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47 樹林の山旅 森本次男(もりもとつぎお)/1940/朋文堂/308頁


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表紙
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奥美濃概念図
奥美濃概念図


森本次男(1899-1965) 登山家、教諭
 群馬県前橋市に生まれる。旧姓猪谷、スキーの猪谷六合雄は従兄弟、父は乃木大将の副官を勤めた軍人。京都府立三中(現山城高校)を経て、1922(大正11)年、京都高等工芸学校色染科(現京都工芸繊維大学)を卒業。同年6月、兵庫県立神戸商業学校教諭、1923(大正12)年、京都市立第二商業学校(現京都市立西京高校)に任官、定年まで教壇に立つ。勤務の傍ら、北山、奥美濃など近畿の山を中心に登山を行い、また後輩の指導に尽くした。1935(昭和10)年、京都北山に麗杉荘を建設、“麗杉荘の会”を結成。1936(昭和11)年6月、登山雑誌「関西山小屋」(朋文堂版)を発行すると共に、関西山小屋倶楽部・京都倶楽部を創立。1947(昭和22)年、国民体育大会復活を機会に京都山岳協会を結成し、会長(のち京都府山岳連盟と改称して会長今西錦司、副会長森本次男)。ゆかりの麗杉荘前庭に佐藤久一朗作レリーフ建立。
 1938(昭和13)年には、ガイドブック「京都北山と丹波高原」を出版、多くの登山者に利用された。他に「山と漂泊」(1940、朋文堂)「山の言葉」(1942、朋文堂)「木曽路の旅」(1962、山と渓谷社)の著書がある。

内容
 「奥美濃は関西の隠れた登山地帯である」と、秘境奥美濃のパイオニアである筆者は「はしがき」で述べている。能郷白山の1617mが最高峰で、大方は1200〜1600mの標高からなり、そのため登山者に物足りなく思われたのか、あまり注目されてこなかった。奥美濃とは、越前と美濃を分ける能美山脈、近江と美濃を境する伊吹山脈およびそれから派生するいくつかの支脈を含めて言う。
 本書は19編の紀行からなるが、著者が序で「紀行的案内書」と述べているように、各編に行程を入れ、また略図を多く取り入れている。

 「白き山脈」は、冬の能郷白山に初めて登った時の紀行である。この山域は高さは無いが、深さがある。頂上からその深さを見たときの感動を次のように記す。
「ここは美濃の最高峰である。四面は何処を見てもなつかしい山の姿である。そしてその山々は私が踏んで来た時の思い出を再びこの頂に運んできてくれるのである。西は飯盛山から若丸山、そしてこの尾根は遠く美濃のジャンダルム冠山と冠峠を見せて遥かに金草嶽が聳えている。金草嶽から江美国境の山脈笹ヶ峰・美濃俣丸、その前に釈迦嶺画大きく裾を広げて、南は金糞嶽から五蛇池山・蕎麦粒山、貝月山は遠く白い雲の浮いた青空の下の小さく輝いている。再び北を向いて白山を中心とした山塁の景観を述べるのは止めよう。私は白山神社の社前に小一時間もこの景観を楽しんだ。」

 聞きなれない面白い山名や地名が次々と出てくるが、「お客さんもしっとるじゃろうが、私たちの御祖先は平将門じゃ、えらい人だったさうな」(「水上の村々」)で始まる平家落人部落の言い伝えのある温見部落の古老の話が面白い。

山岳館所有の関連蔵書
京都北山と丹波高原/1938/森本次男/朋文堂
復刻 樹林の山旅/1978/森本次男/サンブライト出版
 
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