29.日本アルプスへ 日本アルプス縦走記 窪田空穂(くぼたうつぼ)/1934/郷土研究社/294頁
窪田空穂(1877-1967) 歌人、国文学者
長野県和田村(現松本市和田)に生れる。本名窪田通治。旧制松本中学(現松本深志高校)卒業、東京専門学校(現早稲田大学)在学中に一時退学して、小学校代用教員を勤めるかたわら歌作に励む。与謝野鉄幹に認められて新詩社社友となる。「山比古」「国民文学」の創刊にたずさわり、短歌、小説、紀行、古典評釈などを発表。1905(明治38)年、処女詩集「まひる野」を発表し、歌人としての第1歩を踏み出した。この間、電報新聞(のち東京日日)、国木田独歩経営の独歩社、婦人クラブ、読売新聞と記者生活を転々とし、私立女子美術学校(現女子美術大学)の教員も勤めた。1920(大正9)年、母校早大文学部に国文科が創設されたのを機に招かれて講師となり、1926(大正15)年、教授となる。早大時代に万葉集、古今和歌集、新古今和歌集の三大評釈を著す。著書に歌集「まひる野」他、小説集「炉辺」、「窪田空穂文学選集」など多数。1943(昭和18)年、日本芸術院会員。1958(昭和33)年、文化功労者
内容
本書は、1916(大正5)年「日本アルプスへ」、1923(大正12)年「日本アルプス縦走」として出版された2冊の紀行文集を1冊にまとめて1934(昭和9)年に再版したものである。いずれも旅の具体的な様子がうかがわれる楽しい紀行集である。山岳館所有の関連蔵書
松本の在に育った空穂は、山好きの歌人として知られる。「日本アルプスへ」は37歳の時(大正2年)初めて、少年の頃から心魅かれていた日本アルプスへ登った時の紀行である。友人の谷紀三郎と徳本峠を越えて上高地へ入り、ガイドに先導されて槍沢から槍ヶ岳を目指すが、悪天候に災いされて槍の肩から退却、目的を変更して焼岳に登った時の紀行である。「徳本峠越え」「上高地の渓谷」「田代池」「明神池」などは、1915(大正4)年の焼岳の噴火と大正池出現以前の上高地の自然を描いたものである。
上高地の清水屋で3人の友人、茨木猪之吉(山岳画家)、真山孝治(画家)、高村光太郎(彫刻家、詩人、画家) に偶然遇う。夜は彼らとランプの下で話に花が咲く。そのとき、廊下から高い訛のある声で、“婦人が病気で寝ているから、話し声を遠慮してくれ”と言う趣旨の要求をされる。その人は隣室に滞在中のかの有名なウェストンであった。空穂は「まだ宵の口のことだ。それほどまでにいはなくてもいいだろうという気もした。『毛唐というものは‐‐‐』なんという陰口も出た。が、茨木君も高村君もウェストンに交際を持っていた。そして、ウェストンのこの山に対する位置を聞くと、遠慮するのも当然という気がした。」と1度は気を悪くするが、素直に反省する。
この山旅から9年後、空穂46歳の1922(大正11)年7月、友人で日本山岳会会員の横山光太郎と烏帽子岳、槍ヶ岳間を縦走する。7日間の旅を100ページ余にまとめたのが「日本アルプス縦走記」である。この旅で前回果たせなかった槍ヶ岳登頂を果たすことができた。硫黄沢乗越しに1泊し、槍ヶ岳に向かう日の朝見た穂高岳と槍ヶ岳を、歌人の細やかな感性で次のように描写している。
「穂高岳! なんといふ威厳を持った山だ。その青黒い裾を大地の底深く据えて、空に溢れあがり盛り上がった山は、中腹以上はすべて真裸の赤岩をしている。そしてその赤岩の峰を幾つかに分って、起伏させている。その尖った峰、峰から峰を続けている狭い尾根は、空に乱して捧げている刃物のやうな鋭さを持っている。上高地から見た穂高岳は、威容を持っていた。威厳と共に品位を持っていた。ここで見る穂高岳は、威厳というよりも威力その物である。大地のつつんで持っている限りない力が溢れ出して、そのまま空にとどまったがやうである。
槍ヶ岳! なんといふ奇怪な姿だ。これは南から北へ亘った、屏風を立てたような山だ。山といふより山脈だ。こちらの面は、削り取ったやうな崖で、そしてその面は直ちに硫黄岳、硫黄沢となって、一面の赤をまじへた黄色い谷である。頂のない山は、鎌尾根といふ名をそのままに、大鎌の刃のやうな尾根を空へ向けている。その尾根の上に据わっている『槍の穂』は、ここから見ると、奇怪の上に重ねた奇怪なものに見える。」
山旅の素描/茨木猪之吉/1940/三省堂
日本アルプス紀行/1941/窪田空穂/二見書房
(註)
高村光太郎
茨木猪之吉を参照
真山孝治
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