12.アルプス及コーカサス登攀記/A.F.マンメリー/石一郎訳/1938/朋文堂/389頁
My Climbs In The Alps And Caucasus/A.F.Mummery/1938
Albert Frederick Mummery(1855-1895) 登山家、経済学者、製革業
1855年、イギリス、ケント州ドーヴァーに生れる。15歳の時、アルプスを旅して登山に目覚め、以後毎シーズンのようにアルプスを訪れ、18歳の時にはマッターホルン、20歳の時にはモンブランに登った。1879年(23歳)、マッターホルンのツムット山稜の初登攀をウィリアム・ベンホールと争い、数時間の差で先を越す。その後、コル・デュ・リオン初横断やグレポン初登頂などの成果を挙げ、アルプス“銀の時代”の旗手として脚光を浴びた。1889年(32歳)、コーカサスに遠征、ディフ・タウ(5198m)に初登頂。1895年(39歳)、ノーマン・コリー、へースティングという信頼する二人の仲間とナンガ・パルバットに遠征。ルパール壁を偵察、次いでディアミール壁の右側岩稜(ママリー・ルート)を6100mまで登ったが、疲労のため撤退する。北面のラキオト氷河からならもっと登頂の可能性があると考え、グルカ兵2名と共に単身でディアマ・コル越えをしてラキオト谷に向ったが、途中で行方不明となる。コルへの登攀中に雪崩で遭難したものと推測されている。
ママリーは登山を純然たるスポーツと見なし、登山の真髄とは登山者の修練と技術のよって種々の困難と闘い、それに打ち克つ喜びであるとし、そのためにはより困難なルートを求めて挑戦し、登山者の心身両面における極限を追及しようとした。この考えはママリズムと呼ばれ、アルピニズムの代表的思潮となり、今日に引き継がれている。
内容
原書初版は1895年発行であるが、本書は1936年版である。以前はマンメリーとドイツ語読みであったが、最近はママリーと英語読みされているので、以後ママリーと読む。原書上梓から1週間後の1895年6月にママリーはイギリスを発って、ナンガ・パルバットに挑んで帰らぬ人となった。
内容は、ママリー自身による「序言」、ママリー夫人Mary Petherickによる「解説」、アルプス登攀記録(第1章〜11章)、コーカサス遠征記(第12章〜13章)、論文(第14章)からなる。
「序言」でママリーは、本書の内容について「岩峰と氷塔、吹きまくる嵐と完全に晴れわたった天候の話の間に、科学、地誌、その他何等か学問への寄与が1つとして挿まっていない事を、私は懼れる。」と、科学的な記述に乏しい内容であると述べている。実際に本書を読んで見ると、登山そのものを記述した部分が圧倒的な量を占めているが、第14章「登山の哀歓」では実際の登山経験を基にガイドレス登山、単独登山、ロープを使った場合のパーティー行動などについて科学的な考察を加えて、旧来の常識を覆す理論を展開し、実践的でありながら充分に学問的である。ママリーが長く登山家達に支持されてきたのは、この論文が当を得たものであったからだと言はれている。
「解説」はママリー夫人がナンガ・パルバット遠征中の夫から受け取った手紙を引用しながら、遠征中のママリーの姿を浮かび上らせてくれる。最後の手紙はディアミール側からの登攀を諦め、2名のグルカ兵とともに北西側のラキオト渓谷へ向かうと知らせてきたところで終っている。
アルプスの登攀記録の主なものは、1879年(23歳)にウィリアム・ベンホールと初登攀を争い、数時間の差で栄冠を手にしたマッターホルン・ツムット山稜(第1章)、1880年(24歳)に行なったマッターホルン・フルッケン稜から東壁を経ての初登攀(第2章)、コル・デ・リオン初通過(第3章)、グラン・シャルモ初登攀(第5章)、1881年(25歳)でエギーユ・デュ・グレポンの北峰及び主峰の初登頂(第6章)などである。この時代、アルプスの初登頂の黄金時代の残光がまだ勢いを保っており、そこにママリーら銀の次代をになう、いわば革新派が現れたわけであるが、革新派と言ってもまだ彼らはピトンの使用にも消極的であった。グラン・シャルモからの下降では(第5章)、木の楔1本を打つにも「グラン・シャルモを穢してなならない」と、その当否について議論する。
「楔を打つのはバールの邪神(註:フェニキア人の崇拝した神)に膝を屈するというものではない。況や登山技術が煙突職工の技術の中へ解消してしまって滅亡の一途を辿る最初の段階になってはいけないと、中には議論を言うものがいた。そこで私達は言い合わしたように楔を打ち込むのを止めなければシャルモの神聖が穢されるかもしれないと宣言して、不安定な岩瘤を見出し、その周りにロープを巻きつけるなり、ヴェネッツが滑り下りた。」
1888年(32歳)の時、スイス人ガイド、ハインリッヒ・ツールフールとコーカサスへ遠征をし、ディフ・タウ(5198m)を南西稜から初登頂した(第12,13章)。ピチャゴルスクからナリチクを経てベゼンギ氷河までの12日間のキャラバンののち、氷河右岸にベースキャンプを設けた。1ヶ月近く小山行を行なったのち、いよいよディフ・タウの絶壁に挑んだ。約10時間の困難な登攀ののち、ついに山頂にたどりつく。
「欧州のあらゆる峰々はただエルブルース(註:エルブルース山脈、最高峰はダマーヴァンド・クー、5671m)だけを除いて私達の足下にあった。そして私達は17,054呎(5198m)の観望塔から回転しつつある世界を見つめた。左手に方向を転じて1,2歩行くと、私達は最後の頂点に達することが出来た。私はそのばらばらに砕けた天辺にどっかりと座った。巨大な雲が絶えず暗くなっていく外皮で今はもうシュカラ(5068m)を被いつつあった。ジャンガ(5051m)の長い山稜も上の方は白く輝かしいが下端は次第に低く垂れ、それに沿って暗澹と化してゆく蒸気の濃くもつれ合った峰の中に埋れた。」
山岳館所有の関連蔵書
- My Climbs In The Alps And Caucasusu/A.F.Mummery/1938
- Alps & Men/G.R.Beer/1932
- The Alps in Nature and History/W.A.B.Coolidge/1908
- The Exploration of the Caucasus Vol1,2/D.W.Freshfield/1896
- Nanga Parbat 1953/K.H.Herrligkoffer/1954/ドイツ
- 先蹤者/大島亮吉/1935/梓書房
- ナンガ・パルバットの悲劇/長井一男/1942/博文堂
- マッターホルン その壁と山稜への挑戦/諏訪多栄蔵/1958/山と渓谷社
- アルプス 山と人と文学/近藤等/1965/白水社
- 大島亮吉 登山史上の人々/安川茂雄編/1968/三笠書房
- ナンガ・パルバット登攀史(ヒマラヤ名著全集)/パウル・バウアー/横川文雄訳/1969/あかね書房
- アルプス登攀記/E.ウィンパー/ 訳/1980/森林書房
- アルプスに挑んだ人々/A.ラン/ 訳/1980/新潮社
- アルプスの名峰/近藤等/1984/山と渓谷社
- アルプス・コーカサス登攀記/A.F.ママリー/海津正彦訳/2007/東京新聞出版局
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11. 山の魂/スマイス/1938 |
13. 孤独−氷の家の記録/バード少将/1939 |