4.ヒマラヤに挑戦して パウル・バウアー 伊藤愿訳 1931年 黒百合社
原題:Im Kamph um den Himalaja/1929/Paul Bauer
パウル・バウアー(1896-1990) 公証人、登山家
ライン河畔クーゼルに生れる。若い頃からアルプスの山々に親しむが、第1次世界大戦に従軍し、イギリスで捕虜生活を送ったのち、応召から5年後の1919年帰国する。敗戦による精神的な痛手を癒す為、アルプスの高峰に仲間と共に積極的に立ち向かう。1928〜29年、ティルマンら友人3人とカフカズに遠征し、シハラ(5068m)、ディフタウ(5198m)に登頂、ゲストラ(4860m)〜リアルバー(4355m)の縦走を行う。カフカズでの経験に力を得て、翌1929年、ババリア出身の登山仲間8人を率いてカンチェンジュンガに北東稜から挑戦するが、悪天候に阻まれて7,200mで撤退。1931年、再度北東稜から挑戦し、隊員のハーマン・シャラーとポーターが墜落死するも果敢に登攀を継続、結局北東稜の急なリッジを越えられずに7,750mで撤退した。1932年、オリンピック・ロスアンゼルス大会芸術競技の文学部門で、1931年のカンチェンジュンガ遠征の記録“Um den Kangtsch”により金メダルを獲得する。1936年、ナンガ・パルバット遠征の訓練を目的の1つに、カルロ・ヴィーンらを率いてシッキムへ入り、シニオルチュー(6,887m)に初登攀、ネパール・ピーク(7,168m)にも登頂した。1937年、ドイツのナンガ・パルバート第3次遠征隊カルロ・ヴィーン隊長以下隊員7名、シェルパ9名の遭難の救援に飛行機で赴く。1938年、ナンガ・パルバット第4次隊を編成して遠征、C4(6,180m)に飛行機で物資を投下するという新作戦を展開するが、悪天候に阻まれて7,300mで撤退した。
第2次大戦中、バウアーはアルプス山岳部隊の将校、そして1943年からは山岳部隊2,000名の先頭に立って戦った。1951年、本書訳者の伊藤はミュンヘンで公証人事務所を営むバウアーに面会し、本書訳出の思い出や将来の海外遠征について話し合った。
内容
本書は伊藤愿(1908-1956)が京都大学3年生の時に翻訳した。伊藤は旧制甲南高校時代から登山を始め、京大山岳部では西堀栄三郎らと厳冬期の富士山で極地法(ポーラー・メソッドの伊藤による日本語訳)を展開するなど登山界の第1線で活躍した。AACKが初めての海外遠征の白頭山を極地法で厳冬季初登頂したのは本書出版から3年後の1934年であった。
ドイツはカンチェンジュンガにパウル・バウアー隊長の下、1929年、1931年と遠征隊を送ったが、本書は1929年の遠征記録である。 バウアーが、ドイツの敗戦に終った第1次世界大戦からイギリスでの捕虜生活を含む5年間の戦役から帰国し、ヒマラヤ行きを決心し、そして登山仲間と計画を具体化していくところから始まる。(1.ヒマラヤ行きの決心)
極端に少ない予算で計画を達成する為に、徹底した切り詰めを行なう。
「2人に対して1個のシュラーフ・ザック、4人に対して1張りの天幕、数ヶ月の間は万事がこの調子であった。かかる状態に耐えるには、ただ、克己、謙譲、友情によってのみ、可能であったことは言うまでもない。」(2.準備)
6月23日、ミュンヘンを出発、船便と汽車を乗り継いで7月28日、ようやくダージリンに到着する。ここで、いくつかの計画の中からゼムゥ氷河からカンチェンジュンガ登攀に進路を決定する。(3.ミュンヘンからセイロンへ、4.ダージリンへ)
7月31日、ポーター90人あまりと共にダージリンを出発、ゼムゥ川のジャングルを進路を切り開きながら進み、標高4,370mにベースキャンプとなる柴小屋を設営したのは、8月16日であった。(5.シッキムを廻って、6.ゼムゥ谷へ)
事前の記録、写真の研究では登頂に可能なルートは、ゼムゥ氷河からの北稜、北東稜、東稜が考えられていた。8月18日、3パーティーに分かれ、これらの山稜の登路偵察にゼムゥ氷河上流に赴いた。しかし、何れの山稜へも適当な登路を見出せなかった。バウアーは決断を下す。
「実際に稜の様子は圧倒的なものではあった。では、不可能? 否、そう見えるだけなのだ!北東稜の途中の断崖までの険しい岩壁や氷壁は登攀できる。―――熟練せる氷上登攀者は雪崩の危険のない所ならほとんど何処でも登攀できる。そして雪崩はまた、岩の出っ張っている下にいれば避けることが出来るのだ。」(7.偵察)
北東稜の付け根5,140mに前進キャンプ(第6キャンプ)が設営され、本格的な登攀が開始されたが、頻繁な雪崩と落石の為、山稜への岩壁突破に苦闘する。しかし、登攀開始から8日目、ついに北東稜上5,660mに第7キャンプが設営された。
「我々はこれを『鷲の巣』と呼んだ。これはウィンクラー・トゥルムのような垂直な巨塔の裾にある絶壁上の、幅が辛うじて1m半ばかりある岩棚上にあるからだ。」
山稜上でも苦闘は続く。やせ尾根と雪庇、連続する氷塔、通過不能のために2日かかって氷塔にトンネルも掘った。バウアーはアルプスでの経験を基に、6,000m以上のキャンプでは必ず雪洞を掘って利用した。第9キャンプは6,570mに作った。
「雪洞の入り口は出来るだけ小さくし、内部はもぐらの巣のように広く作った。気温は昼は大抵零下十度、夜は零下二十度乃至三十度の寒さであるのに内部は零下二、三度になる事はめったになかった。この中で我々はその壁を、時にはゴチックの円天井のように、また時には浪漫的な中性古代の城のように空想した。各人は夫々壁がんや傍室を拵えた。」
苦闘の連続の末10月2日、ついに7,020mに第10キャンプの雪洞が掘られた。そして、もう稜線上には困難な個所はほとんどなさそうに見え、後はキャンプを2つ伸ばせば登頂できると隊員の意気は上った(8.カンチェンジュンガ)。
ところが10月4日から天候が急激に悪化し、5日間も吹雪が荒れ狂い、各キャンプは孤立し、連絡が取れなくなった。バウアーは迷い、そしてついに撤退を決断する。
「私はまだ逡巡していた。--------まだ断固たる引揚げの決心がつかなかった。戦争を経験しているドイツの若者は決して甘やかされて育ってはいない。宿命を忍ぶことを知っている。美しい夢が消え去ったとて悲観し切ってしまったり、未練がましい振舞いをしたりはしない。それだのに私は今、此処で引き返すことはどうしても残念で堪らなかった。しかし即座に引揚げる事は-------意志に反対し、憧れの心はそれを拒もうとするが、-------我々に残された唯一の道だ。それで私は、この機に望んでせめてもの心遣りに、ゆっくりとドイツ国旗を雪洞の床に広げて、その皺を丁寧に伸ばした。そしてその側にイギリス国旗も置いた。」
だが、下山も悪戦苦闘であった。バウアーのパーティーが前進キャンプに帰投出来たのは、第10キャンプ出発後4日目であった(9.退却)。
カンチェンジュンガの初登頂は、この遠征から26年後の1955年、ヤルン氷河に登路をとったチャールス・エヴァンス率いるイギリス隊によって成された。
本書195頁の内70頁は日誌、経費、食料、装備、写真、医学的現象、高度と名勝、天候、地図についての注意、文献の記録に割いている。何れも詳細な内容で、当時のヒマラヤを志した人々の貴重な資料となった事であろう。
山岳館所有の関連蔵書
バウアーの著作その他関連図書
- Im Kamph um den Himalaja/1929/ドイツ
- Um den Kantsch! /1933/スイス
- ヒマラヤに挑戦して パウル・バウアー/伊藤愿訳/1931年/黒百合社
- ヒマラヤ探査行 ナンガ・パルバット攻略/小池新二訳/1938/河出書房
- ウム・デン・カンチ/慶応山岳部有志訳/登高会/1936
- カンチェンジュンガ登攀記/長井一男訳/1943/博文堂
- カンチェンジュンガをめざして/田中主計・望月達夫訳/1957/実業之日本社
- ナンガ・パルバット登攀史(ヒマラヤ名著全集)/横川文雄訳/1969/あかね書房
- Kangchenjunga The Untrodden Peak/C.Evans/1956/イギリス
- The Kangchenjunga Adventure/F.S.Smythe/1930/イギリス
- Kanchenjunga/John Tucker/1955/ロンドン
- Round Kantschenjunga/D.W.Freshfield/1979/ネパール
- カンチェンジュンガ登頂/G.O.ディーレンフルト/横川文雄訳/1956/朋文堂
- カンチェンジュンガ その成功の記録/C.エヴァンス/島田巽訳/1957/朝日新聞社
- カンチェンジュンガ縦走/日本山岳会カンチェンジュンガ縦走隊/茗渓堂/1986
- カンチェンジュンガ西・東/山森欣一編/日本ヒマラヤ協会/1993
- カンチェンジュンガ北壁・無酸素登頂の記録/山学同士会/1980
- カンチェンジュンガ一周(ヒマラヤ名著全集)/フレッシュフィールド/薬師義美訳/1969/あかね書房
- ヤルンカン/京都大学学士山岳会/1975/朝日新聞社
- ヤルンカン遠征隊報告書/京都大学学士山岳会/1973/朝日新聞社
- 残照のヤルンカン/上田豊/1979/中公新書
- 妻に送った九十九枚の絵葉書 伊藤愿の滞欧日録/且方恭子編/2008/清水弘文堂書店
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3. 西蔵を越えて聖峰へ−エヴェレスト冒険登攀記/ノエル/1931 |
5. ウム・デン・カンチ/バウアー/1936 |