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6月16日14時。我々AACHの有志3人は、Mt. Denaliの頂に達した。そして今、異常気象とも言える蝦夷梅雨の中あわただしい日常と戦っている。
山登りとは、終わり良ければすべて良しではいけない。山から帰るたびに、問題点・反省点をすべて洗い出して、今後に生かすことでリスクファクターを減らすことができ、つまりそれらは経験として個人及び集団の中に蓄積されていくのである。今回のデナリ遠征においても反省点は幾つかあり、新たな知見も得られたように思う。それらをこの報告書に示すことで、Roomとしての経験に置換されるはずである。
今回の遠征の目的は幾つかあったのであるが、第一の目的は、“デナリに登りたかったから"である。どうしてデナリかという質問をよくされた。Mt. Denaliの魅力というのが一番であるが、ルートの難易度・レンジャー常駐・情報量など、初めての海外登山である我々にとって有利な条件が揃っていたというのもある。
ルートの情報はweb上のいたるところにあふれ、それに関してはある程度イメージがつき既知なるものであったが、海外・長い氷河のアプローチ・6000m以上の高度・一ヶ月弱の長い登山期間はまったく未知なる世界であった。これらには相当苦しめられることとなった。不慣れな外人とのコミュニケーション・氷河上の昼と夜の激しい寒暖差・普段の半分しかない酸素など、未知の環境が身体に与えるストレスは予想以上であった。
しかし、その分それらから得られたものも大きいのも事実なのである。私は帰国後、“どうだった?"という質問をよくされたが、それに対してはほとんど、“でかかった"と答えた。幅3kmもの河が日高より高いところに流れているのである。しかもそれが海につくのは何十万年後だ。そんなところを歩いているのだと自覚すると、自然の大きさに感動を覚えずにはいられなかった。ピークまでもとても遠い。日高でさえ現在では一番早いところで3時間、遅くとも2日あれば主稜線に達するのだが、ここでは早くても一週間はかかる。これらは日本では絶対に体験できない。20万の価値は充分にあった。
次に、本当はこちらの方が大きかったのかもしれないが、Roomの活性化ということがある。最近のRoomは“Room主義"的な山行が大部分を占めてしまっているような流れを感じる。ここでのRoom主義とは、基礎的技術伝達重視の、一年班のパーティーを継続して出すことに重きを置いている事を指す。なぜそうなってしまったのかを改めて考える。
最近はどの山系も安定して新入部員を迎えられるようになってきたが、それまでは部員減少の一途をたどってきた。部員現象に伴い、趣向の違いから山行形体が変化したり、ピラミッド型の部員構成によって上級部員の負担が大きくなり、パーティーを組むことすらままならない。また、二年班の大きな計画を出すほどの余裕も技術も無いのだ。
部員が多いほど、その部の包容力は増大し、いろいろなことができるようになるのだが、現在のRoomはそのような包容力を持ち合わせていない。そんな中で他の人と違うことを求めようとすると(これは時代の流れによるものでもあり、Room主義的山行の反動でもある)、Roomという箱はそれを収めきれずに破綻してしまう。今まさにその前兆が見えてきているのである。
Roomは個人主義であるとよく言われるが、個人が強くなりすぎるとそれに伴って組織というものはまとまらずに弱くなってしまう。それが表面化したものか、現在の他パーティーへの関心の低さは大いに問題となり得るものだと思う。以前部長から、山行の社会人化を指摘されたが、それだけにとどまらず、Roomという組織自体にも社会人化の波が迫ってきているようである。
今山行はこれまで述べたようなことから、現役の、Roomで行くことにこだわりたかった。Roomの可能性を確かめたかったのだ。結果、これからのRoomを探るにはよい山行であったと思う。そこで、今後のRoomの取るべき方向について考えてみたい。
そのためにまず、なぜ個人として山及び岩に向かうものが増えているのかについて考えてみる。一つの理由に、Roomではできないというのが大きくあると思う。なぜできないのかというと、一番の理由はパーティーが組めないことだろう。山に求めるものが各々異なっていて、志向するものも違う。そんな中で、現在のRoomのような小さな母集団からうまくパーティーを組むのはとても難しい。このことに関しては現状ではどうしようもない。徐々にRoomの力(人数的にも技術的にも)を底上げしていくより他ないと思う。
次に、センスの違いが挙げられる。Roomとして行く場合には、しっかりとした計画の提出・検討によるパーティーの評価・報告の提出が責任として求められ、山の中でも計画の進め方に基づくしっかりとした判断及びパーティーの安全確保が絶対である。しかし個人として、Roomとしてではなく行く場合にはそれらは不要であり、さらに計画に柔軟性を持たせられるといったメリットもある。検討では通らないような、大きなリスクが伴うような計画も誰に止められるでもなく挑戦できる。
無論、責任は本人のみに帰せられるものであり、相応の心構えは必要であるが。ただ、退部後に勝手に行くのはその人の自由意思によるのであるが、Roomに所属しながらそのような行動をとるものが頻繁に現れてくるようになると、Room全体へ、帰属意識の低下だけにとどまらず、構成員がパーティー及びRoomに対して持つべき責任意識が低下してしまうという形での影響を懸念する。個人と組織では、責任というものの対象も大きさも全然違う。それをしっかり認識した上でRoomでの活動は行われなければならないし、それが混同されるようになってしまうと非常に危険である。
出発前、ある小屋ノートに、“自分勝手な行動"と非難する記述を見つけた。確かに夏山前の一ヶ月間日本を離れるのは勝手であると承知しているが、ちゃんと手順を踏んで、なるべく迷惑をかけないように準備をしてきたし、Roomへ還元されるものも大きいと思っている。そのことについてはRoomへの配慮はしていると理解してほしかった。今回の遠征もパーティー外からの目にはそのように、個人山行と同様に映ってしまっていたのかと思うと、すでに影響が出ているのかもしれない。
そろそろまとめに入る。近年、学生はカリキュラムの変化や学費の高騰により、簡単に留年するわけにはいかない。昔のように“学生=暇"といった等式が成り立たなくなっていて、毎日のように山に登る生活は送れないのである。また、Mの面倒を見ることに手一杯で、新しいことや難しいことに取り組めないといった状況である。
そんな中でRoomの魅力について再考し、今後の運営及び山行の形体についてより活発な議論を望む。部報などを見ると、これまでにも何度か同じような状況で様々な議論がなされてきたようであるが、雰囲気が停滞している今がまさにそれに取り組まなくてはならない時期なのだ。
完全個人主義にして、Roomに対する責任を完全排除するか。部全体が一丸となって取り組むような対象を設定し、山に登る上での組織というものを徹底的に追求するか。進むべき道はいろいろと取れるのである。AACHとは言わずもがな、Academic Alpine Club of Hokkaidoである。もっとAcademicに考えていきたい。Alpinismを志向したい。最近はそれがどんどん薄まりつつあるように感ずる。今一度、なぜ山岳部に所属しているのか、なぜ山に登っているのかを考えてみよう。“そこに山があるから"などと言うものは何も考えていないのだ。
私はまとまった文を書くのが得意ではないが、ある程度は自分の意見を文字で表現できたと思っている。近頃の若者は自分の考えを主張することをあまり好まないようだが。今回のデナリ遠征によって、Roomに新たな風が吹くことを願う。そして新たなスタイルでの遠征も実現できればと思う。
最後になりましたが、今回の遠征に協力してくださった方々、送り出してくれたRoomの皆に感謝しています。本当にありがとうございました。夏メイン入山前 田戸岡尚樹
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