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19.アムンゼン探検誌/ロアルト・アムンゼン/加納一郎訳/1942/朋文堂/212頁
原題:My Life as an Explorer/1928/Roald Amundzen


Highslide JS
カバー
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表紙
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裏表紙
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アムンセン肖像
アムンセン肖像


ロアルト・アムンセン(1872-1928) 探検家
 原題名は「My Life as an Explorer」で、アムンセンが自分の極地探検の一つ一つを振り返った自叙伝である。
 Roald Amundsenの英語での発音はロアルド・アムンゼンであるが、日本での標記はロアルト(またはロアール)・アムンセンが一般的であるので、書名、翻訳者の文章以外は以下これに従う。
 第1〜8章が探検紀行、第9章〜11章が探険についての持論、考察である。翻訳者の加納一郎は訳序で終生を探険に捧げたアムンセンについて次のように述べている。

「----謹厳己を持して常に所信に邁進してやまなかった彼からはより多く学ぶべきもののあることは明らかである。思えばビデアス(1)以来、極地探検のことに従い、窮寒に生き凄寥に死した人の数ある中に、彼ほど終始一貫、終生をこれに徹した人がほかにあるだろうか。」

 1872年、ノルウェー東南部のボルゲで海運業を営む父ゼンスの四男として生れる。15才の時、北極圏探検を行ったジョン・フランクリン(2) 探検隊の記録を読み、これまでにない感動をおぼえ、自ら極地探検家になることを志す。そのため、あらゆる機会を捉えて、辛酸艱苦に耐えうる肉体に仕上げる努力をした。心ならずも母の勧めで医学の道へ進んだが、母の死去と共にそれを捨て、生涯の夢に全身を打ち込む事になった。まずは将来の準備のために兵役につき軍事教練をうけた。(第1章若き日の思い出)

 過去の探検隊の記録をつぶさに読むと、探検隊長と船長が別々の人間の場合にトラブルが多いことから、探険には隊長が船長を兼ねるのが一番良いと判断、兵役が終了するとすぐに、船での経験を積んで船長の資格をとるために、夏の間3年をアザラシ漁や商船の乗組員として働いた。
 1897年、ベルギーの南極探検船「ベルギガ号」の1等航海士に採用された。「ベルギガ号」はマゼラン海峡を通り一路西へと進むが、船長の誤った判断で13ヶ月にわたって氷に閉じ込められ、期せずして南極初の越冬探検隊となった。

「十三ヶ月というもの吾々は氷の原に閉じ込められていた。二人の船員は発狂し、すべての人々は壊血病(注:ビタミンC欠乏症)になやみ、そのうち二人はついに仆れた。」

 これを救ったのはアムンセンと医師のクック(3)であった。二人は書物によって壊血病は新鮮な肉を食することによって防ぎうることを知っていた。船長と隊長がアザラシとペンギンの肉を極端に嫌うのを無視して、船員全員に食べさせて壊血病から救った。これを見て船長、隊長も熱心に新鮮な肉を食べるようになった。苦難の航海ののち、まる2年ぶりにヨーロッパに帰り着いた。(第2章南氷洋に閉ざされて)

 翌年、船長の資格をとったので、初めて自身による北極への探検計画の準備を始めた。1900年、小型中古漁船「ヨーア号」(47トン)を購入する。しかし、探検のための費用が思うように集まらず、品物を購入した商人らから厳しい督促をうけた。船を差し押さえて詐欺罪で訴えるとおどかされて、1903年6月のある深夜、「ヨーア号」は商人らの目を逃れて隊員6名と北西航路(4)の初通過をめざしてノルウェーを出港した。アムンセンはこの航海で3度の冬を極北の地に過ごし、座礁など数々の苦難を克服し、ついに北西航路を通過、1906年10月、サンフランシスコに着岸した。先人が四世紀もかかってなし遂げえなかった事業に、3年がかりで成功したのである。越冬中にアムンセンはエスキモーから犬ぞりの技術を習得する。この犬ぞりの技術がのちにアムンセンの南極点征服の一つの鍵となる。この航海の目的は北西航路の発見のほかに磁北極の正確な位置を見極めることであったが、これらは二つとも達成された。(第3章北西航路の征服)

 この北西航路探検のとき果たせなかった北極点到達を今度こそ果たそうと、ナンセン(5)から北極海漂流で有名な「フラム号」を譲り受け、出発の準備が万端整った時、ロバート・ピアリー(6)が1909年4月6日、北極点に到達したというニュースを聞き、がくぜんとする。
そして、

「探検家としての自分の威信を保つためには私は是非ともこれに劣らぬ成功をかち得なければならない。」

と深く心に決する。しかし、その決心は1人胸に収めて、1910年8月、南へ向けてノルウェーを出港した。ケープ・ホーンを回りベーリング海峡を通って北氷洋へのり入れる予定であったので、南へと進路をとったのである。船が最初の寄港地マデイラ諸島に入港したとき、初めて隊員に向かって、この探検の目標を南極到達におく旨発表した。隊員たちは双手をあげて賛成した。この時すでにスコットの率いる英国隊が南極をめざして航海していた。(参照:蔵書ガイド34.「世界最悪の旅」) 南極点初到達争いは、アムンセン隊の勝利に終わり、スコット隊は極点に到達するが、帰路全員が死亡する。
 アムンセンの南極での詳細は、自著“South Pole”(南極/朝日新聞社/1944)に詳しいとして省略している。本書では南極点初到達が出来た理由について、輸送手段の観点からスコット隊との違いを次のように述べている。

「スコットと隊員が南極からの帰途において凍死したのは、吾々が先に到達したことを悲観したためではなく、事実、飢餓に瀕したためであり、その原因は帰途の食料を充分適当に配置し得なかったのに在る。この両隊の結果はそのまま犬と他の方法による運搬力との違いを示すものであるということができる。」

(本書では触れていないが、白瀬隊長率いる日本南極探検隊の開南丸が1912年1月17日、フラム号とクジラ湾で交歓訪問をした。その日は奇しくもスコット隊が極点に到達した日であった。)

 スコットと争った南極点の勝利は、アムンセンにとって快心の仕事であったに違いないが、同時にアムンセン自身傷つくことも多かった。スコットの計画を承知しながら、一足先に栄冠を横取りしたといってイギリスからひどく恨まれたのである。アムンセンが英国地理学協会に招かれて行なった講演が終ったとき、カーゾン会長がアムンセン隊の成功の大きな要素であったそり犬の様子を悪意のある皮肉な調子で質問したのち、「ではアムンゼン氏を南極点初到達の栄誉に導いた最功労者、そり犬に乾杯!」と締めくくった。これに対しアムンセンは、「完全な準備のあるところに常に勝利がある。人はこれを幸運という。そして、不完全な準備しかないところに必ず失敗がある。これが不運といわれるものである」と応酬した。(第4章南極到達)

 第1次世界大戦中の商船への投資が当たって資金を得たアムンセンは、海氷に強い「モード号」を建造、1918年春、極点を通る北極点漂流横断に向った。ヨーロッパとアジアの北海岸を通る北東航路(7)から北極海海流に乗り、北極点を通過してベーリング海峡に行こうというものであった。海氷に閉じ込められて2回の越冬を含む3年間の航海であった。結局、地理的極点には到達できなかったが、海洋、気象、地磁気データの収集、北方民族の観察などにより史上重要な北極観測をしたと評価された。(第5章北方氷原の越冬)

 1922年1月、「モード号」はノルウェーに帰った。こののち、アムンセンは北極探検の方法を飛行機を用いることによって革新しようとした。まずポイント・バローとスピッツベルゲン間の横断飛行を決心する。そのための飛行機調達に努力していた最中、マネージャーのハンメルと実兄の背信のために極端な資金難に陥った。飛行機を購入し、探検を組織する費用を集める為に、アメリカ各地を回って講演を行なったが人気はさっぱり上らず、失意のどん底にあった時、アムンセンを救ったのはアメリカ人の富豪リンカーン・エルスワース(8)であった。彼は資金の提供を申し出てくれたのである。(第6章資金難)

 1925年5月、エルスワースの提供した85,000ドルで購入した2機の飛行艇で、エルスワース、隊員4名と共にスピッツベルゲン島を北極点へ向けて飛び立った。これまでのソリや船での探検の及ばなかった区域に何があるか、何がないかを見極めることが目標であった。しかし、極点に到達する前に帰路の燃料が不足することが判明し、北緯88度で氷海に不時着、1機はその際に破損し飛行不能となった。健全な1機を離陸させる為に5週間かけて氷上に500mの滑走路を作り、内1機を離陸させることに成功、全員スピッツベルゲンに帰還した。(第7章飛行機による探検)

 1926年5月、今回もエルスワースの援助をうけて、飛行船「ノルゲ号」(長さ106m、容積18万㎥)で、隊員17名と共にスピッツベルゲン島のスヴァールバルから北極点を越えてアラスカまで、それまで未知であった地域を飛び、世界地図の最後の空白を埋めた。北極点到達を目指すこと数回、ようやく積年の希望を達成することができた。翌年初夏、報知新聞社の招きで来日、各地で講演を行なっている。 (第8章ノルゲ号の北極横断飛行)

 第9章「探検家について」、第10章「探検事業について」は、それぞれについていかにあるべきか、自身の考えを述べている。第11章「食料と装備の問題」では、南極点初到達競争でのアムンセンの「完全な準備」について、スコット隊との比較で詳しく説明している。

 本書はここで終っている。アムンセンは「ノルゲ号」の探検が終った時、本書を執筆、そして余生を静かに暮らす予定であった。しかし、1928年6月8日、北極を飛行機で探検中に行方不明となったアムンセンにとっては許すべからざる背信の男ウンベルト・ノビレ(9)の捜索依頼をうけて水上機で赴き、行方不明となる。捜索隊によりノビレは救出されたが、アムンセンは2度と戻らなかった。

 加納は訳序でアムンセンの業績について次のように評価している。

「彼は南極へ最初の到達を成した。彼は北海航路を初めて通行した。北極に最も近く初めて飛行機を乗り入れた。そしてついに北氷洋の最初の横断を成し遂げたのである。このように栄光に満ち満ちた業績の多くを捷ちえた探検家が他にあっただろうか。」

  1. PYTHEAS ピュテアス(ビデアス)
    ギリシャ人。紀元前4世紀末マルセイユに生れる。グレートブリテン島を旅行。スカンジナビアに関する最初の記録を残した。現代的な意味での最初の探検家
  2. Sir John FRANKLIN ジョン・フランクリン卿(1786-1847)
    英国海軍将校 1844年58才のとき、2艦を率いて隊員129名と共に北西航路探検航海に出るが、全員が消息を断った。フランクリンはそれまでに北西航路探検記を2冊書いている。
  3. Frederick Albert COOK フレデリック・クック(1865-1840)
    アメリカの医師 「ベルギガ号」以前にピアリー隊に参加してグリーンランド横断に参加している。1906年にマッキンレーに上った、ピアリーより早く北極点に到達したなどと主張したが、いずれも嘘であると分って非難を浴びた。また、株券詐欺で7年の実刑判決をうけた。
  4. 北西航路
    大西洋からアメリカ大陸の北方を通ってベーリング海峡に出る航路。多くの探検家が試みたが、北氷洋の氷に阻まれてアムンセンの「ヨーア号」まで果たせなかった。
  5. Fridtjof NANSEN フリチョフ・ナンセン(1861-1930)
    ノルウェーの探検家、動物学者 耐氷船「フラム号」で北極へ向って漂流探険に乗り出し、最後は船を離れて1人の隊員と犬そりで北進、86度13.6分に達し、最北記録を樹立した。のち、外交官、国際連盟成立に尽力した功績により1922年、ノーベル平和賞を受賞。
  6. Robert Edward PEARY ロバート・ピアリー(1856-1920)
    米海軍士官 グリーンランド横断などで北極圏での経験を深めた。1909年4月6日、隊員1名、エスキモー人4名と共に北極点に到達。ピアリーが採用した多くの隊員をサポートに使い、最後に少数の隊員で目標に到達する方式は、極地法と呼ばれてヒマラヤなどで採用された。
  7. <北東航路
    シベリアの北の北極海を経由して東アジアへ向う航路。1878年から79年にかけてスウェーデンの探検家アドルフ・エリック・ノルデンショルド(1831-1901)によって通航された。この探検船「ベガ号」は日本へも立ち寄ったのち、1880年、ストックホルムに帰り、欧亜大陸の周航を初めてなし遂げた。
  8. Lincoln ELLSWORTH リンカーン・エルスワース(1880-1951)
    シカゴ生まれ アムンセンの2回の北極圏飛行に参加。その後、サー・ウィルキンズの北氷洋潜行探検、ドイツの飛行船ツェッペリン号の北極圏飛行に参加。その後、南極大陸の横断飛行に再三挑戦するもいずれも失敗する。
  9. Umberto NOBILE ウンベルト・ノビレ(1885-1928)
    イタリア軍航空技術者 アムンセンのノルゲ号による北極横断飛行船の操縦士。横断飛行に成功したのち、アムンセンの評判を妬み、この探検の成功は自分にあると主張、アムンセンと争う。1928年、自身が隊長として行なった北極飛行探検で遭難、隊員の大半が死亡する中で隊長が生還し非難された。


山岳館所有の関連蔵書
  • Farthest North(I),(II)/F.Nansen/1897/
  • The Heart of the Antarctica Vol1/E.H.Shackleton/1909
  • Scott’s Last Expedition (1)(2)/L.Hurley/1913
  • Expedition South/W. Ellery Anderson/1957
  • The Crossing of Antarctica/J.Fucha, V. &E.Hillary/1958
  • South, The Endurance Expedition/E.Shackleton/1999

  • 孤独/R.E.バード少将/大江恵一訳/大東出版社/1939
  • 極地集誌/加納一郎/朋文堂/1941
  • 白瀬中尉探検記/木村義昌・谷口善也/大地社/1942
  • 南極の征服(上)(下)/ロアルト・アムンゼン/道本清一郎訳/淡海堂/1943
  • 世界最悪の旅/チェリー・ガラード/加納一郎/朋文堂/1944
  • 氷雪圏の記録/加納一郎/山と渓谷社/1947
  • 極地を探る人々/加納一郎/朝日新聞社/1950
  • バード南極探検誌/リチャード・バード/遠藤タケシ訳/緑地社/1956
  • 未踏への誘惑ー二十五人の極地探検家/加納一郎/朋文堂/1956
  • 極地に逝ける人々/ド・ラ・クロワ/奥又四郎訳/新潮社/1957
  • 南極物語/ド・ラ・クロワ/近藤等訳/1958
  • 南極横断 地球最後の冒険(上)(下)/V.フックス/山田晃訳/白水社/1959
  • アムンゼン探検誌/加納一郎/平凡社/1962
  • アムンゼン 極地探検家の栄光と悲劇/エドガー・カリック/新関岳雄・松谷健二訳/白水社/1967
  • アムンゼンとスコット ー南極点への到達に賭けるー/本多勝一/教育社/1968
  • スコット/Pブレンド/高橋泰郎訳/草思社/1969
  • 極地探検/加納一郎/社会思想社教育文庫/1970
  • 南極点/R.アムンゼン/中田修訳/ドルフィンプレス/1980
  • 南極探検日誌/R.スコット/中田修訳/ドルフィンプレス/1986
  • 南極のスコット/中田修/清水書院/1998
  • 南へ エンデュアランス号漂流記/A.シャックルトン/奥田祐士・森平慶司訳/ソニーマガジンズ/1999
  • なぞの宝庫・南極大陸/澤柿教伸ほか/技術評論社/2008

  • 北極/H.ライト/大日本文明協会/1913
  • 北氷洋漂流記(上)(下)/K.バジーギン/米川正夫訳/改造社/1941
  • 北極圏と南極圏/C.ベルトラム/加納一郎/朋文堂/1942
  • 北極探検記/E.ババーニン/竹尾訳/聖紀書房/1942
  • 極地の探検・北極/加納一郎/時事通信社/1959
  • 北極点を越えて/W.ハーバード/木村忠雄訳/朝日新聞社/1960
  • フラム号漂流記/F.ナンセン/加納一郎/筑摩書房/1960
  • 北極圏1万2千キロ/植村直己/文芸春秋/1976
  • 極北/フリッチョフ・ナンセン/澤田洋太郎訳/福音書館/1977
  • 極北の青い闇から/小野寺誠/日本放送出版協会/1977
  • 北極点グリーンランド単独行/植村直己/文芸春秋社/1979
  • 北極探検十二回/C.ニコル/潮出版社/1984
  • 北極点/R.ピアリー/中田修/ドルフィンプレス/1993
  • フラム号北極横断記−北の果て/フリッチョフ・ナンセン/太田昌秀訳/ニュートンプレス/1998
  • 南極・北極の百科事典/国立極地研究所編/丸善/2004
    ほか極地関係多数
 
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20. 外蒙の赤色地帯/ハズルンド/1942
 
 
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