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北大山岳部部報6号

PDF 26MB】【解説

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1937年1月末の(第一次)ペテガリ冬季初登頂作戦の遠征報告がメイン記事。残念ながら途中引き返しだが、これまでにない大企画だった。このあと1943年の成功(部報8号に報告)の前には1940年の雪崩遭難という苦難があるがそれは7号での報告。時代はペテガリまっしぐらだが、冬期のトヨニ、ピリカ、神威岳、1823峰の初登頂記もある。

また海外記録が豪華だ。北千島、中部千島(新知島の新知岳、松輪島の芙蓉岳など初登)、択捉の散布岳初登、樺太の日ソ国境周辺の山散策、ほか朝鮮の冠帽峰、台湾の新高山や合歓山はもちろん、タロコ峡より中央尖山、南湖大山を「蕃人」たちの案内で登り、山稜でゾンメルスキーをやっている。東亜の山へ存分に足を延ばす1930年代。京大が白頭山、大興安嶺、京城帝大や早稲田が冠帽峰を登っている。数年後に迫る世界戦争が無情だ。これらは次回後篇で紹介する。

1935/10月から1938/4月の記録。記事140p、年報119pの合計259p。編集委員は10名の連名。編集後記は葛西晴雄。これまでの部報の挿入写真は、風景が多かったが、今号ではペテガリ隊のキャンプ地での何気ない焚き火の写真など、気取らぬものが増えている。

【時代】
1935年:積雪期、北アルプスでは鹿島槍北壁右ルンゼ(浪速高)、剣岳小窓尾根(立教・早稲田)、東大谷中俣、本谷、池ノ谷右俣(以上立教)、穂高ジャンダルム飛騨尾根(東京農大)などが学生山岳部によって次々初登攀された。北岳バットレス第4尾根初登(東京商科大)もこの夏。1月に加藤文太郎が、立山から針ノ木岳へ黒部横断の厳冬期単独縦走。極地法を身につけたAACKは朝鮮白頭山遠征をする。第5次エベレスト遠征(英)・シプトン隊
1936年:積雪期剱尾根初登(早稲田)、立教大が日本初のヒマラヤ登山ナンダ・コット(6861m)初登頂。京大AACK中部大興安嶺踏査。加藤文太郎北鎌尾根で遭難死。エベレスト第6次隊。ティルマン(英)、ナンダデヴィー初登。バウアー(独)、シニオルチュー初登。世間は2.26事件。日独防共協定。西安事件で国共合作。スペイン戦争。ベルリンオリンピック。
1937年:北岳バットレス第4尾根積雪期初登(東京商科大)、鹿島槍荒沢奥壁積雪期初登(東京商科大)など。第3次ナンガパルバット(独)で16人雪崩死。
世間は遂に蘆溝橋事件、日中戦争始まる、12月の南京陥落後も重慶政府と戦争は続く。スペインではナチスがゲルニカ空爆。
1938年:西穂〜奥穂1月初縦走(慶応大)、前穂北尾根松高ルート初登。北穂滝谷第4尾根単独初登(松濤明)など。第7次エベレスト(英)・ティルマン隊。バウアー(独)、第4次ナンガパルバット。ハウストン(米)、K2。いずれも届かず。ハラーら(独)アイガー北壁初登。世間では国民総動員法施行で戦争体制に。日本軍が重慶空爆、広東占領、武漢占領。ドイツがオーストリアを併合。

● ペテガリ岳ー嚴冬期におけるー
・ まへがき       葛西晴雄
・ 準備         有馬洋
・ 經過         有馬洋
・ 冬期登攀用品に就いて 林和夫
・ 食料ノートより    岡彦一、中野龍雄
・ 氣象について     星野昌平
● 冬の南日高連峰
・ 豐似川よりピリカヌプリ山へ 湊正雄
・ 一月の神威岳        葛西晴雄

●忠別川遡行           石橋恭一郎
● ヤオロマップ川遡行       豐田春滿
● 新しき山旅より
・ 音更川遡行           中村粂夫
・ 蘆別岳北尾根の池        鈴木限三
・ 散布岳             岡彦一
・ ペテガリ・ソナタ        有馬洋
・ 樺太の山雜感          岡彦一
・ 北部日高山脈の旅        山崎春雄
・ 一八二三米峰          中野龍雄
・ 蕃人              岡彦一
● 最近の十勝合宿について
ー冬期合宿覺え書きの一つとしてー 朝比奈英三
● 追悼
・懷舊              伊藤秀五郎
・ 伊藤周一君           福地文平

年報(1935/10−1938/4)
写真13点、スケッチ4点、地図3点

 
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