14.山 研究と随想 大島亮吉(おおしまりょうきち)/1930/岩波書店/492頁
大島亮吉(1899-1928) 登山家、著述家
東京に生れる。慶応商工学校を経て、1919(大正8)年、慶応義塾大学予科に入学する。1924(大正13)年、慶応義塾卒業、翌年兵役へ、1926(大正15)年3月除隊。
1917(大正6)年、中学生ながら慶応義塾山岳会に入会を許され、同年7月中房温泉から燕‐槍の縦走を果たし上高地に下る。槙有恒リーダーのこの山行が、大島の北アルプスとの出会いであった。大島の数多い山行の中で特筆すべきは、1922(大正11)年の槍と1924(大正13)年の穂高岳のスキー登山である。二つとも積雪期初登頂であった。北海道にも足を延ばし、その時の紀行2編は登高行に発表された(内容参照)。1928(昭和3)年3月25日、積雪期の槍・穂高縦走を目指し、前穂北尾根を登攀中に墜落死した。28歳の若さであったが、その足跡は大正12年1月、25歳で遭難死した板倉勝宣と共に大きい。
大島は、兵役を含む僅か7年ほどの間に、登高行(慶応大学山岳部)、山とスキー(山とスキーの会)、山岳(日本山岳会)に数多くの論文、紀行、随想を発表している。また、優れた語学力で諸外国の登山に関する文献を研究し、新知識を日本の登山界に紹介した。遭難後、これらは友人達によりまとめられ、「山‐研究と随想」(1930岩波書店)「先蹤者‐アルプス登山者小伝」(1935梓書房)として刊行された。
内容
本書は、「登高行」「山とスキー」「山岳」に発表された研究、紀行、随想を大島の遭難の2年後に、友人達がまとめて刊行したものである。「序」は、大島の慶応義塾山岳会の先輩であった槙有恒が書いている。槙は「君は全く自己の為すべき道に精進して男々しく戦って行った。而してその道に豊かな天稟の才能を以て獨自の跡を深く刻み込んでいった。」とその才能を愛惜している。
研究論文は、雪崩に関するもの4章、欧州アルプスの山名に関するもの1章がある。大島はすぐれた語学力を生かして海外の文献多数を読破、雪崩の発生原因、対処法を科学的観点から考察している。「雪崩の知識に関する一考察」では、日本では雪崩に関する価値ある論文は見当たらないとして、76種の外国文献を列挙し、読者に今後の雪崩研究を促している。
紀行に関するものは4章からなり、その一つ「石狩岳より石狩川に沿ふて」は、1920(大正9)年7月21日〜31日、クァウンナイから入山し、トムラウシ、石狩岳、ユニ石狩岳を登り、石狩川を下った記録で(註)、森に、沢に、函に原始の響を漂はせる紀行文である。大島は大箱に到着し、それをのぞいた時の感動と恐怖を次のように記している。
「ようやく『箱』へ到達したのだ。早速荷物を下ろして、深い水深の岩壁をへずり乍らその『箱』の入り口から恐々覗いてみて、思わず身体を竦ませた。その覗き込んだ吾々の眼底の網膜に映像した景観こそ全く形容の出来ないものだった。―中略― 漸く少時した後『大箱』『大箱』とお互ひ顔見合わせて低声に囁きかはした。」「一種の凄愴な鬼気に誘はれて、水魔の隠れ家の様な処にも想われる。」
その風景は当時の大島の目には恐怖と映じたのである。トンネルで一瞬にして通り抜ける昨今とは隔世の感がある。
「北海道の夏の山」は、1923(大正12)年7月中旬10日あまりの然別川、音更川の沢歩きの記録である。沢歩きを楽しみ、尾根のブッシュに悩まされた山行を、ほかの紀行と同じように美しい文章で綴っている。最後に北海道の山について次のように述べている。
「私は北海道の山は大体に於いて好きだ。どこが好きだと言われたら、山に人気が少なくて、原始的であるところと、その針葉樹の深林とその中を流れている川とが一番好きだと答える。それからもうひとつ好きなのは、アイヌの山にいるやつの生活をみることと、アイヌ語の美しい山の名や川の名だ。」
「穂高岳スキー登山」は、1924(大正13)年春の奥穂、前穂積雪期初登頂の記録である。他に5章の随想が収められている。大正13年に書かれた「涸沢岩小屋のある夜のこと」では、大島と友人らが山での死について重い調子で語っている。
山岳館所有の関連蔵書
先蹤者ーアルプス登山者小伝 大島亮吉/1935/梓書房(註)
登山史上の人々 大島亮吉/1968/三笠書房
登高行 第2,5,6,7号 慶応義塾大学山岳部
山とスキー 13〜91号/山とスキーの会
山岳 第20,21年/日本山岳会
大島亮吉全集 全5巻/本郷常幸他編/1970/あかね書房
伊藤秀五郎は、大島のこの紀行について次のように述べている。(北海道の山旅「北の山の精神的系譜」/ぷらや新書/1981/沖積舎)
「『石狩岳より石狩川に沿ふて』は、北大の連中にも驚異であった。北大はスキー登山では、他の大学に比べて一日の長があったが、夏山では暑寒別と夕張岳のほかは、大雪方面に2回ほど入った程度でしかなかったからである。大島さんのこの一文に刺激されて、(山岳部の中に)北海道の夏山を再評価する機運が醸成されたと言って良い。」
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