8. 中央亜細亜探検記/スウェン・ヘディン/岩村忍訳/1938/冨山房/262頁 原題:Through Asia/1898/Sven Hedin
スウェン・ヘディン(1865-1962) 地理学者、探検家
ストックホルムに建築士の父の二男として生れる。1875-85年、ストックホルムのベスコフ私立学校に学ぶ。15歳の時、帆船ヴェガ号で北東航路の突破に成功した探検家ノルデンショルドに影響され、極地への探検を強く意識するようになる。ベスコフ校卒業後の1885年、カスピ海沿岸のバクーへ家庭教師として赴く。家庭教師の契約が終ると、バクーから南へアジア旅行を敢行、この旅行によりアジアの魅力に取りつかれる。1886-88年、ストックホルム単科大学、ウプサラ大学で地理学を学んだのち、1889年、ベルリン大学のフォン・リヒトフォーフェン教授(1833-1905)の門下生となり、地理学・地質学を学ぶ。リヒトフォーフェンとの親交は彼の死に到るまで続いた。
ヘディンは生涯予備調査2回、本格調査5回の中央アジア探検を行なった。本格調査の第1回は1893-97年のパミール高原、タクラマカン、チベット踏査(8.「中央亜細亜探検記」参照)、第2回は1899-1902年のタリム河を下り、楼蘭を発見し、中央アジアを横断、第3回は1906-08年のチベットを2回横断しトランス・ヒマラヤを発見した旅(15.「西蔵征旅記」参照)である。以上で個人での探検は終わり、以降は調査団を率いての探検であった。第4回は1927-33年、スェーデン=ドイツ=中国合同の遠征隊「西北科学考査団」を組織してゴビ砂漠の総合調査を行なった(27.「ゴビ砂漠横断記」参照)。第5回は1933‐35年、中国南京政府の依頼を受け、北西自動車遠征隊を編成し、帰化城からウルムチまでの自動車ルートの開拓調査を行なった(28.「彷徨へる湖」参照)。
ヘディンの7回、50年にわたる中央アジア探検によって、内陸アジアの多くの謎が解明された。“彷徨へる湖”ロブ・ノールの発見、古代王国の都市楼蘭の発掘、タリム川全水路の解明、チベット内奥部、特にトランス・ヒマラヤ(ガンディセ山脈)の発見など、その探検は多くの輝かしい成果を収めた。
第1次大戦(1914-18)後、自国やドイツを擁護するような発言をするようになってから、ロシア、英国、フランスの地理学会はヘディンを名誉会員から除籍し、フランス政府は彼に授与したレジオン・ドヌール勲章を取り外した。さらにナチスとの接触が、第2次大戦後、ナチス信奉者という烙印を押させることになって、西欧ではなるべくヘディンに触れたがらないようになった。しかし、ヘディンは決してナチス信奉者でも同調者でもなく、事実は中立国スウェーデンを戦禍から守るために奔走した人物であり、ナチス寄りというのは事実を知らぬ、作られた伝説であった(金子民雄 ヘディン伝)。
ヘディンは日本を数回訪問した。最初の訪問は1908年、3回目のチベット探検直後に、ボンベイ経由で来日、明治天皇に拝謁し、勲一等瑞宝章を授与され、また、スウェーデン・日本協会を設立するなど、親日派であった。しかし、第2次大戦勃発後は日本の大陸侵略を批判、日本の敗北を予告していた。
内容
本書は、ヘディンの第1回中央アジア探検旅行(1893-1897)の報告書(スウェーデン語)を圧縮した英語版「Through Asia」(1898年発行)の翻訳である。原著にあるパミール高原の科学調査、ムスターグ・アタ(7,546m)試登と氷河調査、旅の最後のチベット高原横断は省略されている。戦後、ドイツ語完訳本から「アジアの砂漠を越えて」2巻(横川文雄訳)が出版されている。
前編「タクラマカンの横断」(第1章〜15章)と後編「ロブ・ノールへ」(第17章〜25章)からなる。本人の味わいのある多くのスケッチが挿入されている。新書版で簡素な体裁であるが、ヘディンの迫真的な記述(翻訳のうまさも相俟って)には、年老いて読んでも若かった頃と変わらず、引き込まれる本である。
前編はかつてヨーロッパ人が一度も足を踏み入れたことがなかったタクラマカン沙漠横断の報告である。ヘディンは1895年4月10日、ヤルカンド・ダリア(ダリア=河)とホータン・ダリアの間の沙漠を横断すべく、ヤルカンド河畔のメルケットを従者4名、ラクダ8頭、犬2匹をひきいて出発する。しかし、このキャラバンには悲惨な結果が待ち受けていた。10日分持っているはずの水が、従者の怠慢から4日分しかなかったのである。ヘディンがこの事実に気付いたとき、一行は既に沙漠の奥深く突き進んでいた。水がなくなり、ラクダは壊滅、従者2名が死亡する。ヘディンは絶望的な彷徨をつづけるが、5月5日、ついにホータン河岸の森に到達、這ってこの森を進み、偶然にも水溜りを見つけて九死に一生を得る。
後編の「ロブ・ノールへ」は、タクラマカン沙漠での遭難の翌1895年1月14日、ホータンから従者4名、ラクダ3頭、ロバ2頭をひきいてホータン・ダリアに沿ってタクラマカン沙漠をタリム・ダリア目指して進み、ロブ盆地に達するまでの記録である。ホータンを出発してから10日目の1月24日、沙漠に広大な遺跡、いわゆるダンダン・ウィリク(象牙の家々の意)を発見する。 「この廃墟の発見は私の亜細亜旅行中に於ける最も予想しなかった発見の一つであった。荒涼たる戈壁(オビ)の沙漠の深奥部、地球上で最も荒れ果てた地域の只中に数千年間風雨に曝されて曾て文明が栄えていた都市が深い眠りに落ちている、とは誰が想像し得たであろうか。------------」
さらに沙漠を北へ進んだヘディンは、2月2日、二つ目の遺跡カラドゥン(黒い丘の意)を発見する。そして水の欠乏に苦しみながら、ついにホータン出発以来41日目でタリム・ダリアに到達する。タリム・ダリアを下ってロブ盆地の詳細な調査を行ない、恩師フォン・リヒトフォーヘンのロブ湖の移動に関する説が正しいことを証明する。
本書はここで終っているが、ヘディンはこの後も東北チベットへの旅を続け(15.「西蔵征旅記」参照)、西寧から凉州を経て包頭から北京に入ったのは1897年3月2日であった。スウェーデン出発後、3年半にわたるヘディン最初の中央アジア探検行であった。
山岳館所有の関連蔵書
ヘディン著作その他関連図書
- Transhimalaja- 1,2/1920/ドイツ
- The Wandering Lake /1940/イギリス
- ゴビ砂漠横断記/隅田久尾訳/1943/鎌倉書房
- ゴビの謎/福迫勇雄訳/1940/生活社
- 彷徨へる湖/岩村忍・矢崎秀雄訳/1943/筑摩書房
- 赤色ルート踏破記/高山洋吉/1939/育成社
- 探検家としての世の生涯(内陸アジア探検史)/小野六郎訳/1942/橘書店
- 西蔵征旅記/吉田一郎訳/1939/改造社
- 中央亜細亜探検記/岩村忍訳/1938/冨山房
- 独逸への回想/道本清一郎訳/1941/青年書房
- 熱河/黒川武敏訳/1943/地平社
- リヒトフォーフェン伝/岩崎徹太訳/1941/
- 西蔵探検記/高山洋吉訳/1939/改造社
- ヘディン探検紀行全集全15巻、別巻2巻/監修:深田久弥、榎一雄、長沢和俊/1979/白水社
- ヘディン素描画集/ヘディン文・モンデル編/金子民雄訳/1980/白水社
- ヘディン 人と旅/金子民雄/1982/白水社
- ヘディン伝 偉大な探検家の生涯/金子民雄/1972/新人物往来社
- ヘディン蔵書目録(山書研究25号)/金子民雄編/1981/日本山書の会
- その他中央アジア関連多数
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