9.ヒマラヤ探査行 パウル・バウアー 小池新二訳 1938 河出書房
原題:Auf Kundfahrf im Himalaya -Siniolchu und NangaParbato/1937/Paul Bauer
パウル・バウアー(1896-1990) 公証人、登山家
ライン河畔クーゼルに生れる。若い頃からアルプスの山々に親しむが、第1次世界大戦に従軍し、イギリスで捕虜生活を送ったのち、応召から5年後の1919年帰国する。敗戦による精神的な痛手を癒す為、アルプスの高峰に仲間と共に積極的に立ち向かう。1928〜29年、ティルマンら友人3人とカフカズに遠征し、シハラ(5068m)、ディフタウ(5198m)に登頂、ゲストラ(4860m)〜リアルバー(4355m)間の縦走を行う。カフカズでの経験に力を得て、翌1929年、ババリア出身の登山仲間8人を率いてカンチェンジュンガに北東稜から挑戦するが、悪天候に阻まれて7,200mで撤退。1931年、再度北東稜から挑戦し、隊員のハーマン・シャラーとポーターが墜落死するも果敢に登攀を継続、しかし、北稜への急斜面が雪崩の危険があって越えられず、7,750mで撤退した。1932年、オリンピック・ロスアンゼルス大会芸術競技の文学部門で、1931年のカンチェンジュンガ遠征の記録“Um den Kangtsch”により金メダルを獲得する。1936年、ナンガ・パルバット遠征の訓練を目的の1つに、カルロ・ヴィーンらを率いてシッキムに入り、シニオルチュー(6,887m)に初登攀、ネパール・ピーク(7,168m)にも登頂した(本書)。1937年、ナンガ・パルバート第3次遠征隊のヴィーン隊長以下総勢16名の雪崩による大遭難の救援に赴く。1938年、ナンガ・パルバット第4次隊を編成して遠征、C4(6,180m)に飛行機で物資を投下するという新作戦を展開するが、悪天候に阻まれて7,300mで撤退した。
第2次大戦中、バウアーはアルプス山岳部隊の将校、そして1943年からは山岳部隊2,000名の先頭に立って戦った。
内容
2部構成になっており、前半はシッキム探険紀行「シニオルチュー1936年」、後半は戦前のヒマラヤ登山史上まれに見る悲劇となった第3次ナンガ・パルバット遠征記「ナンガ・パルバット1937年」である。
「シニオルチュー1936年」の前置きでバウアーは、シッキム探険の意図を次のように述べている。
「1929年、1931年(註:カンチェンジュンガ遠征)に集めたあらゆる経験を、後進の僚友ヴィーン、ヘップ、ゲットネルに伝えて、将来彼等がドイツヒマラヤ探検隊を率いることが出来るようにしたいという明確な意図の下に、その指導を引き受けたのである。」
地域はカンチェンジュンガ周辺、特にシニオルチュー(6,887m)初登頂を目指した。シニオルチューはD.W.フレッシュフィールドが「Round Kangchenjunga」(1899)で紹介している山景の「世界で一番美しい山」である。1936年8月、モンスーン真っ最中にゼム氷河に入り、グリーンレークにBCを建設した。直ちにシニオルチューの登路偵察を行うが、湿潤深雪のために進めず、一時撤退する。転進してトゥインズ東峰(7,004m)およびテントピーク(7,365m)を試みるが何れも不成功、しかしネパール・ピーク(7,163m)に初登頂する。
目標のシニオルチューには9月19日から行動を開始、9月23日、深雪に苦しみながらついにヴィーンとゲットナーが初登頂に成功する。帰途、1931年の遠征で遭難死したヘルマン・シャラーの墓を訪ね、ヒッドン氷河、バッサラム渓谷の探査を行う。「結末」でバウアーはこの遠征を次のように総括している。
「これを以って1936年のシッキム探査行は首尾よく終わりを告げたのである。我々は満足することが出来た。シニオルチューの登攀は現実のものとなったし、ヅムトゥウ地域ではリクロその他の5,000m級に成功した。又そこでは6つの新しい氷河に踏み入り、2つの重要なシャルテへ登った。ネパール・ピークの上にも立ち、シムブーの登頂にも成功した。着た山脈では6,000m級4座を征服した。その他にも未だ多くのことを試みた。その上ヴィーンとヘップとは、気象学的・地理学的領域で無数の観察を集めることが出来た。併し、我々は何よりも来るべきナンガ・パルバット探検のために確固たる基礎を築いたのであった。」
後半の「ナンガ・パルバット1937年」は、雪崩の為に7名の隊員と9名のシェルパが犠牲となった第3次遠征隊の記録である。カルロ・ヴィーン隊長、ギュンテル・ヘップ、アドルフ・ゲットネルの3名は、バウアーがドイツ海外遠征の中核と期待し、前年のシッキム探検隊に参加した隊員であった。
本書は登攀隊員全員が死亡した為、残された隊員たちの日記を基に、医師のウルリッヒ・ルフトがまとめたものである。それにバウアーが「前置」と「救援」の項を補足している。
医師のルフトが6月18日、食料と郵便物を持ってC4に着いた時にその悲劇は発見された。
「目の前に恐ろしい広がりを持った雪崩が、長さ400m、幅150mほどの面積に巨大な塊を振り注いでいるのだ。どこを見てもキャンプは影も形もない。何千立方米という氷がその上に滑ってきているのであった。--------何もかも一緒くたにビクともしないコチコチの塊だ。7名の登山家と9名のシェルパ人夫は悉くこのデブリの下に眠っているに相違なかった。」
本国でこの知らせを受けたバウアー、ベヒトールト、クラウスの3人は救援の為に飛行機でギルギットへ赴く。7月10日から発掘作業を開始し、5人の隊員の遺体と日記を含む多くの遺品を収容した。シェルパの遺体はサーダーの依頼によりそのままに置かれた。
しかし、第2次大戦に向って高まるナチ・ドイツのナショナリズムは、国民期待の下に翌1938年、1939年と2度に亘り遠征隊を送ったが、何れも不成功に終った。1939年隊のペーター・アウフシュナイダー隊長とハインリッヒ・ハーラーは、帰国の途次第2次大戦が勃発、インドでイギリス官憲に身柄を拘束される。やがて2人は収容所を脱走、苦心してチベットへ潜入、1950年までそこに止まるという数奇な運命を辿った。
ナンガ・パルバット初登頂は、戦後1953年、独墺登山隊のヘルマン・ブールによって成された。
山岳館所有の関連蔵書
バウアーの著作その他関連図書
- Im Kamph um den Himalaja/1929/ドイツ
- Um den Kantsch! /1933/スイス
- ヒマラヤに挑戦して/伊藤愿訳/1931年/黒百合社
- ウム・デン・カンチ/慶応山岳部有志訳/登高会/1936
- ヒマラヤ探査行 ナンガ・パルバット攻略/小池新二訳/1938/河出書房
- カンチェンジュンガ登攀記/長井一男訳/1943/博文館
- カンチェンジュンガをめざして/田中主計・望月達夫共訳/1957/実業之日本社
- ナンガ・パルバット登攀史(ヒマラヤ名著全集)/横川文男訳/1969/あかね書房
- The Kangchenjunga Adventure/F.S.Smythe/1930/イギリス
- Kanchenjunga/John Tucker/1955/ロンドン
- Kangchenjunga The Untrodden Peak/C.Evans/1956/イギリス
- Round Kantschenjunga/D.W.Freshfield/1979/ネパール
- Nanga Parbat 1953/K.H.Herrligkoffer/1954/ドイツ
- カンチェンジュンガ その成功の記録/C.エヴァンス/島田巽訳/1957/朝日新聞社
- カンチェンジュンガ登頂/G.O.ディーレンフルト/横川文雄訳/1956/朋文堂
- カンチェンジュンガ一周(ヒマラヤ名著全集)/フレッシュフィールド/薬師義美訳/1969/あかね書房
- カンチェンジュンガ北壁・無酸素登頂の記録/山学同士会/1980
- カンチェンジュンガ縦走/日本山岳会カンチェンジュンガ縦走隊/茗渓堂/1986
- カンチェンジュンガ西・東/山森欣一編/日本ヒマラヤ協会/1993
- ヤルンカン/京都大学学士山岳会/1975/朝日新聞社
- ヤルンカン遠征隊報告書/京都大学学士山岳会/1973/朝日新聞社
- 残照のヤルンカン/上田豊/1979/中公新書
- ヒマラヤに挑戦して:ナンガ・パルバット1934/フリッツ・ベヒトールト/小池新二訳/1937/河出書房
- ヒマラヤに挑戦して ナンガ・パルバット1934年登攀/フリッツ・ベヒトールト/小池新二訳/1937/河出書房
- ナンガ・パルバットの悲劇/長井一男/1942/博文堂
- ある登攀家の生涯/カール・メルクル/長井一男・松本重男共訳/1943/昭和刊行会
- 八千メートルの上と下/ヘルマン・ブール/横川文雄訳/1974三笠書房
- ナンガ・パルバット単独行/ラインホルト・メスナー/横川文雄訳/1981/山と渓谷社
- ナンガ・パルバット回想 闘いと勝利(山岳名著選集)/ヘルリッヒ・コッファー/岡崎祐吉訳/1984
- チベットの七年/ハインリッヒ・ハーラー/近藤等訳/1955/新潮社
- 裸の山 ナンガ・パルバート/ラインホルト・メスナー/平井吉夫訳/2010/山と渓谷社
- 他カンチェンジュンガ、ナンガ・パルバット関係蔵書多数
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8. 中央亜細亜探検記/ヘディン/1938 |
10. 婦人記者の大陸潜行記−北京よりカシミールへ/マイアール/1938 |