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北大山岳部部報7号

PDF 20MB】【解説

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戦前発行では、最後の部報。ペテガリの冬期初登を目指して1940年1月、4回目の挑戦中、史上空前の雪崩事故に遭った。その報告書として少数出版された。時代は世界大戦に進む頃。山に行けない絶望的な世相の中、1943年1月、ペテガリの初登に成功するが、その報告は18年後に発行される部報8号に。

また、1938年12月、上ホロカメットク山直下で、山岳部で初めての雪崩死亡遭難があり、7号は事故報告と追悼一色である。これまでの日高へ、未知へという生き生きとした雰囲気が意気消沈してしまっている。

1938.5-1940.10の二年半の記録。遭難報告が二件合わせて49p。記事、寄稿は遺稿を含めわずか3つで17p、追悼が48p、年報100pの合計214p。これまで最も薄い部報だ。版数も少なかったという。編集委員は6名の連名。編集後記は橋本誠二。価格は2円50銭。

【時代】
1938:F.ガスパレク、H.ハラー(墺)(『チベットの七年』の著者)とA.ヘックマイヤー、L.フェルク(独)が共同でアイガー北壁初登。
カシン、エスポジト、チゾニ(伊)が、グランドジョラス北壁直登ルートを初登。第7次エベレストH.W.ティルマン隊(英)、P.バウアー隊ナンガパルパット遠征(独)。C.ハウストン隊K2遠征(米)。いずれも未遂。1月、慶応大・井形健一らが、西穂から奥穂高岳を極地法で攻略。
日本軍重慶空爆、武漢占領。国家総動員法。ドイツがオーストリアを併合
1939: K2遠征。頂上直下230mまで。下山時に隊員ヴォルフとシェルパ3名が死亡(米)。P・アウフシュナイターら(独)がナンガ・パルバットに偵察遠征。2カ所で6000m地点に到達。大戦の勃発で、下山後に隊員4名がイギリス軍の捕虜として拘束されのち脱走してチベットへ。3月、旧制大阪商大パーティが、積雪期の黒部・下ノ廊下横断に成功12月、登歩渓流会の松涛明(17才)が、穂高滝谷第一尾根積雪期初登攀
9月ドイツ軍ポーランドに侵攻。第二次欧州大戦始まる。8月ノモンハンで日ソ戦闘して完敗。

1940:1月、北大・有馬洋ら8人パーティーが、日高山脈のペテガリ岳・札内川で雪崩により遭難
京都大学士山岳会(AACK)が、軍部から解散命令を受ける。
日独伊三国同盟結ぶ。欧州大戦はフランス降伏。ロンドン空爆。

●山登りの危険に就いて 伊藤秀五郎
●十勝上ホロカメツトク山遭難報告 湊正雄
一・緒言
二・遭難経過
三・救援経過
四・遺骸発掘
五・雪崩に関する考察
六・結言
● ペテガリ隊遭難報告
一・緒言
二・ペテガリ隊の準備 橋本誠二
三・ペテガリ隊の行動 内田武彦、橋本誠二
四・一月の捜索 中野征紀
五・アバの建設 中野征紀
六・七月の捜索 原一郎
七・雪崩に就いて 石橋正夫
八・結言
●紀行
三月の忠別越え石狩岳 橋本誠二
遙かなるペテガリへ(遺稿) 清水誠吉
カムイエクウチカウシ山、コイボク札内岳等の山名に就いて 橋本誠二
●追悼
故島村光太郎君の追憶 櫻井勝壽
徳さんを憶ふ 相川修
憶ひ出 本野正一
追憶 朝比奈英三
徳さんの憶ひ出 橋本巌
有馬洋 福地宏平
追憶 湊正雄
戸倉君を憶ふ 林和夫
清水誠吉君を憶ふ 有馬純
近藤達君 橋本誠二
追悼 倉林正尚
羽田君 新美長夫
渡邉盛達君を憶ふ 塩月陽一

年報
1938.5-1940.10
写真二点、スケッチ一点、地図五点

 
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