15. 西蔵征旅記/スウェン・ヘディン/吉田一次訳/1942/教育図書/451頁 原題:A Conquest of Tibet/1934/Sven Hedin
スウェン・ヘディン(1868-1962) 地理学者、探検家
略歴は「中央亜細亜探検記」参照
内容
ヒマラヤ山脈を越えたすぐ北側、チベット中央部から南部にかけては、いまだに地図の上ではぽっかりと空白部を残していた。ヘディンはこの地理的空白部を自分の足で踏破し、未完成のまま残されている地図を自分の手で埋めるべく、都合4回のチベット探検旅行を行った。本書は第4回中央アジア探検「西北科学考査団」の資金源とするために書かれた「Transhimalaya, Discoveries and Adventure 3vol. (英訳)」の圧縮版「Transhimalaya」から興味深い部分を取って和訳したものである。挿入の挿絵はすべてヘディンの筆になる。なお「Transhimalaya」の完訳本は、ヘディン探検全集「トランスヒマラヤ(上)(下)」(青木秀男訳)として白水社より1979年に発行されている。
ヘディンは第1回中央アジア探検(1893-1897)の後半(8.「中央亜細亜探検記」参照)、ホータンからチベット高原北部を横断し、青海、西寧を経て北京に出た。第1章「最初の入蔵」〜第3章「蒙古人と盗賊」はこの時の紀行である。1896年7月、ホータンを出発、コンロン山脈を南に越え、野生のラバ、羊、ヤクの居る草原を匪賊の襲撃を牽制しながら東へ進んだ。青海(ココ・ノール)では島に住む隠者と結氷を利用して食料を運ぶ原住民との交流について語る。
第4章「チベットの中心へ」〜第8章「禁断の国への再挙」は、2回目のチベット行である。第2回中央アジア探検(1899-1902)で古都楼欄の発掘を行なったヘディンは、1901年5月17日、神秘の都ラサ潜入をもくろみ、大部隊のキャラバンを率いてチベット北境の山麓付近に位置するチャルクリクを出発した。チベットの聖都ラサは、長い間禁断の都であり、世界の探検家の憧れの的であった。高度5,000mを超す高原の強行軍で、ラクダは次々と死んでいく。途中でキャラバン本隊と別れ、チベット人に変装して従者1人とラマ僧を連れてラサを目指すが、ラサまであと5日の行程の所でチベット兵に阻まれる。やむなくラサへ向かうことを断念し、真冬のチベット中央部のチャンタン高原を西へと横断して、言語に絶する凄惨な旅を終えて12月20日、ラダクに着いた。
河口慧海がネパールから南チベットを経てラサに着いたのは、ヘディンのチベット潜入のわずか2ヶ月前の1901年3月であった。慧海の「西蔵探検記」(蔵書ガイド「明治・大正、昭和期戦前」参照)は英訳され、ヨーロッパの地理学界に大きな影響を与えたが、ヘディンも慧海の業績を認めて、その功績を賛美している。
ヘディンは密かにインド国境を突破し、三度チベットへ潜入する。第8章「無人地帯に三ヶ月」〜第16章「厳冬の旅」がこの間の紀行である。1906年8月、25名の従者、36頭のラバ、58頭の馬からなるキャラバンを率いて、海抜5,000mを超す荒涼たるチャンタン高原を北東部へと進んだ。ラサに近づくために道を次第に南東に転じたが、東西に走るいくつかの山系を横断することは人馬ともに死の苦しみであった。10月に入るとマイナス40度を超える過酷な気象条件と牧草の欠乏のために、毎日数頭の動物が死んでいった。頑丈なヘディンも2日間、意識不明の重体になったこともあった。クリスマスには馬はわずか8頭、ラバは1頭しか残っていなかった。 翌年1月28日、トランスヒマラヤ発見の端緒となった海抜5,504mのセラ峠を越えた。どうにかこうにかシガチェに至り、当時蒙古に亡命していたダライ・ラマに代わりチベットの最高責任者でもっとも高位の活仏たるタシ・ラマの歓待を受ける。しかし、ラサへ入ることは許されず、ツアンポ河に沿って西へ進み、プラマプートラ、インダス、サトレジの諸河川の水源探査、カイラス山の周遊、マナサロワール湖の水深などの調査を行った。12月初め、ラダクに到着し、ようやく1年に亘る旅行を終えた。
ヘディンはこの旅行でチベットの地理学的空白部を対角線に横断し、さらに5つの峠を踏んだ。そして、これまで地図に描かれていない幻の一山脈を発見した。しかし、この山脈が確実に連続するものであると確信するにはまだ踏査が不十分であった。すなわち、この旅行で越えたアンデン・ラとランチェン・ラの間500kmの未確認の空白部が残されていた。この空白部を踏査するために、ヘディンは間を置かず、1907年12月8日、ラダク人に変装して厳寒の中を次のキャラバンに出発した。
「私はラダクへ帰り、新しいキャラバンを準備し、カラコルム峠の地方へと北進し、前年と同様ではあるが別の進路を取ってチベットを対角線に横断し、空白部の中心へと突っ込み、その地区について出来得る限り地図を作ろうと決心した。気狂じみた計画である。チベット高原の冬がいかなるものか、私は知っていた。人および動物の大犠牲、恐ろしき苦痛。然し、不可能事、即ち亜細亜の地図の最後にして最大なる地区の征服を試みずに本国へ帰ることは、どうしても出来なかった。」
厳冬の北チベットの旅は、まさに凄惨の極みであった。チベット高原を対角線に横断し、サムイエ・ラ(5,527m)を越え、ツァンポ河に到達した。此処に至り、幻の山脈は一つながりであることを確認し、ヘディンはこれをとトランスヒマラヤと命名した。さらに西へと進み、8つの峠を踏み、これを確実なものとした。
「かくして亜細亜の地図に残された最大の空白部の第一回踏査は私により立派な成果を収めた。私はこれを八回横断し、山脈、湖、河等を地図に記入した。その時以来、峻嶮なるトランスヒマラヤに対して殆んど何等の調査も行われていない。」
ヒマラヤを抜けたヘディンは8月28日、インド・シムラに到着、1906年8月に此処を発ってから24カ月にわたる命がけのチベット探検を終えた。
ヘディンはこの後日本からの公式な招待を受け、ボンベイ経由日本に向かった。
ヘディンはいかなる条件下にあっても、意識のある限り毎日、高度を測定し、地図を描き、岩石と植物標本を採集することを省いたり、中止したりすることはなかった。凍結したインクをわずかに燃える獣糞の埋れ火にかざしては現時点を地図に記入した。その厳しくも困難な作業を完遂したヘディンの不屈の精神力に畏敬の念を抱かずにはいられない。
山岳館所有の関連蔵書
ヘディン著作その他関連図書
- Transhimalaja- 1,2/1920/ドイツ
- The Wandering Lake /1940/イギリス
- ゴビ砂漠横断記/隅田久尾訳/1943/鎌倉書房
- ゴビの謎/福迫勇雄訳/1940/生活社
- 彷徨へる湖/岩村忍・矢崎秀雄訳/1943/筑摩書房
- 赤色ルート踏破記/高山洋吉/1939/育成社
- 探検家としての世の生涯(内陸アジア探検史)/小野六郎訳/1942/橘書店
- 西蔵征旅記/吉田一郎訳/1939/改造社
- 中央亜細亜探検記/岩村忍訳/1938/冨山房
- 独逸への回想/道本清一郎訳/1941/青年書房
- 熱河/黒川武敏訳/1943/地平社
- リヒトフォーフェン伝/岩崎徹太訳/1941/
- 西蔵探検記/高山洋吉訳/1939/改造社
- ヘディン探検紀行全集全15巻、別巻2巻/監修:深田久弥、榎一雄、長沢和俊/1979/白水社
- ヘディン素描画集/ヘディン文・モンデル編/金子民雄訳/1980/白水社
- ヘディン 人と旅/金子民雄/1982/白水社
- ヘディン伝 偉大な探検家の生涯/金子民雄/1972/新人物往来社
- ヘディン蔵書目録(山書研究25号)/金子民雄編/1981/日本山書の会
- その他中央アジア関連多数
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14. 中央アジア踏査記/スタイン/1939 |
16. カムチャツカ発見とベーリング探検/エリ・エス・ベルグ/小場有米訳/1942年/龍吟社 |