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21.山の素描 黒田正夫・初子(くろだまさお・はつこ)/1931・山と渓谷社/276頁


Highslide JS
表紙
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扉、墨絵は三の窓
扉、墨絵は三の窓


黒田正夫(1897-1981)雪氷学者、登山家
  東京に生れる。一高を経て東大工学部冶金科卒。卒業後、(財)理化学研究所に入所。年少の頃より登山を始め、一高旅行部で本格的登山に打ち込み、北アルプスの高峰をことごとく登りつくした。近代登山の草分けの1人で、若い頃の著書「登山術」では岩登りでの確保(ジッヘル)理論や、スキーのズダルスキー以来の技術を紹介している。初子と1923(大正12)年結婚、「以来、一生の最上の山友達」となる。本業は金属材料学であったが、山に登るうちに雪氷の魅力に取り付かれ、いつしか本格的に雪氷に取り組むようになった。理研黒田研究室を率いて金属に止まらず数々の業績を残したが、その数々の1つが雪氷であった。1950〜1956年、日本雪氷学会会長。
黒田初子(1903-2002)料理研究家、登山家
 東京に生れる。双葉高女を経て東京女子高等師範学校卒。20歳で正夫と結婚後、正夫の指導で本格的な登山を行なうようになった。北アルプスの小槍、剣岳を始めとする数多くの女性としての初登攀や、秩父の渓谷での初遡行などの記録を残している。70年以上に亘り、自宅で料理研究室を主宰、著書に「お料理のレッスン70年」「いきいき90歳の生活術」など。

内容
 黒田正夫、初子夫婦の共著。冬、春、夏、秋、谷、高原の6部21編の紀行、22編の随筆、カラコルム紀行1編からなる。紀行は正夫の大正10年の日記を除き、いずれも夫婦で行なった1925(大正14)年から1931(昭和6)年までの山行記録である。夫婦で外出するだけでも何かと白い眼で見られがちであった当時にあって、夫が妻を伴って体力と技術と精神力を必要とする山行を行なっているところがおもしろい。
 初子は登山を始めた翌年には、笛吹川東澤、西澤を遡行(「笛吹川西澤」)、昭和5年には厳寒の唐松岳へ(「厳冬の唐松岳」)、翌6年元旦には槍の穂を登る(「元旦槍ヶ岳に登る」)。唐松岳の頂上近くでは突風が雪煙を舞い立たせて、山の姿も見えない。「この底力の知れぬ吹雪の集団に対して、戦いを挑むものこそ己を知らぬ痴者である」と決断し、白馬岳への縦走を中断、下山する。この日、剣沢小屋で東大スキー部の6名が、雪崩のために遭難死している(B-17「銀嶺に輝く」「剣沢に逝ける人々」参照)。
 自然をしっかりと見つめた美しい記述からなる本書だけに、「御岳山は荷かつぎの人夫もすれていて、賃金などもぼるし、一体に感じがよくない」(「木曽御岳」)等の、江戸時代に覚明行者によって開山された昔から信仰登山の人々への奉仕を業として来た山人たちへの蔑視とも取れる記述には違和感を覚える。
 
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