ログイン   :: お問い合せ :: サイトマップ :: 新着情報 :: おしらせ :: 
 
 
メニュー
92カムチャツカ第二次遠征 »

カムチャツカ散歩記

植田 勇人


 今回の遠征では2つの山ともそれぞれ1日で登ってしまったため,かなり時間が余った.ここでは,そんな暇な時間を使って B.C.の周辺を散歩した時のことなどを思い出すままに綴ってみた.




6月8日(月)快晴  ヘリコプターでの遊覧飛行の末,ハンガールの B.C.予定地に着く.9割方雪の残った広い谷底で,所々褐色のツンドラが島のように顔を出している.B.C.もそういった島のひとつに建てた.地面には直径10cm程の巣穴がいくつか開いている.辺りを見回すと草地の所々にリスみたいな奴等がいて,こちらを伺っている.もっと近くで見ようと,B.C.の2つ北隣の島の見晴らしのいい小丘の上にマットを敷いて居を構え,再び周囲を見回した.20m程離れた草の陰に1匹,隣合った周囲の島じまにあと3匹いて,みんなこちらをじっと見ている.バレリャによれば,こいつらは地リスの類で,地元では“ユーラシカ”(ивражка)というそうだ.エゾリス程の大きさの黄褐色のリスで,しっぽが大きく,耳は小さく,丸まるとしていて美味そうである.
 さて,辺りは見知らぬ侵入者のために緊張感が張りつめていて,何かしようものならすぐに巣穴に飛び込むぞ,という気持ちがひしひしと伝わってくる.こういう時にはからかいたくなるのが人情である.そこで一番近くの(一番おびえている)奴に注目した.彼は恐怖と,生まれて初めて遭う(?)2本足直立動物を見たいという好奇心が葛藤しているのか,短い周期で頭を上げたり下げたりピコピコやっている.僕はさっと身を伏せて彼の視野から隠れた.彼は少し間をおいて,ぴょこっと頭を上げてこちらを見ようとする.ひょいと身体を起こしてやると,あわてて頭を引っ込め再び草葉の陰からじっと見つめている.次に僕は彼の気をひこうと,静かに立ち上がり怪しげな踊りを踊り始めたが,彼は顔色一つ変えず静かに見つめているので何だか気まずくなり,やめてしまった.奴等は僕の動きには敏感で,ちょっと身体を起こしたり近づいたりするとピリピリと緊張するが,音に関してはどうでもいいらしく,くしゃみしたり屁をこいたりしても全く反応しない.  そうこうしているうちに,アーラおばさんの昼ごはんの時刻も迫ってきたので,僕はすっと立ち上がり, B.C.へ帰ろうとした.その瞬間,彼は「チチッ」と叫び,しっぽを強く震わせてから巣穴に飛び込んでしまった.それを見た隣の島の奴がしっぽを振り,それを更に隣の島の奴が見てしっぽを震わせた.ほんの1〜2秒の間のことである.奴等は巣毎に見張りを置き,敵が近づくとしっぽを震わせて巣間で危険を知らせ合う“のろし作戦”をとっているらしいのだ.僕は奴等のコミュニケーション法の一部をかいま見て,何だかとても得した気分で B.C.に戻った.




 昼めし後も何もやることがなく,昼寝にもうんざりしていたので,スキーをはいて少し遠くまで散歩に行くことにする.連日の日射しのせいで雪が腐っていて新雪でもないのにすねまで潜り非常にかったるい.ツンドラの島のそこここでユーラシカがいたちのように立ち上がったりしっぽを震わせたりしている.歩けどもキツネやオコジョの足跡も無ければ空を舞うワシタカの姿もない.この季節,奴等には天敵がいないのだ.ツンドラはまさにユーラシカ・パラダイスであった.奴等の他には,ヒバリのように鳴きセキレイのように尾を振る白黒の鳥と,喉の赤いチドリのような奴等がうろうろしている.時々ヒグマの足跡を横切る.雪の上にはまだ巣の埋まっているユーラシカの穴が開いていて,ウサギのを小さくしたような足跡が出入りしている.僕は午後の大いなる安らぎの中をサクサクと東へ歩いた.  しばらく行ったところで,排便がてらそのままの姿勢でしばらくツンドラをじっと見ていた.パセリを脱色して乾燥させたようなコケ(地衣)がいっぱいあって,コケモモと混じり合っている.何やら綿みたいなのがふわふわしていて,どうやら矮生柳の去年の実のようだ.白い毛の密生した冬芽もたくさんあるがまだ芽吹いていない.そのほかにスゲのような枯れ草がちらほらあるだけで変化に乏しい気がした.  小尾根を巡って,沢の源頭のようなところへ降りると沢の奥に今まで見えなかったキリリとした黒い岩山が見えてきた.さして遠くないのだが,小さな峠を隔てた向こうで顔を覗かせている.そろそろ引き返す時刻にあった僕にはしかし,ずいぶん遠いようにも思えた.記念に写真を1枚撮って,石を採集して帰路に着く.一層腐った雪の中を歩き B.C.に着いたときには,もうみんな夕食後の茶も飲み終えていた.




6月9日(火)快晴  ハンガールへのアタックを終え昼めしを食った後に,日下と二人で南の谷まで散歩に行く.B.C.から見えていた丘を越えると南西へ下る谷の源頭である.ヒグマのトレースを横切りながら滑降し,最初に流れが顔を出す所まで行った.その辺りだけ涼しい風が流れていて,とても気持がちいい.矮生柳もここでは既に芽吹いていて,白い毛のいっぱい生えた鮮やかな緑色の葉をつけている.水っぽいせいか,スギゴケも生えている.周りの斜面にもミヤマハンノキらしき小潅木が生えているのが見え,下に来たなという気がしてちょっと嬉しい.更に谷の下の方では心なしか緑がかった林が広がっていて,カッコウの声なんぞが聞こえてくる.そこまで行ってどんなところか確かめたいのだが,とても散歩がてらにふらっと行ってくるような距離ではない.今日はここまででよしとして,少しぼーっとした後かったるい斜面をへいこら登り返すことにした.  丘まで登り返すと,日下は外輪山の方へポコポコ登りだした.僕はチーズのかけらをあちこちの石の上に置いて,ユーラシカが食べに来るかじっと待ってみた.ところがどうしたことか,奴等は一向に姿を現さない.結局日下が随分登って降りてくるまで1匹も頭すら見せなかった.僕はひどくくだらないことをしてしまったような気がして,ちょっと後悔しながら B.C.まで戻った.




6月10日(水)快晴  カルデラ湖をアタックし,晩めしを食った後,最後の夜のための酒会が開かれた.お互い今回の感想を述べ,両国の歌を歌い合い,やがていつしか人数も数人に減った頃,僕もそろそろ寝ようと一人食事テントから外へでた.何気なく顔を上げると,何か今までと違う雰囲気に驚いた.既に辺りはとっぷりと陽が暮れていて,濃い霧が広い谷底に沈んでおり,その間から時々見える空には谷を囲む山々が月明かりの中影となってじっと僕を見つめていた.そうしているうちにも霧は動き続け,湧き上がっては山を覆い隠したかと思えばいつの間にかどこかへ引いてしまって,そうすると山々はまた無言で四方から僕を見つめ,酔っているせいもあってか,周囲は静かにめまぐるしく変わった.僕はといえば,じっとしていればいいものを,視線を感じた方へ振り向きながらぐるぐる回ってみたり,写るはずもないのにカメラのシャッターを押してみたり,誰かに言ってみたいけど言ったらみんな消えてしまうような気もして,どうしたらいいのかわからず,そうこうしているうちに霧はすっかりなくなり山々の視線も感じなくなり,周囲はいつものありふれた景色に戻ってしまった.すると僕もなんかもうどうでもよくなってテントに入り間もなく寝てしまった.




6月11日(金)快晴  昼頃来るだろうと思っていたヘリコプターが思いのほか早くやってきた.慌てて食事テントをたたんで,別れを惜しむ間もなく乗り込み飛び上がる.ハンガールを一周してからミリコヴァを目指す.眼下には痩せた岩稜と広い谷が幾重にも重なり視野の果てまで続く.高度を下げれば,ツンドラはやがてカンバ林となり,雪解の清流を従えて浅緑色に染まり,川は幅を増し蛇行をはじめ多くの沼と湿原をつくる.切り立った山々はいつしか丸味を帯び,頂きを下げながら肩幅を広げ丘となって緑濃き平原に消えて行く.僕はカメラには手も触れずただじっと窓から遷りゆく景色を見ていた.山にしろ川にしろ林にしろ,ひとつひとつの要素は北海道のそれらとさして変わるものではない.しかしながらそれらが集まり重なり合いながらつくる広大な「山岳界」は,日本ではもはや決して見ることのできない世界であろう.今僕はヘリコプターに乗って訪れ,物珍しげに周囲を見まわし,そしてまたヘリコプターで去って行く“E.T.”である.しかしいつの日か自分がその世界の一構成員として自分の足と自分の感性で山旅ができるようになれるのだろうか..... 爆音の中窓越しの景色を見ながらそんなことを考えているうちに,ヘリコプターはやがてミリコヴァに到着した.


 
前
カムチャツカ断章:カムチャツカ再訪
次
カムチャツカ断章:ハンガール火口湖散歩
 
 
Copyright © 1996-2024 Academic Alpine Club of Hokkaido