4.日本山水論 小島烏水(こじまうすい)/1907第三版/博文館/ 357頁
小島烏水(1873-1948)、本名久太、銀行家、登山家、文筆家、浮世絵研究家
高松市に生れ、のち父の勤務の関係で横浜へ移住。明治25(1892)年、横浜商業学校卒業後、横浜正金銀行入行(のちの東京銀行)。早くから文筆に興味を持ち学生時代は雑誌「学燈」を編集、卒業後は勤務のかたわら文芸雑誌「文庫」記者として活躍、明治30年代の青年文壇にあって文芸批評、社会経済批評、山岳紀行を精力的に発表。
明治27年に発行された志賀重昂「日本風景論」の未知の高山の紹介記事に触発さえて、当時ほとんど知られていなかった中部山岳に足跡を印した。明治32年、かねてより念願であった本州縦断の山旅に出て、保福寺峠、稲倉峠、諏訪湖を経て木曽街道を下っている。翌年には高山から乗鞍岳に登っている。明治35年8月、岡野金次郎と共に白骨温泉から霞沢を越えて槍ヶ岳に登り、この時の紀行「鎗ヶ岳探検記」を「文庫」に連載して当時流行し始めた登山熱を高揚させた。明治36年、「日本アルプス 登山と探検」の著者、W.ウェストン師と偶然のことから知り合い、彼の助言をうけて明治38年10月、仲間7人と共に日本山岳会(当初はイギリスのアルパインクラブに倣って単に山岳会と云った)を創設して初代会長となる。
「日本アルプス」全四巻を刊行後の大正4(1915)年、正金銀行サンフランシスコ支店ロスアンゼルス分店長として渡米、のちサンフランシスコ支店長に昇格、昭和2(1927)年まで11年余アメリカに在勤した。滞米中にはヨセミテ渓谷、シャスタ、マウンテン・フッド、ベーカー峰などに登る。「氷河と万年雪の山」(1932年)は烏水のアメリカ生活がもたらした記念碑的著作である。
浮世絵、西洋版画の収集・研究のパイオニアとしても知られ、著書に「浮世絵と風景画」「江戸末期の浮世絵」がある。収集品の内900点余りは横浜美術館に収蔵されている。1948年12月23日没、74歳
内容
初版は明治38(1905)年、烏水32歳の出版、文章は文語体の美文調で書かれている。この時点では烏水は言文一致体にまだなじんでいなかったためと思われるが、難解な語句を用いた文語体を読みこなすのはなかなか骨である。参考文献
本書以前に4冊の単行本の出版、文芸批評、社会評論、エッセイ、山岳紀行、啓蒙的な山岳論の寄稿など、銀行員としての業務をこなしながら余技として多彩な文芸活動をしている。
本書は当時まだほとんど知られていなかった中部山岳へ足を踏み入れた経験を裏付けとした山岳の啓蒙書となっている。様々な観点から日本の自然のすばらしさを説明する第二章“日本山嶽美論”を中心に、第一章から第十二章で山水の意義、登山論、日本山系、登山の準備、森林美、渓谷の美、渓谷の生物について解説している。従来の山水趣味の紀行文から脱して、科学的知識も加えながら独自の山岳文学の道を開こうとしている点で特筆すべき内容となっている。第三章”登山論”で次のように述べている。
「登山いかに筋骨を鍛錬するも、いかに冒険の気象を涵養するも、いかに忍耐力を醞醸するも、いかに自然に親しむも、茫焉として雲烟過眼視せば、其獲るところ児童の遊戯に比して甚だしく多きを加へざるなり、旅行殊に登山に於て、特殊の便宜あるは、学術研究に資するに在り、−−−−チンダル氏の如き、フンボルト氏の如き、グレー氏の如き、フッカー氏の如き、皆親しく高山を跋渉して、各専門学科に他念なかりき」
第四章“日本の山系論”の千島及び北海道の山岳では北方四島の自然を詳述したのち、最北端のアライト島について、
「アライト島は、島形既に洋中より筍起せる山、山態園錘形を成し、上部三分の一は恒に白雪を被ぶる、蓋し千島列島の最北端に在り、寒帯に入ればならむ」
伊藤秀五郎、小森五作が千島列島最高峰アライト山(2339m)に初登頂したのは、本書出版から20年後の昭和2(1926)年であった。
第五章“登山準備論”は、装備、食料、幕営の方法、天候などについて詳しく述べており、「日本風景論」に比して、槍ヶ岳登山をするなど実践的な登山家であった烏水の解説は実際的である。
第八章“日本の高山深谷を跋渉したる外国人及び其紀行”はW.ウェストンとの衝撃的な出合いについて述べている。槍ヶ岳登山の折、案内の猟師から西洋人が槍ヶ岳へ登った話を聞く。この西洋人がウェストンであることが偶然の機会から分かり、横浜の自宅を訪問する。この時のウェストンの示唆により日本山岳会を創設した経緯を詳しく記述している。
「やがて隣れる書室より、出で来たりたる紳士こそ『日本アルプス』の著者なれ、英国人としては寧ろ短躯の方なるべけれど、肩胛濶くして肉緊り、骨勁く、その方形の顔に、英人特有の剛毅なる硬性を眉端口邊に皴描したれど、眼細く顎肥えて、半面宗教家たる忍辱相を示す、過般みまかりたる探検家スタンレイ氏、亦短躯にして温貌なりしと聞く、おもふに同型ならむか」烏水は明治32年〜35年に3期に分けて本州横断の山旅を行っているが、本書にはその内のまだ鉄道が開通していなかった木曽街道を歩いた時の紀行が掲載されている。烏水は木曽川の美しさを称えて次のように記す。
「木曽川の水の色は、何とも口に出ぬ、透明無色の水も、分子が厚く累なれば、青色を構成すると聞いたが、その青色を染め出した水が、岩の上を奔流するので、上流は暗澹たる安山岩が多く、中流以下は雪白の花崗岩ばかりで、水の色が川底の岩に配して変化するが中にも、純粋の瑠璃色を見るのが、實に絶絶奇と評すべきである」
小島烏水全集 全14巻/編集近藤信行ほか/1979〜1986/大修館
日本アルプス1〜4 小島烏水/1975/大修館(復刻版)
アルピニストの手記 小島烏水/1975/三笠書房(復刻版)
日本アルプス登山と探検 W.ウェストン/岡村精一訳1933/梓書房
小島烏水‐山の風流使者伝 近藤信行/1978/創文社
山岳第1年1号〜3号 日本山岳会/1906
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日本山嶽志/高頭式/1906 |
山水無尽蔵/小島烏水/1906 |