4.北海道のスキーと山岳 加納一郎(かのういちろう)/1927/北海道山岳会/265頁
加納一郎(1898-1977) 極地探検研究家
大阪に生れる。京都一中から1923(大正12)年、北大農学部卒業。在学中に板倉勝宣、松川五郎らと登山とスキーに打ち込み、この時代の積雪期の先駆的登山家であった。1921(大正10)年、板倉勝宣らスキー部員と「山とスキーの会」を結成、1922(大正11)年、本邦初の山岳雑誌「山とスキー」を発刊、積雪期登山の普及に計り知れない貢献をした。北大卒業後、北海道林務部、朝日新聞、農林省林業試験場などに勤務するかたわら、雪氷や極地研究を行い、多くの著作と今も読み継がれている世界最悪の旅(チェリー・ガラード)」、「アムンゼン探検誌(ロアルト・アムンゼン)」など優れた翻訳書を発表した。1925(大正14)年、日本が初参加した第2回冬季オリンピック(1928年サンモリッツ)に団長として参加した廣田戸七郎らと全日本スキー連盟を創設した。1933(昭和6)年、朋文堂から発刊された雑誌「ケルン」の編集同人として力を注ぎ、さらに1942〜44年まで、登山と探検と極地をテーマとする季刊誌「探検」を朋文堂から発刊した。わが国探検ジャーナリストの草分けであり、第1人者であった。加納の影響を受けた多くの若者達が、北極に南極に活躍し、日本の極地研究を支えた。日本山岳会名誉会員。
内容
扉に「全日本スキー選手権大会記念」北海道山岳会出版とあり、加納らが競技規則を作成し、大会を組織し、運営した日本で最初の全日本スキー選手権大会(1923年小樽)を記念したものと思われる。出版元の北海道山岳会は、1923(大正12)年1月に総裁を北海道庁長官、会長を道庁土木部長として発会した官製山岳会である。登山の大衆化と広大な北海道の土地を内地人に紹介する殖民的な政策から結成された。巻頭に十勝岳厳冬期初登頂のメンバーになるなど山仲間であった故藤江永次(註)への献辞がある。
記念誌と銘を打っているが、全編いずれも加納の著作からなる。内容は、スキー場とそのアクセス、スキーツアー、旅行の注意などからなる「スキー地としての北海道」、羊蹄山、ニセコ、十勝岳など自身がスキーで登頂した14峰の登山記録「北海道に於ける積雪期の登山」、“詩-奥手稲にて”のほか、スキー部員による手稲山の冬季初登頂以後の思い出などを収めた「紀行」、板倉勝宣の追悼、雑誌「山とスキー」で果たした板倉の業績、藤江永次と帽子の思い出、スキー登山の考え方、雪と雪崩など12の小編を収めた「小論」の4編からなる。北大山岳部創立前史を知る好著である。本書は加納の1つの締めくくりとして世に問うた著作とも考えられており(巻末解説:渡辺興亜)、その後は健康に恵まれなかったこともあり、登山から離れてジャーナリストの道を歩んだ。
山岳館所有の関連蔵書
極地集誌 /1941/朋文堂
氷雪圏の記録 /1947/山と渓谷社
極地を探る人々 /1950/朝日新聞社
未踏への誘惑 /1956/朋文堂
山・雪・探検 /1958/河出書房
極地の探検・南極 /1959/時事通信社
極地の探検・北極 /1960/時事通信社
わが雪と氷の回想 /1969/朝日新聞
極地探検・未知への挑戦者たち /1970/現代教養文庫
山・雪・森 /1981/岳書房
極地の探検 /1986/教育社
自然の中で /1986/教育社
加納一郎著作集 全5巻/北村泰一他編集/1986/教育社
加納一郎翻訳書
アムンゼン探検誌/ロアルト・アムンゼン/1942/朋文堂
北極圏と南極圏/ユーリン・ベルトラム/1942/朋文堂
世界最悪の旅/チェリー・ザラード/1944/朋文堂
南極に挑む/ポール・フレージャー/1960/時事通信社
極点浮上/ジェームス・カルバート/1961/時事通信社
極地探検の歴史 白い道/ローレンス・カーワン/1971/社会思想社
両極/ウィリー・レイ/1971/タイム・ライフ・インターナショナル
山岳館所有の加納一郎関連雑誌
山とスキー1〜100号/1922〜1927/山とスキーの会
探検1〜5号/1942〜44号/朋文堂
ケルン 復刻1〜10号/アテネ書房
(註)藤江永次(1902-1924)
京都に生れる。京都一中で今西錦司と同級。今西とは中学4年の時、燕-常念-槍-穂高を縦走するなど、大の仲良しであった。1922(大正11)年、北大予科に入学、同時にスキー部に入る。1923(大正12)年5月、佐々木政吉らと雄冬岳-浜益岳-群別岳-暑寒別岳、同年7月、音更川-石狩岳-石狩川、1924(大正13)年1月、伊藤秀五郎らと十勝岳厳冬期初登などの記録がある。
1924(大正13)年12月、北大スキー部の合宿中に初年班リーダーとしてニセコアンヌプリに登り、下山中に転倒した際ストックが左眼に当たり負傷、直ちに北大病院へ運ばれたが、4日後脳膜炎を発症して急逝した。「山とスキー」第48号は、藤江の追悼号である。
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日本山水紀行/大町桂月/1927 |
黒部渓谷/冠松次郎/1928 |