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30.わが山山 深田久弥(ふかだきゅうや)/1934/改造社/324頁


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箱と表紙
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燧ケ岳(三平峠より)
燧ケ岳(三平峠より)
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奥手稲のヒュッテ
奥手稲のヒュッテ


深田久弥(1903-1971) 作家、登山家
 石川県大聖寺町(現加賀市)に生れる。旧制福井中学(現福井県立藤島高校)から第1高等学校に進学。旅行部のメンバーと共に、登山、スキーに励み、また文芸部では堀辰雄、高見順と知り合う。1926(大正15)年、東京帝大に入学、哲学科に在籍しつつ改造社に勤務、「現代日本文学全集」「改造」の編集に従事、また「文学」「文学界」同人として活躍する。「オロッコの娘」などの小説が好評だったことに勇気を得て、1930(昭和5)年、大学と勤めを辞めて文筆生活に入る。戦後、離婚問題などから10年近くの雌伏生活を余儀なくされるが、その後、内外の山の紀行やエッセイ、特にヒマラヤ研究に精力を傾注した。
 深田は、膨大な山の作品を残したが、その中で双璧は、1959(昭和34)年から1963(昭和38)年にかけて雑誌「山と高原」に発表し、その後上梓されて第16回読売文学賞を受賞した「日本百名山」、1953(昭和28)年から死に至るまで雑誌「岳人」に書き続けた「ヒマラヤの高峰」である。1960年代から中央アジアを旅行し、紀行・探検記を著した。1958(昭和33)年には山川勇一郎(画家)、古原和美(医師)、風見武秀(写真家)と3ヶ月に亘りジュガール・ヒマール、ランタンヒマールを踏査し、我が国のライト・エクスペディションの先鞭をつけた。知床から屋久島まで、日本の山のサミットをこれほど広範囲に踏んだ登山家は数多くない。 1968(昭和43)年、日本山岳会副会長。1971(昭和46)年、登山中の茅ヶ岳(1704m)で脳卒中のため急逝。同郷の中谷宇吉郎は、幼稚園、小学校、大学の先輩。

内容
 本書は、深田の膨大な山に関する著作のさきがけとなる山岳紀行随想集である。1929(昭和4)年ごろから5年間ほどに、新聞や雑誌に掲載した紀行及び随筆29編を収めている。著者自身による「あとがき」に、本書発行への思いを謙虚に次のように記す。
 「僕は文壇では山岳家などと称せられているが、まだまだそんな資格はない。ただ子供の時から山が好きで今に至るまで気のむくままに山へ登っているといふことだけで、別に学問的な研究もなければ輝かしい登攀の記録もない。なまじいに売文渡世をしているばかりに、需められるまま山やスキーのことを書いてきたが、今一冊の本に出すとなると何かきまりの悪い思いがするのである。‐‐‐」
 白山の麓、加賀市大聖寺に生れた著者は、「加賀の白山」の中で、冬の晴れた日に小学校の門前から白銀に輝く山を見て、「子供心にもあゝ美しいと本当に思った」と述べているが、幼少の頃からあけくれ仰ぎ見た、この<ふるさとの山>に対する想いは、なみなみならぬものがある。

 「雪の札幌付近」は、1934(昭和9)年3月に津軽海峡を初めて渡って、“樹氷咲く壮麗の地”に感激する。友人らと国鉄奥手稲山の家(註1)に4日間滞在し、パウダースノーでのスキーを満喫したのち、パラダイス・ヒュッテに寄って帰札する。札幌では、伊黒正次(註2)らオリンピック選手の練習を北大シャンツェで見て(註3)、さらに近くの大倉シャンツェを見学し、スキージャンプの壮快さに驚く。いたる所にジャンプ台が見られ、子供がジャンプを楽しむ姿にも驚きを隠せない。
 「円山で始め小学校の生徒の飛ぶのをみたが、鮮やかなものだ。こんな中からあるいは将来世界一のジャンパーが出るのかも知れないと思うとそんな子供達さへ何か尊敬に似た気持ちを感じるのであった。‐‐‐」
 最終稿の「山に逝ける友」は、大学1年の時、八ヶ岳縦走を終って、通常ルートを外れて本沢温泉へ出ようとして雪渓で滑落死した友人、吉村恭一の追想である。いつの遭難でもそれに立ち合った者の心には、消えない傷が残る。
「すべての過失は僕の軽率と不注意にあった。僕はご家族のことを思うと、今も尚自ら責めずに居られない。しかし、吉村を想い浮かべると、あの人なつこい笑顔が、今は僕を悲しませる代わりになつかしい想い出で微笑ませてくれる。そして僕は例の冗談でも言いながら、朗らかな気持ちで彼の肩でもたたいてみたい気になるのだ。‐‐‐」
山岳館所有の関連蔵書
わが山山/1934/改造社
富士山/1940/青木書店
山の幸/1940/青木書店
峠/1941/青木書店
山頂山麓/1942/青木書店
四季の山登り‐その魅力・想い出/1956/社会思想研究会
ヒマラヤ 山と人/1956/中央公論社
雲の上の道 わがヒマラヤ紀行/1959/新潮社
氷河への旅 ジュガールヒマール探査行/風見武秀共著/1959/朋文堂
わが愛する山山/1961/新潮社
マチャプチャリ ヒマラヤで一番美しく嶮しい山/W.ノイス/翻訳/1962/文芸春秋新社
シルクロード/1962/角川書店
山があるから/1963/文芸春秋新社
日本百名山/1964/新潮社
山岳遍歴/1967/番町書房
瀟洒なる自然/1967/新潮社
雪白き山/1969/二見書房
シルクロード 過去と現在/1969/白水社
山頂の憩い/1971/新潮社
シルクロードの旅/1972/朝日新聞社
中央アジア探検史/1973/白水社
世界百名山‐絶筆41座/1974/新潮社
九山句集/1978/卯辰山文庫
ヒマラヤの高峰/1978/朝日新聞社
ヒマラヤ登攀史−八千米の山々-/1979/岩波書店
山岳展望/1982/朝日新聞社
山さまざま/1982/朝日新聞社
深田久弥山の文庫1-6/1982/朝日新聞社
世界山岳全集1〜13/共同監修/1960/朋文堂
ヘディン探検紀行全集1〜15、別巻1〜2/共同監修/1979/白水社
ヒマラヤの高峰1〜5/1964/雪華社、1983/白水社
エヴェレストへの長い道/世界教養講座/1998/シプトン、E 翻訳/平凡社

)国鉄奥手稲山の家
1930(昭和5)年、札幌鉄道局が旅客誘致を目的に建設した山小屋で、最大80名収容できる当時としては国内で最も設備の整った山小屋であった。電話が引かれ、冬は照明設備により夜間スキーが楽しめた。戦後、国鉄より北大に譲渡され、現在は“奥手稲山の家”の名称でワンダーフォーゲル部が管理する。
)伊黒正次
北大スキー部OB、戦前に活躍したスキージャンパー。1936年ガルミッシュパルテンキルヘンで開かれた第6回冬期オリンピックのジャンプ競技で第7位となる。
)北大シャンツェ
1932(昭和7)年、北大スキー部が建設した練習用ジャンプ台。山の会会員中村(昭和33年入部)の宅地に接する斜面に痕跡を残す(中央区宮の森)。昭和60年頃までスキー部競技班の合宿所が近くにあった。ジャンプ台跡を含む周辺の土地は北大の所有地であったが、近年民間に売却された。
 
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