4.日本山嶽志 高頭 式(たかとう しょく)/1906/博文館/1400頁
高頭式(1877-1958)幼名:式太郎、本命:式、通称:仁兵衛
1877(明治10)年、新潟県三島郡深才村深澤(現長岡市)の豪農、高頭家の長男として生まれる。同郡片貝村の片貝高等小学校で生涯畏敬してやまなかった大平晟先生(1965-1943、日本山岳会名誉会員)に出会い、登山に開眼する。幼年時代病弱だった高頭にとって師大平は自分の生命を甦らせてくれた恩人であった。1896(明治29)年、父の死去にともない19歳で家督を継ぎ、仁兵衛を襲名した。1898(明治31)年、21歳の夏、友人と富士山、同年9月には地元の八海山に登山する。しかし、心配する母から登山禁止令が出され、やむなく登山をやめる。
登山を禁止されて、その不満のはけ口として古今の地理、和歌、詩文集、紀行書を読み、抄録を作成した。それらを基に日本の山岳百科事典とも言える「日本山嶽志」を編纂、1906年(明治9)年に博文館から出版した。
本書発刊の前年に日本山岳会が結成され、高頭はその創立発起人の一人となり、年間千円(1000人分の会費に相当)の寄付を18年間続けるなど会の財政面を強力にバックアップし、その運営を軌道に乗せた。
本書発刊後、再び登山活動に打ち込むようになる。1906(明治39)年、白馬岳、立山、燕岳、槍ヶ岳、1908(明治41)年、北岳、1909(明治42)年、小島烏水らと白峰、明石岳、1916(大正5)年、槍ヶ岳、穂高縦走など、日本アルプスの探検登山の黄金時代に活躍した。日本山岳会「山岳」の発行人を第1号から27号までの28年間を務めた。「日本太陽暦年表」「御国の話」の著作がある。1958(昭和33)年、82歳で逝去。日本山岳会第二代会長、同名誉会員
内容
母親から登山を禁止された高頭が、その不満を癒すために編纂した日本最初の登山百科事典は、大判総クロース、1360頁、地図・写真30枚、木版図表163図という膨大かつ充実した内容で、三千部が印刷され、うち千部は全国の図書館、学校、知友へ寄贈された。編纂のための資料は家蔵本を含めて3万冊、蔵がいっぱいになるほどであったという。
石黒忠悳(子爵、陸軍軍医総監)、三島中洲(漢学者)、建部遯吾(社会学者)、小川琢治(地理、地質学者)、小島烏水(登山家、日本山岳会創立メンバー)による序文だけで⒛頁を費やしている。
内容は索引、登山術、山嶽諸説、日本地質構造概論、本篇(山嶽各記)、山嶽噴火年表、山嶽表の7編から構成されている。付録に山岳会主意書・規則書、日本群島山嶽系統図がある。
“索引”は全国(クナシリ、エトロフから台湾まで)2130座を国別(畿内、山城国など)に分類、さらに称呼別(ア之部など)、字画別(一画、二画など)に配列して読者の便を図っている。
“登山術”の序で編者は次のように言う。
「本邦ニテハ、高山大嶽ニ攀登スルモノ極メテ少ナク、随テ登山術ノ如モ、未ダ深ク之ヲ研究セルモノナシ、故ニ今マ登山ニ関スル知識ノ敷及ヲ図リ、且ツ之ガ研究ノ料ニ資スルトコロアラントシ、先ズ諸書ニ散見セルモノ、二三ヲ採リテ左ニ録ス、請フ大方諸氏、更ニ知ル所アラバ、寄示ヲ惜シムナカランコトヲ」
日本人が未だ登山の知識、経験に乏しいことを認め、人々にその向上、充実への協力を求めている。
小島烏水は“登山に就きて“で「日本は山嶽国といへど、日本国民ほど山嶽の知識に欠乏したるはなかるべし」と慨嘆している。そして先年(1902年)、槍ヶ岳に登った折、猟師からウォルター・ウェストンが穂高周辺を広く歩き回ったという話を聞き、ウェストンの自宅を訪問、彼からヨーロッパにおけるAlpine Clubの活動、機関誌の発行、山小屋の建設など多くの知見を得た。その中でウェストン夫人が登山に同行すると聞き、その健気なる振る舞いに舌を巻き、日本女子もそうあるべきで、そのために日本男子は意識改革をすべきと説く。
烏水は自分の経験と研究から登山の時季、服装、携帯品、天幕、山中の仮屋、飲料水、食料、天候、山頂での注意について詳しく解説し、例えば服装について、
「背廣の洋服に半窄袴(半ズボン)、股引(普通所謂『ズボン下』は尻にあたるところに破れ目なきために、或場合に不便を感ず、和洋服に拘はらず、股引を可とす)ならば登山に最も軽捷なり、且つ洋服は成るべくを多くして品質は不透熱のものを可とす」と具体的である。
“山嶽諸説”と“日本地質構造概論(地質学雑誌から要約転載)”は、下記の30代〜40代前半の当時の第一線で活躍していた錚々たる自然科学者たちの論文集である。
矢津昌永(地理学)、神保小虎(地質鉱物学)、志賀重昂(地理学)、山崎直方(地理・地形学)、野中到(気象学)、石川成章(地質学)、坪井五郎(自然人類学)、佐藤伝蔵(地質学)、原田豊吉(地質学)、小川琢治(地質・地理学)
本書の主体をなす“山嶽各記”は各山の別称、所在、登路、標高(別表)、山容、風俗風習など、入手可能なあらゆる情報を盛り込み、またあるものは文章詩歌、俳句を添えている。収録2130座の先頭をなすのは“北日本−北海道−蝦夷山系−天塩山塊”の“辨花片山(ベンケナヤマ)”で、次のような解説が付されている。
「此山所在詳ナラズ、式(注:高頭のこと)案スルニ、天塩国中川郡北見国枝幸郡ニ跨レル山(土名ベンケナイヌプリ)ニアラザルカ、登路一里」
この情報の出典は「日本地誌提要」(元正院地誌課、明治5‐10年編纂)であることが“山嶽表”に明記されていて、標高700m、地質は斑糲岩としている。所在地は高頭の推察どおり枝幸町と中川町境界の現ペンケ山(716m)であろう。当時は上瀧山ないしはペンケナイヌプリと呼ばれていたのであろう。登路一里はどこからの距離か不明である。上瀧山の名称は現在の地形図には見当たらない。蝦夷山系とは現在は使われない名称であるが、北海道中央部を南北に走る北見・石狩・夕張の各山地と日高山脈を指している。
“山岳噴火年表”は各天皇期に発生した噴火を膨大な資料から拾い出し、まとめたものである。例えば天武天皇(第四十代)十四年には「三月、信濃国浅間山噴火、灰ヲ雨ラシ、草木皆枯ル」とある。この年表に収録された天武天皇から明治天皇まで1200年余りの噴火回数は296回としている。
“山嶽表”は収録した全山岳の標高、出典、地質を一覧表にまとめている。
最後に編集者からとして、本書が新設の「山岳会」の機関誌「山岳」より以前に出版されることを考慮して、本来「山岳」に付されるべき「山岳会設立趣意書・規則書」を付録とすると述べている。本書は日本山岳会にとって特別な文献であり、2005年には創立百周年記念事業の一環として内容を刷新した「新日本山岳誌」(所蔵図書3)が刊行された。これには3200座の情報が収められている。
参考文献
- 日本風景論 志賀重昂/政教社/1894
- 日本山水論 小島烏水/博文館/1907
- 新日本山岳誌 日本山岳会/ナカニシヤ出版/2005
- 日本山岳会百年史 日本山岳会/茗溪堂/2007
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西蔵旅行記(上)(下)/河口慧海/1904 |
日本山水論/小島烏水/1907 |