日、国境から8か月かけてようやく念願のラサに入った。
「遥に東北の方を見ますとプラフマ河が東南に流れて行く、その大河に東北の方から流れ込ンで居る大きな河がある、その大河をキーチウ河と云ふ、其河に沿うたる遥かの空を見ますと山間の平原の中にヅブリと立って居る山がある其山の上に金色の光を放っているのが日光に映じてキラキラと見えて居る、ソレが即ち拉薩府の法王の宮殿でポタラと云ふのです」
ラサ三大寺の一つセラ寺に出向き、西北原から来たチベット人と偽って入学を許された。それから1年2か月、ラサに滞在、寺で修業し、チベット人と付き合った。
ある時、骨の外れた子の治療をしたことから評判となり、病人が押しかけ、名医としてラサ中にその名が知れ渡った。そしてついにダライ・ラマ(十三世)に召され、拝謁とお言葉を賜った。やむを得ず病人を見ている縁で高官とも知り合いになり、前大蔵大臣の家に住むことになり、その兄でチベットの最高僧を師とすることもできた。このような環境にあったおかげで、慧海は僧院の生活からチベット人の風習、政府、財政、外交まで広く情報を得ることができた。川喜田二郎氏は慧海の報告について「ことにチベット民族の風習については、これまた第1級の情報を含むと断言できる。農業や動植物についても、たしかな観察が報告されている」と評価している(所蔵図書1序文)。
ラサに到着して1年2か月になろうとするとき、慧海が日本人で密入国者であることが露見する。密入国者と関わりを持ったことで世話になった人々に災いとなることを恐れ、恩人の前大蔵大臣夫妻に日本人であることを明かし、「自分に縄をかけて法王政府に差し出すよう」に求めた。しかし、老夫妻に自分たちはどんな目にあっても良いから早く帰国するようにと逆に勧められる。
ラサを去る決心をして慧海は荷持ち一人を雇い、町の雑踏に紛れて5月29日ラサを離れた。帰路はチュンビー谷を通りカリンポンに出る路である。公道であるので行きのような困難はないけれど、パリ・ゾンをはじめ計5つの関門があり、やはり危険な旅であった。ラサでの名医という評判や慧海の機転が功を奏して、五重の関門を通過するのに考えられないほど早く、通常17、8日かかるところをわずか3日で通り抜けた。ラサから国境を出るまで17日であった。
慧海はダージリンへ出てS.C.ダス師に再会する。慧海がダス氏の別荘で静養中に、チベットで世話になった人々が次々と捕らえられているとの情報を得る。慧海はその救出をネパール国王に頼むことによってチベット政府を動かすほかないと考え、チベット法王宛の恩人救済のz上書を携えてネパールへ再入国する。日本の国事探偵ではないかと疑われるが、誠意を持て説得、ネパール大王(総理大臣)からチベット法王への上書の取次ぎを依頼することに成功した。
1914(大正3)年8月、慧海はパンチェン・ラマの招待を受けて再びチベットを訪問するが、その時旧知の人々に会い、互いの無事を喜び合った。しかし、慧海の密入国が原因で起こった疑獄事件では多くの人が投獄され、中には獄死した気の毒な人もいたかもしれない(資料2奥山直司)。
ツァ―ランからヒマラヤを越えてカイラス山に詣で、それからラサに至るまでの地名、距離等の詳細は本書では語られていない。特にツァルカ村以降1か月はまったく地名が出てこない。しかし、慧海が旅行中に綴った「日記」が2004年に彼の姪宮田恵美氏の自宅で発見され、奥山直司氏らの研究会、学術探検隊、登山隊などがその日記に基づき、慧海の通ったルートを実地にトレースした。その結果、慧海がヒマラヤを越えた峠がクン・ラ(5411m)であることをはじめ、ツァルカからラサまでのルートや旅行の状況がほぼ解明された。慧海は世話になった人々に迷惑がかかることを恐れて「旅行記」では詳細を述べていなかったのである。(所蔵図書4奥山直司)
「日本人として、慧海を正しく再評価し、その報告の正確なことを訴えた最初の人は川喜田二郎氏であろう。1953年のマナスル登山隊の科学班としてカリガンダキ流域を調査し、慧海のたどった道を歩いた。そしてその時の著書『ネパール王国探検記』(所蔵図書6)で次のように言う。
『−−−−私は彼のコースをずいぶん歩いたから、身にしみてそれがよくわかる。サングダの部落は、氏の記した所と一致し、十一家屋が住まっていた。いったい、でたらめが書いてあるかどうかは、たとい同じコースを歩かなくても、いくぶんでもこの地方のことを知っている人にはわかるはずだ。それだのに、彼の真価を評価できずに、あるいはことさらにケチをつけて無視しようとする人々が、おひざ元の日本にいたとはまことに情けない。−−−−』」(所蔵図書9薬師義美)
参考資料
- 河口慧海 日本最初のチベット入国者/河口正/春秋社/1961
- 評伝 河口慧海/奥山直司/中央公論新社/2003
- チベット旅行記/河口慧海/永沢和利編/1967/白水社
- 第二回チベット旅行記/河口慧海/1966/河口慧海の会
- チベット(上)(下)/山口瑞鳳/1987/東京大学出版会
- 河口慧海日記 ヒマラヤ・チベットの旅/河口慧海/奥山直司編/2007/講談社文庫
- 河口慧海 −人と旅と業績−/高山龍三/大明堂/1999
- ネパール王国探検記−日本人世界の屋根を行く−/川喜田二郎/光文社/1957
- 鳥葬の国/川喜田二郎/光文社/1962
- 西蔵漂泊−チベットに魅せられた十人の日本人−(上)(下)/江本嘉伸/山と渓谷社/1993
- 新選覆刻日本の山岳名著解題/日本山岳会/大修館書店/1978
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