10.日本南アルプス 平賀文男(ひらがふみお)/1929/博文館/363頁
平賀文男(1895-1964) 登山家、政治家
山梨県穂坂村(現韮崎市)に生れる。甲府中学、目白中学を経て、1917(大正6)年、早稲田大学政経学部を卒業。1920(大正9)年、白馬岳から本格的に登山を始める。南アルプスは、早くからウェストンはじめ登山者や地質学者がかなり入っていたが、アプローチが長く不便だったこともあり、北アルプスのように一般には開けてはいなかった。平賀は南アの登山を開発し、一般登山者に門戸を開くべく、自ら南アに入り込んでいった。1924(大正13)年、甲斐山岳会を設立。1925(大正14)年3月に野呂川を遡行、大樺沢からの北岳登頂は、京大隊に次ぐ積雪期第2登であり、この登頂をを初めとして冬期の南ア諸峰にパイオニアとして足を運んだ。1926(昭和元)年、当時ほとんど唯一無二であった南アの案内書「南アルプスと甲斐の山々」を発刊する。郷里にあっては農業を営むかたわら、村会議員、県会議員を務め、戦後は穂坂村村長、韮崎市文化協会会長、山梨県山岳連盟顧問などを歴任、地方の行政と文化の発展に尽くした。
内容
本書は、1926(昭和元)年発刊の「南アルプスと甲斐の山々」の増補改定版である。平賀は序で「南アルプスと甲斐の山旅を志す人々の一資料たらしむるための執筆に他ならず」と発刊の目的を述べ、世に知られていない南アの案内記だと強調している。
「野呂川の奥」「大井川の奥」「遠山川の奥」「寸又川の奥」「寸又川の上流」「気田川の上流」は、甲斐駒、仙丈、白峯三山、地蔵、塩見などの登頂記であり、大正時代の南アの姿を知ることが出来る。 ついで1月から12月まで季節を追って、転付峠、三伏、白峯、笊ヶ岳、赤石、鋸、鳳凰、八ヶ岳、金峯、丹波山村、大菩薩嶺、茅ヶ岳の1村11峯の紀行である。「3月白峰と駒」では3人の人夫をつれて夜叉神峠を越えて、3月28日広河原から北岳に登頂する。「雪白の白峯。幾多の登山家が渇仰し且畏敬した冬の白峯山頂はつひにせいふくされた、」と積雪期初登頂を信じて快哉を叫んだ。その足で仙丈、甲斐駒へ登るべく北澤小屋へ来て見ると、三高の桑原武夫、西堀栄三郎、四手井綱彦らが泊まっており、彼らが6日早く22日に積雪期北岳初登頂を果たしていたことを知る。しかし、平賀は「暗黒であった冬の南アルプスの門戸は彼らによってついに開かれた」、とその成功を謙虚に称えている。
最後に「奥秩父連嶺」ほか8編の1日行程の紀行を紹介している。
山岳館所有の関連蔵書
赤石渓谷 平賀文男/1933/隆章閣
北岳・赤石と南アルプス 今西錦司・井上靖監修/1984/ぎょうせい
南アルプス 1988/信濃毎日新聞社
南アルプス 柏瀬裕之ほか/1997/白水社
Tweet| |
立山群峯/冠松次郎/1929 |
山へ入る日/石川欣一/1929 |