17.銀嶺に輝くー報告と追悼 東京帝国大学運動会スキー山岳部/1930/164頁
剣沢に逝ける人々 東京帝国大学山の会編著/1931/梓書房/195頁
東京帝国大学スキー山岳部(Tokyo Imperial University Ski Alpine Club = TUSAC)
TUSACは1923(大正12)年に誕生した。1930年代頃までの部には他の大学山岳部には見られない特色があり、これが後年まで続く自由闊達で体育会系運動部によくある上下関係の少ない、TUSACのチームカラーの源をなしている。そのひとつは、TUSACが旧制高校山岳部で既に第一級の登攀経験をもち、日本の登山界を代表する錚々たる群雄の集まりで、山仲間ではあっても上下関係のないサロンであったこと、もうひとつ、私大のように予科〜大学という一連の続きがなく、また例えば三高〜京大といった特定高校との結びつきもなく(一高〜東大というのも戦後の神話)広く全国の高校から集まったため、先輩・後輩という意識があまり生まれなかったことである。(東大運動会スキー山岳部ホームページより)
戦後は1959(昭和34)年10月の滝谷遭難で6名の部員を失うという悲劇があったが、海外に積極的に挑戦、1963年バルトロカンリ(7312m)、1965年キンヤン・キッシュ(7852m、遭難発生のため撤退)、1971年チューレン・ヒマール(7371m)、1980年シブリン(6543m)、1984年K7(6943m)などの登攀に成果を収めている。
内容
1930(昭和5)年1月、TUSACのOB窪田他吉郎、田部正太郎、その岳友松平日出男、慶応大学学生土屋秀直、芦峅寺ガイド佐伯福松、佐伯兵次の6名が、剣岳登頂を目指して剣沢小屋で天候の回復を待っている時、大雪崩に襲われた小屋が壊滅、睡眠中の6人全員がその小屋の中で遭難死した。 1月20日、第2回捜索隊により全員の遺体が収容されたが、遭難から10日以上経っていたにも拘らず、窪田氏は収容直前まで生存していたことが分った。さらに遭難から4ヵ月半経った5月末、TUSACのメンバーが遭難跡から田部氏と窪田氏の手帳を発見、この手帳から遭難が1月9日であることが判明した。この二つの手帳は、遭難とその後の状況の説明と、近しい者達への遺書であり、遭難した両人の誠実な人柄を物語っており、死に直面した人間の悲痛な心境をありのままに伝えている。
「銀嶺に輝く−報告と追悼」は、TUSACが遭難のあった年の7月に発行したもので、山行のための準備から遭難に至るまでの報告、雪崩発生の原因、捜索状況、遺書の解読、多数の写真からなる“報告”、窪田、田部両君の経歴、思い出などの“追悼”の2部から構成されている。雪崩の原因については、鶴ヶ御前(2776.6m)手前のコルから発生した乾燥新雪雪崩が、約400mの落差を流下して小屋を直撃したものと考えられた。
「剣沢に逝ける人々」は、遭難に対する社会的反響が大きかったこと、「銀嶺に輝く」の購読希望者が多く、用意した600部では間に合わなかったことから、OB会である山の会が前著の報告を整理、一部訂正し、前著に入っていなかった他の4名の追悼も入れて、梓書房から翌1931(昭和6)年1月に発行した。
山岳館所有の関連蔵書
滝谷-1959年10月6日/TUSAC/1960
バルトロ・カンリ1963/東京大学カラコルム遠征隊/日本放送出版協会
キンヤンキッシュ1965/東京大学カラコルム遠征隊/茗渓堂
K7初登頂/TUSACカラコルム学術登山隊/1987
チューレン・ヒマール仮報告書/東京大学ネパールヒマラヤ遠征隊/1971
山と友/1981/東大山の会五十周年記念/東大山の会
輝けるときの記憶-山と友?/2000/東大山の会七十五周年記念誌編集委員会
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上越国境/角田吉夫/1931 |
北海道の山岳(登山案内)/編者代表田中三晴//1931 |