23.氷河と万年雪の山 小島烏水(こじまうすい)/1932/梓書房/406頁
小島烏水(1873-1948)、登山家、文芸批評家、浮世絵研究家
高松市に生れ、のち父の勤務の関係で横浜へ移住。明治25(1892)年、横浜商業学校卒業し、横浜正金銀行入行(のちの東京銀行)。早くから文筆に興味を持ち学生時代は雑誌「学燈」を編集、卒業後は勤務のかたわら文芸雑誌「文庫」記者として活躍、明治30年代の青年文壇にあって文芸批評、社会経済批評、山岳紀行を精力的に発表。
明治27年に発行された志賀重昂「日本風景論」の未知の高山の紹介記事に触発されて、当時ほとんど知られていなかった中部山岳に足跡を印した。明治32年、かねてより念願であった本州縦断の山旅に出て、保福寺峠、稲倉峠、諏訪湖を経て木曽街道を下り、翌年には高山から乗鞍岳に登っている。明治35年8月、岡野金次郎と共に白骨温泉から霞沢を越えて槍ヶ岳に登り、この時の紀行「鎗ヶ岳探検記」を「文庫」に連載して当時流行し始めた登山熱を高揚させた。明治36年、「日本アルプス 登山と探検」の著者、W.ウェストンと偶然のことから知り合い、彼の助言をうけて明治38年10月、仲間7人と共に日本山岳会(当初はイギリスのアルパインクラブに倣って単に山岳会と云った)を創設して初代会長となった。
「日本アルプス」全四巻を刊行後の大正4(1915)年、正金銀行サンフランシスコ支店ロスアンゼルス分店長として渡米、のちサンフランシスコ支店長に昇格、昭和2(1927)年まで11年余アメリカに在勤した。滞米中にはヨセミテ渓谷、シャスタ、マウンテン・フッド、ベーカー峰などに登る。本書「氷河と万年雪の山」(1932年)は烏水のアメリカ生活がもたらした記念碑的著作である。
浮世絵、西洋版画の収集・研究のパイオニアとしても知られ、著書に「浮世絵と風景画」「江戸末期の浮世絵」がある。収集品の内900点余りは横浜美術館に収蔵されている。1948年12月23日没、74歳。
内容
本書は小島烏水が滞米中および帰国後に執筆した紀行・随想・研究18編が収められている。「序」で「米国の山々と、日本の山々を、同じ綴りのもとに閉じ合わせて、かの氷河と、わが万年雪との間に、全般は同じうせざるも、一味相通ずる宿命的関係を看取しようと試みたのである」と述べているように、彼の日本アルプスでの登山、氷河地形研究の延長線上でアメリカ西部の山々を登っている。
本書前半の「米国の『山岳氷河』」「氷河の谷から万年雪の山へ」「シェラ・ネバダと飛騨山脈の比較」「火と氷のシャスタ山」「フッド登山」「ベエカア山の氷河登攀」「ベエカア山氷河手帖」「山と氷河の古本を漁る」「氷触のロッキー山」は、氷河を持つ山々の探索と研究に充てられている。多忙な業務の合間を縫ってサン・ゴルゴニオ、ヨセミテ渓谷、レイニア、シャスタ、フッド、ベーカーの山々に足跡を印した。冒頭の3編は日本アルプスとの比較研究で、烏水の永年のフィールド・ワークの積み重ねの成果である。
「米国の『山岳氷河』」冒頭で、シェラ・ネバダ山脈に「生きた氷河」を発見したジョン・ミューア(John Muir,1838-1914)の業績を称え、日本においても山崎直方が明治35(1902)年に「氷河はたして本邦に存在せざりしか」と氷河問題を提起したことを紹介している。
「日本アルプスから送られて、私はシェラ・ネバダに来た。かつてはラスキンを読みふけった私は、シェラの氷河の発見者であるところの、ジョン・ミューアを思慕するようになった。『山への門戸は、私に終局を知らない新生涯を開いてくれた。』といったのはラスキンであるが、山への門戸が、終局を知らない氷河の新生涯を開いたのは、ミューアである。ミューアこそは拝氷教の使徒である。それを開いた山は、シェラ・ネバダである。『カアル氷河』の残存することによって、日本アルプスのありし姿を、世界のいずこの山岳よりも、よりよく彷彿させてくれることによって、私は年々シェラ・ネバダの高地帯へと分け入る。漂石の一小片は、私を神秘のシェラ氷河へとおびき出す役目の、山鳩であった。」
烏水が氷河問題に興味を持ち始めたのは明治三十年代にさかのぼる。「日本アルプスの雪蝕地形論」で氷河とのかかわりについて次のように述べている。
「山崎直方博士が『高山の特色』を、東京地学協会で講演せられた時には、私は聴衆の一人、しかも恐らくは、最も熱心なる一人であったと信ずる。同氏の一言一句を味わひ、同氏の示された薬師岳のカアル、白馬岳のスケッチ、又欧州アルプスの写真などに、どのぐらゐ、胸を躍らしたことであろう。(中略) 結局私は、日本アルプスの疑似氷河地形をもって、萬年雪の蝕削せる地形と判断した。即ち氷蝕説の代わりに、雪蝕説を立てたのは、明治四十四年十一月の『山岳』雑誌第六年第三号に載せた『日本アルプスと万年雪の関係』なる一文に於いてであった」
さらに日本の氷河について,「カールは、私の見るところ、万年雪の浸蝕作成したもので、他のU字谷、堆石、吊り懸け谷も万年雪の副成に係はるのである。」と、カール雪蝕説を結論づけている。烏水のこの説は、現在の万年雪浸食作用の考え方とは異なるが(註)、地質、雪氷に全くの素人の銀行員が、科学的な眼で自然を緻密に観察し、徹底的に研究し、しかも全く的外れとはいえない結論を得ていることに、やはり一通りの登山家ではなかった、との思いを強くする。
「日本アルプス縦横」では日本アルプスの名称についての歴史的考察をし、命名者はイギリス人のお雇外国人で冶金技師ウィリアム・ガウランドであることを史実を挙げて証明している。この章は日本アルプスの歴史について、貴重な証言集となっている。
「槍ヶ岳の昔話」は志賀重昂の死に接して、また老境にあるウェストンの生涯を思いおこして書かれたもので、二人の恩師によせる敬愛と感謝の念がこめられている。1913年11月、英国山岳会の重鎮、ダグラス・フレッシュフィールドを迎えての日本山岳会の晩さん会でこの3人が会した逸話を紹介している。フレッシュ・フィールドは、当夜の楽しかった会合を英国の「アルパイン・ジャーナル」に記述したのみならず、のちに主として日本の山の紀行を集め「雪線以下」(Below the Snow Line)と題して出版された本の中でもふれている。
「木曽街道の錦絵」は、けわしい山道の多かった木曽街道(中山道のこと)は東海道に比べて紀行文や絵画が少ないが、その中でも英泉、広重の筆になる「木曽街道六十九次」は傑作で、特に英泉の「木曽路駅野尻伊奈川橋遠景」は優れていると評している。浮世絵に造詣の深かった烏水らしく、自身も訪れた木曽街道の景観を絵画的に観察している。
山岳館所有の関連蔵書
The Japanese Alps /Weston.W/1896/John Murrey
The Play Ground of the Far East/Weston.W/1918/John Murrey
Below The Snow Line/Freshfield,D.W/1923/Constable & Co.
不二山 小島烏水/1905/如山堂
日本山水論 小島烏水/1907/隆文館
山水無尽蔵 小島烏水/1906/隆文堂
山岳趣味 小島烏水/1928/毎日新聞社
氷河と万年雪の山 小島烏水/1932/梓書房
偃松の匂い 小島烏水/1937/書物展望社
山谷放浪記 小島烏水/1943/青木書店
山岳文学 小島烏水/1944/大洋出版社
山の風流使者 小島烏水/1949/岡書院
小島烏水全集 全14巻/編集近藤信行ほか/1979〜1986/大修館
日本アルプス 1〜4 小島烏水/1975/大修館(復刻版)
アルピニストの手記 小島烏水/1975/三笠書房(復刻版)
日本風景論 志賀重昂/1894/政教社
日本山嶽志 高頭仁兵衛/1906/博文館
日本アルプス登山と探検 W.ウェストン/岡村精一訳1933/梓書房
小島烏水‐山の風流使者伝 近藤信行/1978/創文社
山岳第1年1号〜3号 日本山岳会/1906
(註)雪食作用[ニベーション]nivation
雪の働きによって生じる浸食作用をさす。残雪や越年性(多年性)雪渓の周縁部では、凍結融解の繰り返しによって岩石が破砕され、岩片は融雪水によって運び去られるので、雪食凹地(雪窪)と呼ばれる浅い凹地が作られる。また積雪層のグライドや底ナダレは、岩盤の表面をわずかに削り取る。雪食作用はこのような浸食作用の総称であるが、残雪や雪渓の周縁で生じている凍結風化であって、積雪が直接、浸食作用をしているわけではない。(日本雪氷学会「雪氷辞典」)
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