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14.中央アジア踏査記 オーレル・スタイン 風間太郎訳 1939 生活社
原題:On Ancient Asian Tracks/1933/Aurel Stein


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表紙
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内扉
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オーレル・スタイン肖像 スタイン伝(J・ミルスキー)より
オーレル・スタイン肖像 スタイン伝(J・ミルスキー)より

オーレル・スタイン(1862-1943) 考古学者、探検家
 ブタペストのユダヤ人家庭に生れ、幼時をブタペスト及びドレスデンで過ごし、長じてウィーン及びチュービンゲン大学などで東洋学を学ぶ。若干21歳で博士号を取得。さらにイギリスに留学、オックスフォード大学で考古学を専攻した。1887年、渡印、ラホール東洋学校校長に就任、カシュミール王統史の研究に没頭する。1899年、印度政府教育部に任官、カルカッタに移る。
 スタインは1900-01年、1906-08年、1913-16年の3回、足掛け7年間、印度政庁官吏の身分で中央アジア探検を行なった。第1次探検はカシミールからフンザ、ミンタカ峠、タシュクルガンを経て、ムスターグ・アタ(7,546m)を6,100mまで登る。その後カシュガルからヤルカンドを経てホータンへ入り、ダンダン・ウィリク遺跡で発掘調査を行なった。この旅行では崑崙山脈の探査という地理学的成果の他、古址で年代の判定できる紙片、板絵などを発見するという考古学的業績を上げた。
 第2次探検はペシャワールからチトラル、ダルコット峠、オクサス河上流を経てカシュガルへ。ニヤ、エンデレ、楼蘭、ミーラン、疎勒河盆地の各遺跡の発掘調査を行なった。敦煌に到り、千仏洞から多量の5〜10世紀の古文書、仏画などを大箱29個分入手、大英博物館へ送った。さらに甘粛省の各地を回り、天山南路を通りヤルカンド、チベット高原北辺の踏査など、中央アジア史を解明する数々の地理学的、考古学的業績を上げた。2回の中央アジア探検の功績が認められて、1912年、印度勲章上級勳爵士に叙せられSirの称号を贈られた。
 第3次探検はカシュガルをベースに、4年間にわたり過去2回の探検でやり残した調査を徹底的に行なった。敦煌では前回に引き続き多くの仏典、仏画を入手した。
 スタインら外国の探検隊による敦煌をはじめとする文物の国外持ち出しは、中国人の憤激を買い、スタインは1930年に計画した第4次探検の許可を南京政府から得られず失敗に終る。
 この後、スタインの興味は西南アジアへと向けられ、イラン、シリア、トランスヨルダン、イラクへの調査旅行は、カブールで急逝する83歳まで続けられた。スタインが中央アジアで収集した膨大な発掘品は、その殆どが大英博物館とインド国立博物館に収蔵されている。


内容
 本書は中央アジア探検の最も盛んであった19世紀初頭に、中央アジア探検家として名を成したオーレル・スタインの3回にわたる中央アジア探検の総合報告書である。「著者序文」でスタインは、本書はハーバード大学総長の紹介で、ボストンのロウェル学院に講師として招聘されたときに講演した内容に、多少の追加と修正を施して上梓したとある。スタインは7年を費やした中央アジア考古学探検の成果を膨大な著作に残したが、一般向けの著作は少なく、邦訳されたものも少ない。ヘディンの地理的空白部を突き進む探検のはつらつとした文章に比べると、本書の翻訳者が言っているように「著者の原文は生国或は教養のしからしむる処か、晦渋と評すべきではないが、甚だしく重厚である」ことが邦訳の少ない原因かもしれない。たいへんに内容のある本で中央アジア史の勉強になる事は間違いなく、また古代の遺物が次々と発見されて歴史が明らかになっていく過程に魅せられる。

 本書の構成についてスタインは、3回の旅行を1冊にまとめたもので「同一個所を数回訪問している場合もあるので、便宜上地域別に配置し、強いて厳密な時間的経過に拘らぬことにした」としている。21章からなり、巻頭に63枚の写真と1枚の地図が、巻末には訳者による丁寧な訳注と索引が付されている。

 一章、二章で読者の便宜を考えて、中央アジアの地理・歴史の解説を、三章「ヒンヅークシュを越えてパミールと崑崙へ」で第2次探検のペシャワールからカシュガルまでの紀行を述べている。1906年5月17日、深い雪と氷河に難渋しながらダルコット峠(4,575m)の頂上に立つ。そしてスタインは、西暦747年、唐の西域副都護の高仙芝将軍が兵1万を率いてパミール高原を越えてこの峠に達し、ヤシン渓谷まで1,800mの急傾斜を一気に駆け下りてキルギットの小勃律国を征服した遠征記録が、地理的に正確であった事を実証した。この高仙芝将軍のパミール越えとダルコット氷河逆落としは、ハンニバル、ナポレオン、スヴォロフのアルプス越えを遥かに凌ぐ快挙であると絶賛する。(註:高仙芝将軍はのちにアッバス朝のイスラム帝国と戦い大敗するが、この時イスラム軍に捕虜になった兵の中に紙漉き職人がいて、彼らによって中国の製紙法が初めて西方へ伝えられたと言われている。)

Highslide JS  スタインは3回の探検で多くの古代の埋没遺跡を発掘しているが、最初の発掘は1896年にヘディンによって発見された(8.「中央アジア探検記」参照)ホータン北方にあるダンダン・ウィリクであった。寺院跡から1枚の奉納額を発見する。それは中国からホータン王に嫁した王女を描いたもので、玄奘(註:唐の僧、602頃〜664)の西域記やその他の記録に、国外へ持ち出すことを禁じられていた桑種、蚕を王女が密かに髪飾りの中に隠してホータンへ齎したと記されているが、その真実を証する王女の姿が描かれていた。ブラフミー文字(註:インドから伝来)で書かれたホータン語や漢文で書かれた、年代が分る紙の証文などが多数発見された。それらの解読からこの町が西暦791年までに放棄されたことが判明する。(四章「最初の埋没遺跡発掘」)

Highslide JS  ホータンからさらに東へ3日進んだケリヤ・オアシスで、北方にあるというニヤの古跡の噂を聞き直ちにそこへ向かった。1901年1がつ、ニヤ川に沿って下り、その水路が沙漠に消えるあたりに古代住居跡を発見する。ニヤ遺跡は一面にかつての住居の柱が半ば砂に埋れて林立していた。第1次〜3次の都合3回行なった発掘で、スタインはカロシチー文字(註:1世紀頃印度西北辺境で用いられていた文字)で書かれた多量の木簡文書を発見し、その解読からニヤが3世紀の後半に放棄されたこと、ニヤはかつての精絶国で鄯善国の支配を受けていたことなどが判明する。その精巧な漆器の破片、見事な絹織物の切れ端なども発見され、古代にタクラマカン南縁のオアシス橋が東西交通の主要道路であったことが証明された。(五章「ニヤの古跡における発見」、六章「ニヤ再訪とエンデレ遺址」)

 ニヤ遺跡からさらに東にチャルクリク・オアシスがある。1906年12月、スタインはチャルクリクの北方にある楼蘭へ向かう途中、ミーラン遺跡の発掘を行なった。1907年1月の3週間、氷のように冷たい強風に曝されながら多数の発掘品を収集する。ミーランは鄯善国の最初の王城で、ここで8世紀以来の多量のチベット語文書や古鎧(註:チベット族は此処を8〜9世紀に占拠した)、3世紀のものと見られるカロシチー文書、ギリシャ美術的表現方法で有翼天使を描いたフレスコ画を発見する。(七章「ミーランの遺址」参照)

Highslide JS  ミーランの北東、ロブ沙漠に埋れる古都楼蘭は、ヘディンが第2次探検で発見した(29.「彷徨へる湖」参照)。スタインは50人の掘削人夫を連れて、チャルクリクから11日かけてヘディンが図面に示した古都楼蘭に着く。発掘調査で収集したカロシチー文字及び漢文で書かれた紙片、木簡、絹片、少数のソグド文字(註:サマルカンド及びブハラ地方の文字)などから古都楼蘭の全体像を明らかにした。すなわち楼蘭は紀元前2世紀の後期、シナがタリム盆地へ向かって開いた最古の路線の、言わば橋頭の如き位置を占めていたこと、この地が3〜4世紀にかけて放棄されたことなどである。

Highslide JS  ミーランでの発掘を終えて、マルコポーロの通った昔のシルクロードを辿って、1907年2月、玉門官を経て、敦煌に到着する。当時まだ東西の学者に知られていなかった「玉門」の正確な位置を発見したのはこの時である。そこではある洞窟寺院で膨大な古文書が発見されたという噂を聞く。それは狭い石室に無数の書簡が充満し、牛舎に積んで数台分の量があるという。発見者の王という道士(註:道教の僧)と会い、世間の評判と仏罰を恐れる彼を説得して古文書のある石室を開かせた。そこにスタインはおびただしい古文書を目にする。

Highslide JS  この時スタインは王道士からわずかな金品で、9千点、大箱29個に及ぶ仏典、仏画、文書などを買い取りイギリスへ持ち帰った。さらに第3次探検では600点を持ち出している。世界中を驚かせたこの世紀の発見、いわゆる「敦煌文書」は5世紀初頭から10世紀末期までの文書で、石室に収められたのは11世紀初頭、タングートの侵攻の頃であろうとされている。(十二章「千仏石窟寺」、十三章「石窟秘宝所蔵写本」)それまで殆んど知られていなかった敦煌が一躍世界に名を響かせたのは、この時にスタインが得た収集品によってであった。 (註:スタインの発見から数ヵ月後、フランスの東洋学者パウル・ペリオが千仏洞を訪れ仏典500点を持ち出した。この古文書類の価値にようやく気付いた清国政府は残りの全てを北京へ運んだ。しかし王道士は自分が隠し持っていたらしい文書を、この後もロシヤのオルデンブルグ隊や日本の大谷探検隊に売却した。)

 スタインは以上の発掘調査のほか、崑崙や南山山脈の地理的調査、エンデレ、疎勒河盆地、ヘラ・ホト、ジムサカラ・ホージョ、ベゼクリク、アスターナ、トルファンなど多くの遺跡の発掘調査を行なった。最後となった第3次探検の帰路は、カシュガルからパミールを越えてオクサス河上流に出て、サマルカンド、イランのシースターレに達し、1916年、ようやくカシミールに戻った。中央アジアの足かけ7年間の旅であった。

山岳館所有の関連蔵書
  • 中央亜細亜の古跡(大陸叢書第7巻)/スタイン/満鉄弘報課訳/1941/朝日新聞
  • 考古学探検家 スタイン伝(上・下)/J・ミルスキー/杉山次郎ほか訳/1984/六興出版
  • 中央アジア踏査記(西域探検紀行全集8)/スタイン/1966/白水社
  • 中央アジア探検小史/金子民雄/1978/三省堂
  • 中央アジア探検家列伝/金子民雄ほか/1987/日本山岳会海外委員会
  • 中央アジア歴史群像/加藤九祚/1995/岩波書店
  • 中央アジア探検史(西域探検紀行全集別巻)/深田久弥/1973/白水社
  • その他中央アジア関連多数
  • 砂に埋れたホータンの廃墟/スタイン/山口静一・五代徹訳/1999/白水社
  • 中央アジア関係多数
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